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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 明治の勧農政策と果樹


 洋種果樹の育成

 明治初期の勧農政策は、すでに幕末(安政五年)に結んだ通商条約によって、欧米諸国の洋種作物の輸入が行われていたのを受け継いで、果樹についても洋種果樹の種苗導入をはかり、勧農寮の試験場において、政府自ら種苗の育成を行い、全国各府県に配布奨励した。愛媛県には、明治九年三、三九〇本の苗木配布を受けており、果樹の種類も一九種に及んでいる。これらの果樹がどのように奨励普及されたかはつまびらかでないが、明治一六年県勧業課から、温泉郡興居島村に、りんご・天津水蜜の苗木が配布され、五人の栽培家が試植した記録は、その一つの現れであろう。

 政策転換と果樹

 しかしこうした洋種果樹の奨励も、明治一四年農商務省の設置と共に政策の転換が行われ、蚕・桑・生糸・製茶・製糖・煙草・馬・牛・米・麦・漆・楮・棉・麻・羊・豚などを重要物産とし、輸出により外貨確保のできるものか、自給率を高めて外貨流出を防ぐものに重点がおかれ、果樹は除外されることになった。したがって、その後の果樹に対する政策は、博覧会、共進会などを奨励し、果樹の出品が認められたり、試験研究の一端に取り上げられる程度のものとなった。県の政策もこれに準じたものになることはさけがたく、果樹は農政の面から奨励保護を受けることが少なく、栽培者自らの努力により、栽培技術の開発、販路の開拓に努めるものとなった。