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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第六節 戦後復興期


 畜産物需要増で用畜化進む

 昭和二〇年終戦により戦時体制は終わったが、その打撃は大きかった。しかし、戦後の農地改革は永年の地主制が解体され、農民的土地所有を確立し自作農制を作り上げる大変革を生じ、同時併行的に進められた農業会の解散、農業協同組合の創設などの変革ぶりは驚異に値するものがあったが、残念ながら敗戦によって灰じんに帰した日本経済は、「低米価、重税」を踏み台にして、復興、再建をはかるほかなく「米の供出制度」の強化などで昭和二〇年~二五年は戦後の荒廃期とも言うべき時代で、自作農制を創出したとは言え農民の経営規模は戦前にも増して零細化し、全層的崩壊の素地も作られ、「農業改革なき農地改革」「畜産改革なき有畜化」に終わったと言える。
 昭和二五年朝鮮戦争を一大転機として、動乱ブームに煽られ急速な経済の回復再建が進み、農業においても前半の原蓄農政から小農保護農政に転じ、昭和二七年に創設された農地法、自作農維持創設資金をはじめ農林漁業資金特別融通法(昭26)、飼料需給安定法(昭27)、有畜農家創設特別措置法(昭28)、酪農振興法(昭29)と相次いで打ち出される施策によって、役肉用牛・乳牛・めん山羊などの草食家畜は比較的早く戦前の水準に回復したが、輸入飼料・穀物依存度の高い豚は昭和二九年に、鶏は三五年に戦前の頭羽数に復元したのである。
 かくして全農家に広く普及した零細有畜農業、家計補充のための副業畜産としての発展はめざましかったが、一方規模の零細性でも最も高い時期となった。
 そしてこの有畜化、副業畜産時代には農耕体制の中に初めて飼料栽培の地歩が築かれ、農業的畜産の原型が芽生えたことや、牛馬などの大家畜が大農家畜、豚羊などの中家畜が中農家畜として、そして鶏・兎などの小家畜は小農家畜とした階層性が再度云々された時代でもあった。
 しかし当時有畜農家特別措置法で喧伝された「主穀式無畜農業形態を改善して、輸作式有畜農業の普及進展をはかる」という、いわゆる輸作式有畜農法の定着には程遠い存在となり、むしろ一般的にはカス畜産あるいは加工畜産に奇形化して行くのであった。
 しかし次第に復興が軌道に乗り国民所得が向上するに伴って、畜産物の需要は急速に高まり畜産振興の必要性は日ごとに強くなってきた。
 これらに先立って、県では昭和二二年六月三〇日農務課-畜産係を独立し、経済部畜産課を置き畜産振興に力を注ぐこととし、同年いち早く松山市で愛媛県畜産大会を開催、畜産模範指定村の指定、畜産共進会の再開、家畜登録協会の発足、優良種畜の海外輸入、人工授精事業の開始、家畜保健衛生所設置、中予地域の畜産基地として県立松山畜産指導所の新設をみるなど畜産基盤も次第に整備され、家畜の頭羽数も急増する一方都市部の膨張も相次いで、畜産農家の立ちのきなどが次第に問題となりはじめたのである。