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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

二 稲作の耕種概要⑤



 調整(もみすり)

 脱穀した籾は一枚の蓆に約五升を撒布(一日に普通、二回攪拌)し、晴天であれば三日、曇天のばあいは五日間、天日で乾燥する。乾燥の適度は踵で踏み回し籾殻の離脱する程度とし、これを蓆ダツ・籾箱・籾蔵などに収納しておき余暇や雨天の日を選び調整していた。
 調整は土臼(穀磨臼、ろう(龍に石)、磑、、土磨)(図2-28)により隣保共同で・夜半から翌日の午後二時ころまでの間に行うのが普通で、一日の調整量は三〇俵~四〇俵であった。『百姓伝記』(延宝八年・一六八〇―天和二年成立・一六八二)によると土臼は寛永元年(一六二四)ころに中国の職人により製法が伝えられた農具であるが、それまでは古墳時代の末期(または平安初期)に考案された木臼が使われていた。『愛媛県農具図譜』には土臼とこの木臼(図2-27)の両者が併載されているので、明治初期の調整には土臼と共に古来の木臼も使用されていたものと思われる。
 調整(脱(のぎへんに孚))が終ると唐箕(図2-29)にかけて選別し、さらに千石とうし(万石とうしともいう図2-30)によって精選したものを俵装して全作業を終了した。
 藩政時代にはこの選別・俵装が厳格に規制され、俵の原料藁は古藁を用い、俵は新俵を原則としていた。地租改正(明治六年条令布告)により貢租が金納となった明治九年以降は、調整作業が次第に粗略となり、貯えの乏しい貧農の中には、新藁で俵を作り、市価の安い古俵(空俵=古俵=は一俵二銭五厘、新俵は五銭)を使用する者が増加して、米質・俵質が低下し商品米の声価を落とすことになった。
 調整には収穫時に脱穀と調整を連続して行い、玄米で貯蔵する秋摺と、脱穀した籾をそのまま貯蔵しておき、必要に応じて調整する今摺の二法があった。今摺は貯蔵に適する利点のほか、秋摺に較べると舂減(精白時の減量)は多いが、炊飯、糠(量目は不変)ともに粘りが強く市価にも一割程度の格差があった。
 梅雨後の今摺米は春減が少なく、市場でも秋摺米より高く取引されていた。今摺の慣行は動力籾摺機が普及した大正時代の後期以降は完全に廃れたが、明治時代、とくに前半期には県内各地で見られる一般的な調整法であった。




図2-27 明治初期の木臼

図2-27 明治初期の木臼


図2-28 明治初期の土臼

図2-28 明治初期の土臼


図2-29 唐箕

図2-29 唐箕


図2-30 千石とうし(万石とうし)

図2-30 千石とうし(万石とうし)


図2-31 万石とうし(千石とうし)

図2-31 万石とうし(千石とうし)


図2-32 箱簏(はことおし、早けんど、大けんど)

図2-32 箱簏(はことおし、早けんど、大けんど)


図2-33 簏(箱簏)

図2-33 簏(箱簏)