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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 果実の統制廃止と再統制


 統制廃止とミカン

 敗戦直後の国民生活は、戦争によって消耗破壊された経済的混乱のなかで、飢餓と貧困にあえぐものであった。物資の欠乏は、配給統制の継続とリュックサックによるヤミ流通の二重構造が続いていた。しかも、インフレは終戦処理に対する日銀券の大量発行によって、なお拍車を加える状況であった。青果物の配給統制が廃止されたのは、昭和二〇年一一月二〇日である。これは他の物資より速い統制の解除であるが、現実には、果実の生産量の激減とヤミ流通によって、配給統制が有名無実の状態にあったことを物語るものでもあった。統制廃止が温州ミカンの採収出荷期であり、すぐミカンの自由な流通が開始された。食糧の不足とインフレの進行で、ミカンの価格は日一日と上昇し、しかも産地価格と大都市市場価格の格差が大きく開く状況であった。ミカンの出荷は、包装資材の不足、輸送手段の逼迫のもとで、機帆船の確保、貨車配給の争奪などに明けくれながら、バラ積みの出荷が実施された。しかし、この統制廃止は、荒廃した果樹園を抱えた生産者にとっては、旱天の慈雨に等しいミカン価格の高騰で、復興への意欲をかきたてるものとなった。

 青果物の再統制 

 依然として続くインフレの進行に対して、昭和二一年二月一六日「金融緊急措置令」が公布されて、預貯金の封鎖、新円切り替えによる通貨抑制政策が実施された。しかし、食糧不足のために青果物価格の騰勢は幾分弱まったものの上昇が続く状態であった。昭和二一年四月三〇日勅令による「青果物等統制令」が公布されて再統制となった。一方価格については、昭和二一年三月三〇日に公布された「価格等統制令」にもとづき、果実は七月一日(蔬菜は五月一日)から価格統制が施行されることになった。本県では、七月二二日(県告示第二八〇号)公布施行された。

 統制の実態

 この青果物の再統制は、戦前の国家統制とは違って、地方長官の権限を強化したものであった。この再統制も、実勢価格(ヤミ)とは五倍から一〇倍の開きがあり、再び二重構造を産むことになった。指定出荷機関は、県農業会の支部(郡単位)が指定され、知事の承認による出荷指図書を発行し、それによって消費地への現物移動が実施された。ミカンの出荷に直面して、大都市消費地都府県は、価格よりも物資確保を優先する立場から、極秘の「黙認価格」なるものを設定して、産地への出荷を働きかけた。京阪神地方における黙認価格は、公示価格の約五倍(一貫匁五〇円)位であった。本県内においては、生食向けの計画量についての公示価格厳守を前提に、缶詰原料用について全国的動向を考慮した取引価格(黙認価格)適用の要請が起こり、知事および警察部長と指定出荷機関代表との折衝が重ねられた。黙認が成立したかどうかの確認はないが、県下的に公示価格の二倍程度(一貫匁二三円)の価格で缶詰工場に出荷した。それが後で経済統制違反事件となった経緯もあった。このように果実の再統制の実態は、初めから破綻していたと言ってもよく、占領政策のもとでの形式的統制にすぎない状況であった。

 再度の統制廃止

 昭和二二年一〇月青果物の統制から果実類が除外され、公定価格も廃止された。統制機関としての農業会も解散(昭、二二、一二、一五)することになり、農業協同組合法の公布による民主的な農村組織の成立条件が整うことになった。果樹復興の胎動が具体的な形となって現れ始めたのはこの年からである。