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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

二 動力用稲脱穀機・動力用麦摺機


 関谷正幸は続いて大正一〇年に動力用稲脱穀機(第一号セキヤ式 写真3―2)、さらにその三年後の大正一三年に動力用麦摺機(セキヤ式小型麦摺機 写真3―3)を相次いで開発した。
 麦の調整は大正の初期まで各地とも主として唐竿(図1―12)によっていた。大正四年ころ田村式麦摺機が現れ、続いて内匠式麦摺機(専売特許品)が考案され、松山市河原町の曽我農具店が県下の一手販売店となり、大正一〇年ころから宣伝につとめ、富農層あるいは共有による利用者が漸増し唐竿に代るようになった。
 本機は鋳物製で、下台に凸凹と波浪状を交互にし、上台は五行の双歯があり、工程迅速で一時間に九俵の調整が可能であった。乾燥が良好であれば一〇俵の調整も可能で、当時の麦の収量は反当三俵程度であったため、一戸の麦摺がおおむね一日で終了した。
 普及の初期には、業者や余力のある農家の兼業による賃摺が多く、業者によると一日に四、五戸の賃摺をしていた。

 動力農機具の成果

 動力化により稲の脱穀、米麦の調整、大豆粕の粉砕などの作業能率は著しく向上したが、小型石油発動機によるこれらの作業工程は次のような能率であった。大正一〇年に、伊予郡農会が一・五HPのゼット発動機で二尺の土臼を使用して実施した籾摺工程調査では、一日一〇時間作業で七〇俵~一〇〇俵内外となっている。
 経済的にも動力利用は人力に比較して半額または三分の一の低額で、大正一二年ころの稲の脱穀費は一石につき人力の六〇~七〇銭に対して発動機脱穀では三〇~四〇銭、籾摺費は一俵につき人力の七〇~八〇銭に対し、動力籾摺は三〇~四〇銭が標準となっていた。前記の伊予郡農会の工程試験の結果(一日七〇俵)を基礎にして算出した動力利用籾摺の収支計算では、一日の労働報酬が表3―12のように一二円六〇銭になっている。この報酬は、一般の雇用人夫賃(一日一円八〇銭)の七倍に当る高額で、前記の所有者別発動機台数の調査で四五%が営業者の所有となっていることからも明らかなように、初期の動力籾摺は営業を目的とした業者の賃摺が半数近くを占めていた。しかしこの営業者中には専門の農外業者のほかに、労力・資金に余力のある農家(主として青壮年)が、兼業として賃摺をする個人または二、三人の組織も含まれていた。


図3-3 内匠式麦摺機

図3-3 内匠式麦摺機


表3-11 小型発動機作業工程(一時間当)

表3-11 小型発動機作業工程(一時間当)


表3-12 動力籾摺収支計算(一日)

表3-12 動力籾摺収支計算(一日)