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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

二 果樹導入の地域性


 地域性の発生

 愛媛県は、瀬戸内海と宇和海にわたる長い海岸線から、急しゅんな傾斜地を経て、四国山脈に達する陸地部と、二つの海に浮かぶ多くの島々で構成されている。それぞれの地域には、その地形、気候などから生ずる環境の特色があり、それにふさわしい農業生産と農家の生活が形成されている。愛媛県の地域を、東予・中予・南予に大別して、明治時代における果樹の導入と普及発展に、どのような地域的特徴があったかをみておくことは、その後の展開を知るためにも必要である。(表2-1)

 南予地域

 この地域では、まず北宇和郡立間地区における温州ミカンを中心とした、めざましい導入普及の動向がある。幕末から明治初期にかけて、いちはやく温州ミカンの産地化を達成した先駆的な活動は、ここから一〇〇年を越える温州ミカンの歴史が始まったのである。
 立間の温州ミカンにつづいて、宇和島に導入された夏柑は、北宇和郡から西宇和郡の保内、三崎半島にひろがり、温州ミカンと共に南予地域の二大柑橘として定着した。
 西宇和郡、北宇和郡地方には、ネーブルオレンジも早くから導入され、県下での先進地となった。しかしその後あまり伸びず、むしろ減退傾向をたどった。
 西宇和郡日土村を中心に梨がはやく導入され、一時は、温泉郡に次ぐ産地となったこともあるが、意外に早く衰退した。その原因は、急傾斜地への密植栽培が樹勢衰弱をはやめたと分析されている。

 中予地域

 中予の沿岸陸地部は、広く梨の導入が先行し、その後に柑橘類の導入普及が続いた。
 島しょ部のうち中島町は、ミカンの先進地である広島との交流から、陸地部より早く柑橘が導入普及された。なお一部地区では、りんご・桃などの栽培も試みられた。
 興居島では、桃とりんごの導入がはやく、明治三〇年代は、暖地りんごの産地として有名になったが、綿虫の被害を受けて衰退、桃・枇杷などの産地化が進み、更に柑橘へと転換した。
 伊予郡地方も梨の導入が先行し、柑橘がつづいたが、その外に、明治以前からの唐川枇杷の特産地があり、その品種改良が進められた。また砥部地区を中心に富有柿・青梨の導入など多様なものがあった。
 伊予郡中山町、喜多郡内子町の中山間地帯には、古くから自生の栗林があって、それから優良品種が選抜され、栗園として栽培されるようになり、中山間地帯の重要な果樹として生産拡大が続いた。
 温泉郡地方には、早くから伊予柑が導入されて、松山の城北地帯や島しょ部に定着し、特産的な栽培が長く続いた。その後、昭和四一年の宮内伊予柑(早生種)の枝変わり出現と、ミカン危機(昭・四七)のなかで全国的な栽培機運に発展することになった。

 東予地域

 梨が中予の沿岸陸地部から、越智郡の菊間、大西町地区へと北上し、急速に大産地化が進んだ。この地帯でも梨の後から柑橘の導入が続いたことは、中予の陸地部と相似している。
 越智郡の島しょ部では、関前村を起点にして、島々一帯に温州ミカンが導入拡大された。関前村へのミカン導入は、立間に次いで古く、先進地の広島県大長との地理的条件が、導入速度を早めたものであろう。
 周桑郡・新居郡は、あたご柿の特産地として古くからの展開があり、また富有柿の主産地として、県下での王座を占めた時代もある。新居郡には古くから柚柑の産地形成があったことが、明治末期の記録にある。
 宇摩郡には、天満村などを中心に早くから、温州ミカン・ネーブルオレンジが導入栽培され、集団産地として独自の発展をした。
 越智郡宮窪町友浦のりんご栽培は、興居島のりんご衰退期から導入され、興居島のりんごが消えた後も、昭和三〇年代まで栽培されていた。局地的ではあるが、異色なものであった。




表2-1 果樹栽培地気象概況 (六〇か年平均)

表2-1 果樹栽培地気象概況 (六〇か年平均)