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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 概説


 疏菜の種類

 疏菜は古くから極めて多くのものが栽培されていた。わが国最古の農書といわれ、一七世紀の南予の農業について述べている『親民鑑月集』にでてくる蔬菜で、栽培されていたと思われるものでも、葉茎菜類一一、根菜類一〇、果菜類五、豆類五、いも類四、計三五が挙げられている。さらにサトイモの品種一二がみられ、蔬菜の種類は多彩であったことがうかがえる。
 明治時代になると開拓使などによって欧米の作物導入が盛んに行われているが、そうしたなかで多くの蔬菜が導入され、さらに、日清、日露戦争などの機会に中国の蔬菜も多く導入された。しかし、早くから定着するものは少なく、結球ハクサイ・キャベツ・タマネギが本県に普及したのは大正時代であり、さらにトマトは、昭和に入ってから広く栽培されるようになった。
 戦後三〇年になると、食糧不足も解消し、食生活の洋風化に伴い、従来需要が一部に限られていて、洋菜と呼ばれていたピーマン・レタス・ハナヤサイ・セルリー・パセリーなどの消費が急速な伸びを示し、本県においても、これらの生産が行われるようになり、四〇年代には、レタス産地が形成され、近年になって、アスパラガス・ブロッコリーの生産も広く普及した。さらに、従来から生産されたシイタケはもとより、マッシュルーム・エノキダケなど、菌茸類の栽培も多くなり、蔬菜の種類は、ますます多様化している。

 蔬菜の生産と産地

 古くは自家用として、蔬菜生産は行われてきたが、都市の発達とともに、近郊産地が形成され、本県でも新居浜市の垣生地区、西条市の喜多川地区、今治市の立花地区、松山市の小栗、竹原、生石、味生地区、八幡浜市の五反田地区、宇和島市の来村、柿原地区などは、旧来近郊産地として蔬菜生産が盛んに行われていた。
 一方、自然条件の有利性、とくに気象条件、土壌条件を活用した特産地は、古くから形成され、明治時代には、伊予三島市寒川地区のショウガ、今治市乃万地区のニンジン・ダイコン、松山市潮見地区の平田ニンジン、五明地区の菅沢ゴボウ、御幸地区の清水ソラマメ、雄群地区の伊予緋カブ、朝美地区の沢ダイコン、中島町東中島地区のショウガ、砥部町森松地区のショウガ、松前町北伊予地区の出作ショウガなどがあり、サトイモは宇摩郡をはじめ県下各地に特産地が形成されていた。
 さらに、県内の野菜産地で比較的早くから県外出荷が行われたのは、大洲市の若宮地区で、この地帯は、常に水害に見舞われ、泥土が堆積し、耕土が深く、肥沃で蔬菜栽培に好適していることから、産地が早くから形成され、ゴボウ・ニンジン・キュウリなどが明治中期から、尾道、呉方面に出荷された。とくに「大洲キュウリ」は名声を高め、大正時代には、県内外から多くの視察者を迎えた。
 また、宇摩郡も古くからの蔬菜産地で、とくにサトイモは、水田転換作として古くから導入されていた。その理由は、用水不足対策、「やまじ風」による強風害の少ない作物の導入、さらに、サトイモ栽培に伴う山野草の投入により地力増進が図られ、水稲が安定増収したことによるものであった。明治二〇年の「愛媛県農事調査」によると、四、八八〇tの生産となっており、京阪神、中国方面などに出荷された。
 その後、大正七年には、系統農会が販売斡旋を始め、青果市場の整備も進み、大正一二年には、中央卸売市場法が公布された。一方交通機関が発達し、昭和二年になると、国鉄予讃線は、松山まで開通した。こうして、蔬菜の県外出荷が容易に行われるようになった。
 昭和に入ると宇摩地方のサトイモの共同出荷がはじまり、温泉、伊予郡の水田地帯のソラマメ・スイカが尾道・呉・関門・京阪神などに出荷されるなど、戦前における輸送園芸の最盛期を迎えた。
 しかし、戦時色が強くなるに伴い、昭和一〇年代になると米麦など主食を中心とした食糧増産のため、作付統制が行われ、蔬菜生産は抑制され、交通機関のひっ迫もあって、県外出荷は姿を消した。昭和一五年ころになると都市への青果物の供給は減退し、ビタミンCの欠乏が問題となった。そこで、政府では、昭和一五年必需蔬菜として、カンショ・バレイショを含めて一九品目を選定し、「蔬菜自給圏撫育法施行規則」を公布し、都市周辺の近郊産地による蔬菜生産を図った。これが蔬菜園芸に対する国がとった生産対策のはじめのものである。本県においても、松山市をはじめ、各都市の従来の近郊産地を中心に蔬菜産地を指定し、作付面積の確保、肥料の特別配給などにより蔬菜の生産確保に努めた。
 戦後においても食糧不足が続き、米・麦など主食主体の農業生産が続き、蔬菜生産もイモ類・カボチャなどカロリー生産力の高い作物が中心となった。しかも、自家自給的色彩が強く、出荷も近郊産地を中心とした県内市場への供給が主体であった。
 昭和三〇年代になって食生活も安定し、商品性の高い不時栽培による蔬菜が消費されるようになり、しかも、交通体系の整備により広域流通が発達した。本県でも特殊暖地の活用、農業ビニールなど被覆資材を利用した不時栽培など県外出荷を主体とする産地形成が進められた。しかし、他県の大産地が市場流通を優位に展開していることもあって、生産拡大が制約され、数多くの特産蔬菜を出しながら、全般的な生産拡大にまでは至らなかった。また、昭和三六年に制定された農業基本法による政策展開に伴って、本県では、カンキツ類や畜産が大きく伸長し、蔬菜への関心が低かったことも生産拡大につながらなかった要因の一つになっている。
 昭和四〇年代に入って、「野菜生産出荷安定法」が昭和四一年に制定され、全国の消費地域に対する安定した生産出荷を行う野菜指定産地が本県においても着々整備され、一〇年間で一二産地(うち二産地解除)が指定された。しかし、全般に産地拡大は進まず、四〇年代前半には、栽培面積の減少を示したこともあり、三〇年代に比べると新産地の形成は進んだが、まだまだ、地場供給や自家消費が中心の生産形態が続いた。
 昭和五〇年代になってから野菜指定産地は、新たに一一産地が指定され、うち五産地は夏期に比較的冷涼な準高冷地今中山間部の気象条件を生かした夏秋トマト・夏秋キゥウリの産地化か図られ、また、全国的に地域特産性の高い生シイタケ・ソラマメ・ヤマイモといった特定野菜産地が一九産地整備されるなど、集団産地がつぎつぎに整備され、県内蔬菜作付面積の四〇%近くが集団化されるなど、徐々にではあるが、水田利用再編対策との関連もあって増加基調に転じている。
 一方、流通面についても県外出荷が拡大され、県内外市場において相当高い評価を得ている産地に成長したものもある。とくに、蔬菜は高い鮮度を要求することから、予冷品の出荷が急速に拡大しており、さらに、航空輸送の試みが行われるなど、蔬菜園芸の振興に注目すべきものがある。

 蔬菜の生産技術

 蔬菜の生産技術は、他作物と同様に経験と観察からはじまったもので、『親民鑑月集』でも多くの蔬菜について、栽培時期、適土壌、栽培の要点が示されている。
 明治時代に入ると欧米諸国から、新しい蔬菜の種類、品種の導入とともに、洋式栽培法が紹介され、とくに、フランス式の促成、抑制栽培法が明治後期から次等に、普及しはじめ、大正初期には、松山市周辺で、温床框利用によるキュウリの半促成栽培がはじめられた。さらに、昭和初期からペーパーハウスによる半促成キュウリの栽培も行われた。一方、大正後期から昭和はじめになると川之江市大門地区、東予市国安地区、松山市周辺、大洲市若宮地区など、県下各地で温床、冷床育苗によるキュウリ・ナスなど、果菜類の早熟栽培が行われるようになった。
蔬菜の肥料は、堆肥・下肥・木灰・鶏糞など自給肥料を主体とし、油粕などの粕類も利用した。とくに、下肥が蔬菜肥料の中心であった。昭和になると、化学肥料が出回るようになり、硫酸アンモニア・過燐酸石灰・塩化加里も施用されるようになった。しかし、肥料の主体は自給肥料と粕類であった。
 また、蔬菜栽培は砂地など畑作が中心で、かん水に多くの労力を要した。伊予市新川地区の砂礫地帯のタマネギ・カボチャ・ハクサイ栽培では、井戸水を釣瓶で上げてかん水していたが、昭和五年はじめて、電力利用の揚水ポンプによるかん水がはじまり、昭和一〇年代には、釣瓶は姿を消した。
 病害は無防除であったが、昭和になって病害は石灰ボルドー液など銅剤で、また、害虫についてはニコチン・除虫菊・デリスで行われた。
 戦中、戦後の食糧不足時代になると、半促成、早熟、抑制栽培は、極度に制約を受け、夏枯れの後の九、一〇月、冬枯れ後の三、四月には野菜不足となり、この端境期対策が問題となった。そこで、耐暑性品種、耐寒性品種、抽苔(花茎が伸びでる現象)の晩い品種の栽培や防寒技術の研究が進んだ。
 戦後になると、多くの蔬菜品種の生理、生態が次第に明らかになり、農業用ビニールをはじめとする保温資材・肥料・農薬・植物ホルモンなど、生産資材の開発、普及により、各種蔬菜の作型の分化が進み、蔬菜の端境期の解消と生産の安定増収が図られた。
 一方、農作業の機械化、除草剤の利用など、省力化が進められ、とくに、ハウスの大型化、換気、カーテン開閉の自動化、パイプかん水など施設園芸の重装備による省力化、経営改善が図られた。