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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 農会


 農会の成立過程

 明治一八年に公布の同業組合準則(資料編社会経済上三頁)に基づき、県内各地で設立された米質改良組合とは別に、前述の勧業会設置準則(資料編社会経済上一五頁)により、明治二〇年に県下の全産業の振興を目的とした愛媛県殖産協会と、蚕業の発達を企図した愛媛蚕業協会、農業の改良発達の指導斡旋を目的とした温泉郡農業義会の三団体が相前後して設立された。
 後年、蚕業協会は農会に合併され、殖産協会は商工業の諸団体へ分散移行したが、温泉郡農業義会はその後も存続して活動を続け、本県における系統農会の鼻祖となった。
 明治一八年に設立された前述の風早和気温泉下浮穴伊予米質改良組合は、明治二二年に解散し、翌明治二三年に従来の区域に松山市と久米郡を加えて「一市六郡農会組織」に改組された。この一市六郡農会組織を母体とし、前記の温泉郡農業義会の指導により、時の知事勝間田稔を会長に推して明治二五年一月に再編成されたのが、本県における系統農会の前身となった「一市六郡農会」、のちの温泉郡農会である。
 明治二七年に、大日本農会(明治一四年創立の中央農業団体)の主催で第一回全国農事大会が開催され、農会組織の確立運動を全国的に展開することが決議された。この決議に呼応し、一市六郡農会は翌明治二八年一〇月に開催の総会で決議し、各郡町村に農会を設置する「農会設置準則」の制定を知事に建議した。
 建議は直ちに容れられ、明治二九年三月一日、ときの知事小牧昌業により、「農会設置準則」(資料編社会経済上二一頁)が制定され、左の時期までに各級農会を設置することが命じられた。

  町村農会 明治二九年六月迄 郡農会 同八月迄 県農会 同一二月迄

 準則の発布と同時に一市六郡農会は、直ちに活動を開始し、愛媛県農会規約(資料編社会経済上一〇三頁)・同議事規則・旅費給与規程・賦課金徴集規程の四者を定めるとともに、全郡村に農会の設置を呼びかけ促進に努めたが、所定の期日までに郡町村農会が成立した。
 県農会は一二月に松山市公会堂で創立総会を開催し、役員の選挙、事業経費の予算を議定し、事務所を温泉郡雄群村大字藤原二五番戸(現松山市)に設け、同月一八日から事業を開始した。創立総会で選ばれた初代の役員は会長 武市庫太、副会長 有友正親、理事 鶴本房五郎・珠川慶郎 の諸氏であった。
 農会設置準則の公布から、県農会の創立まで、わずかに九か月であったが、その背景には明治一〇年代の初期から胎動し始めた農談会・勧業会・同業組合・一市六郡農会組織など、一連の組織活動を経て培われた強固な農民組織のほか、多くの先覚的指導者が存在していた。一市六郡農会の始動から系統農会組織が完成するまでの過程で活躍した先駆者としては、逸見佐平・一色秀次郎・宮脇団四郎・二神精一・鶴本房五郎・和田鹿太郎らのほか、県勧業課長伊藤栄太郎の名を挙げることが出来る。
 愛媛県農会の発足から三年後の明治三二年に開催された第一三回国会で、農村多年の懸案であり悲願であった府県農事試験場国庫補助法・耕地整理法・肥料取締法の諸法と共に農会法が成立(六月八日)し、勅令第三〇号で農会令が公布され、全国各府県で農会の設立運動が活発に展開された。本県でもこの農会令に則り、愛媛県農会規約を廃して、新たに愛媛県農会規則(明治三三年三月二二日知事認可 全文五一条)が制定された。
 以上のように本県の農会組織の確立は、法律の制定に先行すること三年であった。農業界は農会組織の成立により新しい時代を迎えることになった。ちなみに県農会事務所は、明治三〇年四月二日に松山市千船町八五番戸に、さらに大正二年に旧県会議事堂を譲りうけ、道後南町に新築移転した。

 農会の業務と活動

 農会は農林業の発達を図る指導団体で、時代の推移、農林業の発展とともに事業は拡大の一途をたどり、農村の総合的な指導機関となったが、業務は (一)農政運動 (二)営農改善を中心とした農村指導 (三)農産物・生産資材の販売、購買の斡旋 (四)調査(農業経営調査・農家経済調査・農産物生産費調査)を四本柱としていた。しかし明治時代の農会活動は、農政活動と営農指導が中心であった。

  1 農 政 活 動

 明治一二年に創設の勧業試験場は、同二一年に養蚕伝習所に改組され、一部で試験研究業務も継続していたが、次第に有名無実の機関となり、明治三一年の県会で廃止が決議された。県農会は試験場の存続と合せ、農学校の設立を県当局に建議するとともに、県会に対して激烈な運動を続け、ついに世論の結集に成功し、明治三三年に愛媛県農事試験場と愛媛県農学校(生徒入学は同三四年四月生徒数一七〇、大正七年四月愛媛県立松山農業学校と改名)の開設をみるに至った。
 後年、農政運動の舞台で主役を演ずることになった農会活動の第一歩が、この県会対策から踏み出された。当時の県農会は六〇名(各郡五名)の議員で構成されていたが、議員は各郡とも県会の議決を覆すほどの実力をもつ逸材が揃っていた。
 明治三三年九月二三日、二四の両日、北宇和郡農会の主催で宇和島町公会堂で愛媛県農事大会が催された。大会には各級農会の評議員・理事・郡役所の書記ら三百余名が出席し、二日間にわたり稲の害虫・肥料・蚕糸・果樹・畜牛などの講演が行われた。翌三四年に松山市で第二回の大会が開催され、大会規程を定めて以後の大会は各郡輪番制で開催された。(大正一一年の第二一回大会から県農会主催となる)
 宇和島大会は、県下の農家代表が一堂に会する大規模の催としては、本県では最初のものであったが、回を重ねるに従って次第に充実発展して系統農会の中心的事業となり、昭和一五年四月に宇和島市で開催された三六回大会まで継続した。第一回大会は名士の講話を主体とした学習会的色彩の濃い催しであったが、第二回大会以降は各郡提出の農政諸問題が議題の大半を占めるようになると共に、大会決議の実現を国・県に建議する農政大会に変質した。明治後期から大正、昭和初期の県の農業政策には、この農事大会の決議に基づく建議、献策により実現したものが少なくない。

  2 農民教育・営農指導

 発足直後の県農会は、下部組織である郡市町村農会の整備、各種農業機関の設立指導などが主要な業務で、経費も上級各種実業団体の負担金に依存し、大半が会議費で占められる実態であった。
 明治三三年に、民間団体では本県で最初の農業技術者二名(千石興太郎、白石大蔵)が県農会に設置され、続いて各郡農会にも相次いで技術員が置かれ、指導機関としての体制が整備された。指導体制の確立と同時に、中央、地方で頻繁に長期、短期の講習会や巡回講話が開催されるようになるが、県農会はその目的を次のように述べている。「農事改良第一の要務は、農民の守旧頑迷を覚醒し、簡易なる学理を会得せしめ、自動的改良を為さしむるに在るをもって、短期講習及巡廻講話の如きは時勢に適したる重要事業なり」(愛媛県農会史)
 明治三三年中に、各地で開催された講習講話会の受講者は七百人を数えたが、受講者相互の親睦を厚くし、共同一致して農業の改良進歩を図る目的で、受講者により各郡単位で「農友会」が組織され、明治三四年四月五日に県連合の愛媛県農友会が結成された。
 農友会は試作地の設置、図書の共同購入と学習、講習会の開催、幻燈会の開催、先進地の視察、各種の農事調査、農機具の共同利用と貸与、種苗の交換など、多彩な活動を展開し、農家の啓蒙、営農改善の原動力として大きい役割を果たした。
 明治後期の飛躍的な農業技術の普及、大正昭和期の著しい農業の進歩は、農友会、農友会員の活動に負うところが多い。
 技術者の設置は、明治末期まで県農会・郡農会の段階にとゞまっていたが、明治四四年四月に町村農会技術者設置補助規程が設けられ、技術員を設置する町村農会に対して県費の補助金が交付されるようになり、大正期に入ると町村農会で技術者を置く農会が相次ぎ、同九年には町村農会の四三%に一二六名の技術職員が設置された。町村農会技術員の増加に伴い、農会の活動は従来の中央、地域の活動から末端の町村区域の活動に重点が移り、徹底した個別指導が行われるようになった。





表2-44 農事大会一覧

表2-44 農事大会一覧