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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 稲作の実態


 序 説

 明治の農業は激動する社会変革の中にありながら、前半の約二〇年間は作物・栽培技術・生産手段などすべてが近世の延長線上で停滞していたが稲作も例外ではなかった。停滞していたこの稲作が、近世の形態から脱皮し始めるのは明治二〇年代になってからで、本格的な改良により反当収量が急速に増加したのは同三〇年以降である。
 この著しい生産性の向上を促進した直接の要因は、多収品種―相徳・神力・雄町―の普及、塩水選、短冊苗代、正条植、人造肥料などによる技術革新であるが、その誘因となったのは、米質改良組合、林遠里、小幡健吉であり、実践過程で大きい役割を果たしたのは、農業団体の農会と県に設置された戦時農業督励部(のちの農業督励部)であった。

 明治前期の反当収量

 明治初期から中期までの稲作は、作付制限の撤廃(明治四年)、地租改正(明治六年 九年より実施)など封建的拘束の解除により、稲作に対する熱意が低下して生産力はむしろ近世に比較して後退していた。
 資料が乏しく近世末から明治初期の稲作の実態(反当収量)は明らかでないが、温泉郡垣生村大字東垣生(現在松山市)の土屋常次郎(大正七年当時の戸主)家に、祖父磯七、父卯太郎の三代にわたり、弘化三年(一八四六)から大正七年までの同家の稲作の反当収量を綴った記録がある。
 同記録によると弘化三年から慶応三年(一八六七)までの幕末二一年間(文久三年の記録欠)の平均反当収量は二石一斗四合で、最高は文久元年(一八六一)と同二年の二石六斗であるが、明治以降二〇年間の反収はこれよりも劣り、また二石六斗の高収量は明治三九年まで実現していない。
 特定農家の一記録で、県下の稲作を測ることは危険であるが、一般農家の実態もほぼ同様であったと考えられる。明治前期から大正初期までの県平均反当収量は表2-34のように推移している。



表2-33 土屋家反当収量

表2-33 土屋家反当収量


表2-34 稲作県平均反当収量

表2-34 稲作県平均反当収量