データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

四 農事試験場と農学校


 農業試験機関の設立

 民部省勧農局(明治二年八月設置 同四年八月大蔵省、同六年内務省に移管)は、欧米の大農法・西洋農具・外国産穀類蔬菜類などの試験研究機関としてヽ明治四年に霞か関試験場(馬耕機・洋菜類の試験)と駒場試験場(牧畜試験)、明治五年に内藤新宿試験場(牧畜・種芸の試験)、同七年に三田植物試験地、同八年に下総牧羊場、などを相次いで設立するが、これらの官設中央試験場にならい、地方でも明治七年前後から各種各様の試験場が続々と設置されるようになり、本県では明治七年に温泉郡松山堀内町(現在の松山市堀ノ内)に愛媛県種芸試験所が設置された。(のち「種芸試験場」と呼ばれた)
 種芸試験所は、二、八〇〇歩の土地をもち内外の種苗の栽培試験、西洋農具の実験などを実施していたが、明治一一年三月に温泉郡持田村(現在の松山市持田町)に一町四反二畝弱の民有地を購入し、これに五反歩余の土地を購入追加して二町五歩とし、勧業試験場と改称して移転した。

 農学校の設立

 勧業試験場は、植物(主として桑)の栽培法と肥料の効力試験を行うかたわら各種の優良種苗を繁殖し有志に分賦していたが、実態は桑の栽培試験を主体とした養蚕試験場であり、明治二一年から養蚕伝習所と改名された。
 養蚕伝習所は、試験研究のほか、養蚕農家の子弟の教育を行い、多くの人材を養成(通算二二五名)していたが、明治三三年(生徒入学は三四年四月)に本県最初の農学校―愛媛県農学校(大正七年四月松山農学校と改称)の設立にあたり、圃場・施設のすべてを同校に移譲して廃止された。(廃止決定は明治三一年の県会)
 その松山農学校は、昭和四年四月に温泉郡桑原村樽味(昭和一五年八月松山市に合併)に移転、昭和二〇年四月から県立農林専門学校となり、同二四年四月に県立松山農科大学に昇格し、同二九年四月、国立に移管し、愛媛大学農学部と改称された。
 本県に農科大学を設置することは県民の多年にわたる宿願であり、明治三二年に県農会長(有友正親)から文部、農商務両大臣に対して次の建議書を提出しているが、この念願が愛媛大学農学部の新設により五五年後に実現した。

     農科大学を本県へ分置の儀に付建議

   四国は孰れも農業を以て主要の財源とす 然るに農科大学の設置なきは最も遺憾の事柄とす 而して本県は四国に於け
  る最大の県にして、近く中国へ控えて西九洲と相対し 海路汽船に依るときは四時を以て広島に達すへく 五時を以て大分
  に至るへく 後方は高知と腹背して 東香川徳島と相接す 蓋し四国中交通の便なる他の三国の及ぶ能はさる所にして 山
  を望み海に瀕し水質善良 気候温和にして風俗も亦素朴温良にして 農科大学設置に適するを以て速かに之か設置あらん
  ことを
     右本会の決議を経て建議候也
          明治三二年一一月二六日
               愛媛県農会長 有友正親


 農事試験場の創設

 明治三一年の県会で農学校の開設と同時に養蚕伝習所の廃止が決議された翌明治三二年に、府県農事試験場国庫補助法(六月七日 法律第百二号)が制定され、府県の農事試験場の事業を奨励するため、国庫で年間一五万円の費用が補助されることになった。
 養蚕伝習所の廃止は、国のこの方針と時流に逆行するものとして、県農会は総会の議決を経て知事に対して次の建議を行うと同時に、県会議員ほか各方面の有志を対象にして農事試験場設立の活発な運動を展開した。

     農事試験場の設置に付建議

   明治三〇年通常会以来 県設農事試験場規模拡張の建議案を可決して再度建議せり 然るに反て客年通常県会に於て
  農事試験場費を全廃するの非運に遭遇し、遂に中絶したることは県下農業の為め最も痛歎すへき事柄に属す 思うに県会
  決議の趣旨は農事試験場 其のものを否認したるものにあらすして 恐くは既設事業の挙らさるを慨し寧ろ他に建路を需め
  んとするに由りしなるへし 而して本年六月法律第百二号を以て府県農事試験場国庫補助法発布せられ 應に設置の義務
  を明にし大に設立の便益を啓かる 依て明治三三年度を期し再び之か設置あらんことを
     右本会の決議を経て建議候也
        明治三二年一一月二六日     県農会長 有友正親
      愛媛県知事 大庭寛一殿


 組織の総力を傾けた猛運動が奏功し、県会の議決を覆す異例の成果を収め、農事試験場の再建が決定した。(明治三三年二月二六日 設立認可、同年三月三一日 県告示第九七号)
 初年度予算二、六〇四円八〇銭を以て明治三三年四月一日に発足し、当初は温泉郡余土村(現在の伊予鉄郡中線余戸駅の東南地)に本場を置き、周桑郡小松村に東予分場、北宇和郡八幡村(現在の宇和島市)に南予分場が設置された。
 東予分場は明治三八年に養蚕部を新設したが、翌三九年に両分場とも廃止され、業務は総て本場に統合された。その本場も研究課題の増加によって狭隘となり、明治四三年に温泉郡道後村大字道後に敷地圃場、合わせて四町九反歩を求めて移転した。(移転準備は四四年秋に始まり、四五年夏に移転完了)