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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 中央卸売市場の開設と産地対応


 市場取り引きの改善

 中央卸売市場法の公布(大正一二年)により、昭和二年に京都、昭和三年東京神田分場、昭和六年横浜および大阪、昭和八年神戸、昭和一〇年東京築地本場と相次いで中央卸売市場が開設された。重化学工業の発展により、大都市への人口集中が進み、その消費に対応する生鮮食料品の流通確保と、それに必要な取り引きの近代化を実現しようとするものであった。中央卸売市場における卸売人は、従来の個人問屋を整理統合して、単独又は複数の卸売会社として入場せしめ、仲卸・小売りの登録制をしき、市場取り引きは公開セリを原則とするものとなった。このような市場構造の変革は、流通面における商品の規格化、大量連続出荷をもとめるものとなり、産地における生産出荷のあり方も、それらに対応すべき態勢をとる必要に迫られることになった。

 果物同業組合の機能強化

 果物同業組合は、組合員の果実の販売や生産資材の共同購入などについての経済事業活動を行う事は禁止されている。しかし果樹生産の拡大は、農業経営の内部において、すでに副業的経営から専業的経営に移る傾向が生まれており、外部においては、中央卸売市場の開設による流通変化が進むなかで、産地の生産出荷活動を発展せしめる必要がある。その手段として考えられたのは、産業組合法にもとづく販売購買組合の設立であった。宇和柑橘同業組合と伊予果物同業組合は、昭和四年から五年にかけて、それぞれ宇和蜜柑販売購買組合、伊予果物購買販売利用組合を設立、認可を受け、同業組合で実施できない経済活動をこの組織によって遂行することになった。

 出荷体制整備

 中央卸売市場の開設に伴い、帝国農会は、東京・大阪・九州・大連などの要所に、農産物販売斡旋所を設置し、市場情報の集収、市場取り引きの改善、出荷規格の統一、出荷品の販売斡旋などの活動を展開した。本県においては、昭和六年、愛媛県農会・愛媛県果物組合連合会・愛媛県購買販売組合連合会・愛媛県副業協会の四団体参加のもとに、愛媛県農産物配給販売斡旋部を設立して、農産物の一元的出荷体制を整備することになった。県農会に事務局を置き、東京・大阪・神戸・門司・大連などに駐在員を派遣し、帝国農会と連携して県産品の出荷調整及び販売斡旋活動が展開された。県はこの全県的協調に対して財政的支援を強化した。配給販売斡旋部の設置活動により、初めて果実の全県的出荷体制が成立し、全国的出荷協定にも参加するようになった。

 共同選果の進展

 開発が待たれていたミカンの選果機は、昭和元年広島県で藤田式選果機(特製動力用及び並製足踏用)が製作され、本県北条地方にいちはやく導入された。本県においても、大正一四年足踏選果機(石手寺前、宮本氏)、昭和四年城南式選果機(原町村、稲荷金十郎)、昭和五年仙波式選果機(久枝村、仙波寅蔵)などが相次いで製作された。これら選果機の開発によって、選果荷造りの効率化、階級区分の合理化とミカンの商品化、規格化が実現することになった。宇和柑橘同業組合は、昭和四年吉田町に共同選果場を建設して、共販の展開をはかる態勢を整えた。伊予果物同業組合管内においても、昭和五年ころからミカンの共同選果組合が生まれ、共同選果による出荷品が、個人出荷よりも市場価格の好調を示した。こうした動向は、燎原の火のように県下各地に広がり、共販の基本となる共同選果が急速に進展することになった。ミカンの選果機開発は、他の柑橘類の選果にも応用されると共に、足踏みや手回しから電動式に、更に電動連結へと進んで選果能力の向上が実現し、昭和八、九年ころには柑橘類のほとんどが共同選果体制になった。