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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

二 稲作の耕種概要③

 除草用具の種類と変遷

 明治初期の水田除草は、以上のように手取のほか熊手・雁爪・田打転車・八反ビキなどの農具を使用して行われていたが、これらの田掻用具が太一車・八反摺・船形回転除草機へ発展し、明治後期にいたり、ようやく水田除草の体型が確立した。

   (1) 雁 爪(鉄把)
 鉄把は熊手の柄を短くしたもので、雁爪・田掻熊手・草取爪などの別名があり、『福岡県百科事典』(上四五二頁)によると、宝永六年(一七〇九)に同県三井郡国分村(現久留米市)の笠九郎兵衛が、山蟹の爪にヒントを得て考案し命名したとある。本県での使用が前記のように安政年間(一八五四―一八五九)に始まったとすると、考案から約一五〇年の後であったことになる。
 雁爪には大小あり、種々の形があり、爪(把)にも三本・四本・五本の三種があり、爪の屈曲にも緩急に差があり一様ではない。

   (2) か ん ず れ
 北宇和郡中間村(後の八幡村 現在の宇和島市)の篤志家二宮致知が明治一四年に福岡県から水田除草具のかんずれを導入している。同年末に宇和島で開催された第三農区(南予)農談会で二宮はこの農具を「千歯に似た形で、作業能率は早く一日男子で五、六畝 女子で三、四畝の除草ができる」と紹介して注目されている。
 この「かんずれ」は福岡・佐賀地方で言う雁爪(鉄把)と思われるが、前述のように鉄把は松山・今治の近郷では、安政年間から使用され、維新のころには改良された四本爪(四又鉄把)のものも使われていて、明治一四年ころには広く普及していて珍しいものではなかった。
 そのかんずれを遠隔の北九州から購入した経緯は明らかでないが、この時期に南予には雁爪が存在しなかったと考えることが出来る。

   (3) 八反ビキ(八反挽、八反(手へんに曳))
 前記の農談会でカンズレに関連して八反ビキが話題となっているが、その八反ビキが『愛媛県農具図譜』に掲載されている(図2-14)。
 香川県坂出市の鎌田共済会図書館で所蔵されている明治一一年調査の「地方勧業上に関する実況調査」によると、「讃岐国三野、豊田の二郡には、莠を除くに八反挽(一日一人に八反の草を採ると故に方言あり)と唱うる普通馬鍬に似たるものあり、然れども、只三番草迄に限ると云」とある。明らかに水田除草器であるが、香川県高瀬町教育委員会の歴史資料館に保管されている実物によると、幅は一九五㎝、下部の竹爪(まだけ 孟宗竹)の長さ五一㎝、爪の間隔は七・七㎝の農具である(写真2-12)。
 この構造と作業方法では、使用期間を三番除草までに限っても、乱雑植や片正条植の場合は言うまでもなく、完全な正条植の水田でも、稲株や茎葉の損傷は免れず、使用者は稲の生育や収量は無視し、除草の省力だけを目的としていたと思われる。また操作が困難であるために作業強度が高くなり、土質によると長時間の連続使用は不可能であり、さらに使用後に雑草を竹熊手で処理する労力を要し、省力の点でも顕著な効果はなかったと考えられる。
 香川県三豊郡高瀬町下麻裏側(旧三野郡下麻村)の樋笠角治氏(明治二九年一二月一三日生)によると、同氏八才の明治三六、七年ころまで、近隣や善通寺筆岡上組でこの八反ビキで除草をしていた農家があったという。しかし讃岐地方でも広く普及した形跡はなく、本県でもその名は知られていたが、使用された記録は見当たらない。
 この除草器の起源(考案者・考案時期)は明らかでないが、地租改正により、稲作軽視の風潮が台頭した明治八、九年前後に作業を急ぐ大規模農家により省力農具の一つとして考案されたものと思われる。明治三六、七年ころには太一車・八反摺など優れた除草器が開発され普及し始めていたのである。

   (4) 田打転車(三歯)
 明治一五年三月に農商務省で開催された「穀物煙草菜種集談会」に本県から出席した久米郡北久米村の池田輝秀は田打転車について「方言 三歯と称し、従来の除草機に比較して三倍の高能率であり、また明治一四年に同郡の人により爪の湾曲したものも考案され、これによると一日四反歩の除草が可能である」と報告している。
 『農事概要』(明治二一年調査)によると田打転車の作業能率は次のように三又鉄把(雁爪)の四倍になっている。

 三又鉄把 一人一日 一反歩
 田打転車 一人一日 四反歩

 しかしこの田打転車は前記の八反ビキと同様に、不正条植では使用が不可能であり、片正条植あるいは正条植に近い水田でも、麦の刈株、雑草、泥土などが附着して土壌抵抗が強くなり、操作が不便なうえに作業強度が高くなり、長時間の使用に耐え難い未完成の農具であった。
 鉄把に較べ四倍の驚異的な高性能をもちながら「未だ広く行われなかった」最大の理由はこの欠点にあった。

   (5) 八  反  摺
 大正時代の後期から一般的な除草器となった船形回転除草器に先行して普及した除草器に八反摺(写真2-14・15)がある。八反摺が本県に導入されたのは明治三二年と思われる。明治三三年七月に喜多郡南久米村(現大洲市)の一農夫から八反摺につき県農会に対して次の質問が寄せられている。
 「近年温泉郡地方に於て、稲田の除草を行うに八反摺と称する除草器を施用するを見る。之が在来、手を以て行うの法との利害得失に就き敢て実験者の御教示を仰ぐ」(県農会報明治三三年一六号五五頁)
 この質問に対し温泉郡素鷲村(現松山市)の一実験者が見解を交えて次のように回答している。「八反摺は未だ試用中なれば、素より以て満足すべき回答をなす能はざるなり。此の器は徳島県下に於て、専ら用ゆる所のものにして該県の如きは本器を用ゆるが為め、田植の改良大に行いたるを以て本器により労力節約となるのみならず其附随の利益をも収得しつつあるなり。思うに本器は除草の目的に対し、少しも遺憾なく普通手を以てするものに劣らざるなり。然れ共、先づ田植の改良を行い、其寸法に応じたるものを用ゆるに非らざれば、或は遺憾の所あり。余輩、昨年之を徳島県に得て本年之を試む。陰に信ず、農事改良を計る進取的有為の当業者は将に自ら之を試み以て先づ田植の改良を行えば誰か稲田外観に一大刷新を来すのみならず病虫害予防、施肥、培養の便利等少なからず。是を以て直接労力の節約をなし得ると共に、間接の利益を得る。尚彼の徳島県下に於けるが如きを希望する所なり。敢て之れ等を本器使用より来るの利益とす」(同一七号五九頁)
 この回答によると、八反摺は正条植の先進県である徳島県下で田植の改良と並行して早くから普及していた除草器で、本県にはその徳島県から明治三二年に伝わり、最初の導入者はこの温泉郡素鵞村の篤志家であったと思われる。
 八反摺除草は正条植と一体の技術で、正条植と同時に、またはその直後に始まった除草法である。県内で本格的な正条植が始まったのは明治三〇年で、発祥地は今治近傍であったが、翌三一年から温泉郡内でも開始され、先進の今治地方をしのぎ松山近郷で急速に普及した。今治地方には記録がなく、前記の「近年温泉郡地方に於て……」の質問文から推察すると八反摺は温泉郡内で正条植の開始から一年遅れて明治三二年から使用されるようになったと考えられる。

   (6) 太一車と船形回転除草機
 各種の田打転車が全国各地で考案試作されていた明治二五年に、鳥取県の老農中井太一郎(東伯郡小嶋村大字中河原)により実用的な回転除草器が考案された。太一車(図2-17)の通称で各地へ急速に普及し、その数は不明であるが本県でも各地で導入された。太一車は凡百の田打転車に比較して著しく優れていたが、除草効果のうえで多少の問題を残していた。この太一車の前方に船型の滑走板を取り付けて改良を加えた理想的な船形回転除草機(写真2-18)が明治三八年に高知県土佐郡旭村石井の高野清幸により考案された。
 農家多年の宿願であった水田除草器の開発は、この船形回転除草機の完成によって解決したが、この農具が県内で広く一般農家に使用されるようになったのは大正の末期で、同一三年七月に井関邦三郎が北宇和郡三間村で井関農具製作所(大正一五年八月、松山市新玉町=現湊町=に移転、井関農具商会と改称)を創業し、大野式除草木の製造販売を開始してからである。
 農業界の革新的農具として高く評価されたこの除草機が、完成から普及までに約二〇年を要した最大の理由は農機の高い価格(農家経済の貧困)にあった。
 水田の除草作業は船形回転除草機の普及で、従来の手取・雁爪の匐う屈伸の作業から立体作業となり、農家は多年の重労働から解放され、また労働力の軽減に加えて正条植を促進する要因ともなり、稲作の生産力向上の大きい原動力になった。

     附   記
 前記の『愛媛県農具図譜』は、明治初期の伊予・讃岐地方の在来農具を淡彩を施して描いた三冊からなる図譜である。愛媛県農会の所蔵本であるが、同会から農事試験場に貸与したのがそのままとなり、現在、農業試験場で保管されている。作者・制作年はともに不明であるが、掲載されている農具の種類から類推すると明治一〇年前後に作成されたものと考えられる。

  9 禾花媒助法

 農業三事と禾花媒助法

 媒助法は明治六年にオーストリアで開催の万国博覧会に出席した泰西農学の先覚津田仙が、滞在中にオランダ人のホーイブレンクから伝習を受けた三技術―気筒埋伏法・樹枝偃曲法・禾花媒助法―の一つで、帰朝した津田は『農業三事』(明治七年五月初版)を著し、また学農社を設立し、あるいは農業雑誌を創刊して普及宣伝に努めた。禾花媒助法とは一本の縄に緬羊の毛を注連縄のように吊して毛の先端に薄く蜂蜜を塗布し、米麦その他の雑穀の花の開綻期に縄の両端を二人で持ち、穂の上を二―三回、撫で回して受粉を助け増収を図る技術である。
 明治八年の夏に埼玉県で実施中の津田の試験圃見学に県の権中属藤野漸・臨時雇得能通義の両人が派遣され、同年八月二九日に温泉郡樽味村と正円寺村(後の桑原村 現松山市)で現地伝習会が開催された。媒助縄(津田縄)には二人用のほか三人引、五人引などの種類があり、価格は三人引縄一本が五円(明治八年の松山の米価 一石五円二四銭)の高価であったが、県は伝習会の反響に応えて三五〇本を購入し、翌九年には下浮穴郡下林村(後の拝志村 現在の重信町)で、普通栽培と禾花媒助法との現地比較試験を実施した。試験の結果は次のように普通栽培区より媒助区の方が劣っていた。

        稲出媒助比較(明治前期勧農事蹟輯録下一、一八三頁)
 品 種     栄五郎撰(中稲)
 包 浸     四月二五日
 播 種     五月一日
 挿 秧     六月五日
 肥 料     一畝当、堆屎一荷
 媒助法     九月二日、三日、四日実施
 刈 取     十月三一日
 三区      三五号に分栽
 収 量     一 坪 当      一升衡目
 普通栽培区  一升七合九勺五 二七五匁
 媒 助 区   一升七合      二七五匁

 媒助法の実績と経過

 続いて県は明治一一年に各郡(二二か所)の篤農家に委託して普通栽培、津田式媒助栽培、在来の竹媒助法(細い竹竿を磨き開花中に稲株を下から上へ静かに擦り上げる)栽培の比較試験を実施したが、その結果は竹媒助法の収量が最高で、津田式媒助法がこれに次ぎ双方とも普通栽培より増収になった(『伊予米』四一頁)。
 しかし全国各府県の成績では、増収・減収の両例が半ばし、賛否の対立する中で農業界は大混乱を呈し、勧業寮はその是非を確認するため、アメリカ・イギリス・ドイツ・オーストリア・オランダ・ベルギーの六か国の公使を経て各国に照会を依頼した。
 その回答はすべて効果を否定し「アメリカ欧洲ともに今は一国、一地方としてこの法を採用するものなし」から始まり「日本の農学の正常な進歩を延引させるだけでなく国害となろう」と忠告した回答まで寄せられた。
 津田はその後も宣伝を続けていたが、農事試験場の試験、全国の実績によって否定される結果となり、明治一二、三年ころから農家の関心も次第に薄らぐようになった。しかし県内には効果を疑わず、明治八年いらい長く続けて実行していた村があり、また通風の悪い山田・堤塘・人家の陰田などでは津田縄に代わる亜麻製の筆あるいは竹を使い媒助を続けていた篤農家もあった。県内から媒助法が完全に姿を消したのは明治二〇年以降である。

  10 刈取・乾燥

 各地の刈取乾燥慣行

 刈取・乾燥には大別して三種の慣行があった。

(一) 刈取った稲穂をそのまま地面に伏せて乾燥する。(地干)
(二) 二尺内外の間隔で刈残し、刈穂をこれに掛けて伏せる。(棚刈)
(三) 刈穂を結束して稲架に掛け乾燥する。(稲架干)

(一)は最も一般的な刈取・乾燥方法で県内の大半はこの慣行であった。(二)の棚刈は地方により多少異なっていたが、明治一四年三月に東京で開催された全国農談会に出席した越智郡蔵敷村の原島聴訓は今治地方の慣行を次のように報告している。
 「我伊予国越智郡今治近傍の取入は、秋土用に入て稲種を始む。其熟するは稲の穂首を観て知るなり。稲を刈るは棚刈とて畦に刈り乾すあり、また風に押さるゝ方より五株づつ刈取り、六株目を残して其上に順次乾し懸るあり。若雨天と見れば二株づつ残すなり。先一反歩許の田を刈り、漸次、二番田に移るを止め、始に刈りたる田の稲株を切るなり。其刈りたる稲は晴天二、三日乾し、野小屋或は庭に運搬し稲扱にて扱き落すなり。」(農務局・明治一四年農談会日誌)
 北宇和郡地方にも深田または豊作で収穫量が多く、一時に刈取ると乾燥が遅れるおそれがあり、乾燥を早めるため二度刈を必要とする豊作年にかぎり棚刈をする慣習の地帯があった。

 稲 架

 (三)の稲架は平安初期の承和八年(八四一)に、太政官符を以て奨励したほどの古い技術で近世の農書にも稲架の利点を説いているものが多い。寛政五年~文政元年(一七九三~一八一八)に完成の『農稼業事』は稲架の徳用として一五項目をあげ「この方法を諸国で励行すれば国益は大きい」と述べているが、文久二年(一八六二)に執筆の宇和郡横林村の庄屋大野正盛覚書にも稲架の効用を説いた次の記述が見られる。
 「稲木にいたし置く事 至極よろし 穀青くとも青米にならず 二毛位は違うものなり いにしえは皆いなぎとみゆ 大豆、蕎麦にかぎらず木にかけて干すをいなぎと言伝う 何作にてもいなぎよろし」
 この覚書によると、稲架は近世のある時代には稲作の慣行技術となっていたのが、その後は次第にすたれ、近世末期には指導奨励の対象となる特殊な技術となっていたと推察できる。
 稲架乾燥は明治の初期にも、稲の脱穀調整と麦の作業が競合する山間部(とくに伊予郡)あるいは各地の精農によって実行されていたが、その例は少なく、用具、方法も極めて簡単なものであった。明治一四年に開催された前述の全国農談会で大和の老農中村直三(明治の三大老農の一人)が改良稲架について講述し、これを二年間試みた越智郡蔵敷村の原島聴訓(同農談会に愛媛県代表として出席)が、明治一六年に開催された県勧業課主催の第三回農談会で次のように体験発表をしている(明治一六年農談会録事)。

   稲架の得益
  (一) 従来の田乾(地干)に比すれば砂礫籾米に混淆せず
  (二) 米質善良となる
  (三) 稲扱に掛け直に籾磨することを得
  (四) 苅揚げて後 雨露の難に罹らず
  (五) 従来の如く田乾するときは盗難の患いあり 然るに該方法の如くせば其憂なし
  (六) 毎反歩の稲残株なし 一時に苅取を行う故に、跡地起反 及播種等 季節に後れず就ては跡作出来場自らよし
  (七) 苅取費用は従来の田乾に比すれば一反歩に付 使夫一人増すと雖も籾乾等の手間を除くを以て其賃銭を償うに足る
  (八) 農家内外庭 狭隘と雖も更に混雑を醸すことなし 其所以は稲籾乾燥せば其時々 扱落す分丈け逐次取入をし薄暮に
      至れば扱落したる分を籾入に納めしむ
  (九) 従来の稲架方には藁質 腐敗し牛馬の食料に適せず 然るに該方法の如くせば決して其憂いなし 其上米質善良とな
      る 之れ蓋し両得と云うべし

 越智郡・周桑郡一帯は、昭和初期まで県内では最も広く稲架乾燥が普及していた地帯であるが、越智郡大井村九王(現在の大西町)の村瀬伊勢松(明治二三年~昭和五二年)によると、今治市、大井村近辺で稲架懸か始まったのは大正七、八年ころである。
 当初は唱導者に抵抗する反対者も少なくなかったが、大正一一、二年ころには大半の農家が実行するようになった。越智郡乃万村(現在今治市)の大字宅間では古くから刈稲を近くの山に運び、樹木の枝に掛けて乾燥する慣習があった。その結果が常に良好であったことから暗示を得て始めたのがこの大井村の稲架懸であった。周桑郡に波及したのは一、二年後であった(村瀬伊勢松談)。

図2-13 福岡県地方の雁爪

図2-13 福岡県地方の雁爪


図2-14 八反拽(埿加伎)

図2-14 八反拽(埿加伎)


図2-15 八反拽除草

図2-15 八反拽除草


図2-16 田打転車

図2-16 田打転車


図2-17 太一車

図2-17 太一車


図2-18 改良稲架

図2-18 改良稲架