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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第一節 稲作の飛躍


 反当収量の推移

 明治初期から太平洋戦争終結の昭和二〇年に至る約七〇年間で、県下の稲作の反当収量が最高に達したのは大正時代の中期である。
 明治時代の反当収量は、同三七年(二石)と四四年(二石)の二か年を除き、終始、一石代にとどまり、実収高も八〇万石~九〇万石段階で低迷していた。大正二年に初めて総収穫高が百万石を突破し、平均反当収量も二石一斗に上昇し、いらい昭和一三年までこの二石台の反収が維持されていたが、日中、太平洋戦争の進展と共に漸減の一途をたどり、終戦の昭和二〇年には明治初期の実態に近い一石八斗にまで激減した。
 明治以来の技術の総合化で、県下の稲作体系が完成した時期の大正八年に、実収高が一一五万石を超え、反当収量も二石四斗二升五合に急増したが、この実収高は本県の稲作史上、空前絶後の生産量であり、反当収量も稀有の好条件(高温無災害、病虫害の被害僅少)に恵まれて異例の大豊作となった昭和八年の二石四斗八升八合を除くと昭和三〇年まで続いていた記録である。

 多収穫競作会の成績

 高い水準に到達していた大正時代の稲作の実態は、多収穫品評会の実績によっても証明されている。大正三年に県農会の主催で全県対象の稲多収穫品評会が開催された。稲作の改良を目的とした品評会は、明治一九年に催された伊予郡岡田村(現松前町)の苗代や稲作の評査会を嚆矢として、明治の後期から県内の先進村で苗代や立毛を対象として盛んに行われていた。多収を競う共進会も伊予・温泉の両郡では、郡農会の主催で明治の末期から催されていたが、全県を区域とした品評会としてはこの県農会主催の多収穫品評会が最初の催しであった。
 品評会には兵庫県別府港の肥料商、多木久米次郎から賞与費として千円(この年の米価一石一四円七九銭)が寄贈され、入賞者に対して懸賞金が授与された。農業技術の奨励に懸賞金が与えられることは極めてまれなことで、この企画に対してはいたずらに素朴な農家の投機心を誘発するだけでなく、入賞者の他に多くの犠牲者を出す弊害かあり、農業技術の改良普及策としては邪道であるとする強い反対説も少なくなかったか、大規模の画期的な催しであっただけに、米作農家の関心が集まり、衆目の見守る中で実施された。出品者は全県で二四五名に達し、審査には選ばれた郡部審査員三八名、本部審査員一三名の五一名があたり、規程に従い入賞者一二五名が選ばれた。この一二五名の内訳をみると、反当収量四石以下の者はわずかに二二人(一八%)で、四石から五石の者が八八人(七〇%)を数え、残りが五石以上の成績をあげている表3-2の一五人であるが、一位の収量は七石を超えている。この驚異的な七石の収量は、七〇年を経た今日まで破られたことのない本県の歴史的な多収穫の記録になっている。
 その後の多収穫記録では、昭和五年に県農会が実施した水稲多収競作会で一位入賞の温泉郡生石村(現松山市)の和田源次郎が達成した五石九斗五升九合と、朝日新聞社主催の米作日本一競作会(昭和二四年から同四三年まで継続実施)で、昭和三〇年に越智郡伯方町の赤瀬元恵が樹立した八二〇・七㎏(約五石五斗)の記録があるが、いずれも大正三年の品評会で相原弥三郎があげた七石には遠く及ばない収量である。
 以上のように大正時代は、実収高、反当収量ともに最高に達した稲作の黄金時代であった。明治の後期を稲作の躍進時代とすると、大正時代は技術の総合化により、高い生産力が実現した円熟の時代であった。




表3-1 稲作反当収量

表3-1 稲作反当収量


表3-2 多収穫品評会成績

表3-2 多収穫品評会成績