データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 和牛の変遷


 往古の和牛

 大昔の本県には野生の牛や水牛が住んでおり、瀬戸内海の海域から多くの化石や遺骸が出土して、北地野牛の渡来したものと考えられている。
 しかし、この先史時代の野生牛は、現在の飼い牛の先祖ではなく、いわば既製品を外来で手に入れたもので、その先祖は世界共通の原牛「アウロックス」に発し、次第に倭小化、家畜化したものが流入し、先ず宗教儀礼、祭祀用として用いられ、その後農耕、運搬及び採肥に、また一部乳肉の利用にも供され、一時は「牛馬野に被う」の盛況を呈するに至ったというが、耕種農業との競合、仏教の伝来などにより衰微するに至ったという。ただ本県など西日本においては営農上の必要から伝統的に産牛を継続し、また地方物産の運搬など地方産業とも結びついて、和牛はいわゆる「農宝」として重要視されてきた。
 このように畜牛は農耕運搬に使用されて、起源も古く、かつ最も普遍的な存在であったため、かえって記録もないものになったといわれている。
 一方牛肉を食用に供した古代の記録はあるが、仏教伝来以後は肉食の風習は止み、従って肉食が畜牛に与えた影響は少なかったとみられる。
 戦国の時代になるに及んで産業は荒廃を来し、産牛もまた衰頽を続けたが、江戸幕府の時代となって、各藩とも畜牛の増殖に努めた結果漸次回復に向かい、元禄から享保年代(一六八八~一七三五)以降になると本県や瀬戸内・近畿地方は使役地帯に、中国山地は生産地帯にと飼養形態上の地域分化が進み、従って本県では使役を要件として、各地に普遍的に飼養されて、幕末にはその数三万余頭に及んでいたと思料される。
 当時の全国頭数百万頭に対して本県は三%を超える比重を有しており現状の一・一%に比較してはるかに飼養密度が高かったことがうかがえるのである。

 明治前期における和牛

 明治に入り都市を中心として役肉の需要が徐々に増えはじめて老廃牛の肉の供給が行われたが意識的な肥育が行われたものではない。
 従って肉食は余り普及せず、明治八年の牛のと殺頭数は、一、八七五頭で一〇年においては九九三頭に減少し、翌一一年には一、一三八頭と増加、一二年には八二四頭と増減を繰り返し一七・一八年は六〇〇頭代で一九年九六三頭、二〇年一、五六七頭に復帰漸増を辿ることとなる。
 一方施策面では明治初年来展開された勧農政策の一環としてショートホーン種、デボン種を主とする洋種の導入が盛んに行われたが、これは畜牛の改良よりはむしろ肉用種の造成、増殖をねらったものであったため、その効果は特に見るべきものはなかった。
 またこの時期の一〇年設立された小幡牧場、あるいは一二年の県立牧牛場の建設計画などいろいろの畜牛改良増殖への準備が着々と進められたが、これらの動きに先だって六年に公布された地租条例により牛馬飼育の主要基盤であった牧野・採草地が急増し、併せて農民の草に対する意識も漸次低下して和牛飼育は次第に畦畔堤塘の野草や稲藁など農業副産物への依存を高める方向に変わっていった。かくして明治半ばには県下の牧野採草地のほとんどが消滅したため、県内の和牛経営はますます庭先、舎飼い的性格を強め、牛肉などの本格的な需要の増大を見る前に、その生産基盤の決定的制約を受けたことは、やがて昭和戦後において、みかんの増植が畜産適地の多くの里山に拡大したことなどと併せ、本県に土地利用型の畜産が伸び悩む最大の要因となったのである。

 明治中期における和牛

 日清戦争を契機として牛肉缶詰の普及などもあって牛肉需要が急増し、朝鮮牛の生牛や牛肉の輸入に対し県令で検査令が出され、また東、中予の一部で肥育が行われるようになった。
 しかし反面資源の減少も大きくなり、和牛の改良増殖を云々されるようになって、官民の間で和牛助長論と洋種による雑種改良論が対立して盛んに論ぜられるようになったが、本県では外国種の影響は余り大きくはなかった。
 これは、古来より本県には在来の日本種で「伊予牛」と称せられ、肉牛として名声を博していた牛がいたためであり、伊予牛は一般に黒毛・性質温順・身体強健・肉質良好で、本県の気候風土に適した一品種として認められた牛の存在があったためである。
 しかし「伊予牛」には体く矮小で輓曳力が少なく、肥盈性にも劣り、特に後くの発育が貧弱であるなどから、その改良の必要が叫ばれていた。
 このため本県では明治三二年ころより、デボン種・シンメンタール種・ブラウンスイス種を導入して改良を進めてきたが、特に本県南予地方においては、主としてデボン種をもって改良したもので本邦肉用牛の中でも異色を放つ存在であった。
 従ってこの当時外国種の導入については議論百出の中で、愛媛県農会技師として在県し、後に産業組合中央会会頭となった千石興太郎などが県内における畜牛改良の急務を説き、自ら斯業に対する改良の端緒を開かんと考え、愛媛県畜牛改良の方針を指示し、その後における大きな指針となり、また県内関係者の論議の的となった。
 このように畜牛改良の問題は、県畜産行政においても歴代知事の県政引継書にも必ず引継事項として登載されて伊予種牛改良の基礎となった。
 また二一年ころより朝鮮牛の輸入の漸増なども加わって三一年にはピークの四万一、〇八三頭に達したが、牛価は逆に大暴落し、小幡牧場など養牛家の多くが破産の憂き目をみた時期であった。

 明治後期における和牛

 かくて和牛改良方針確立の急務なるため、国においても三三年種牛改良調査会の設置とその答申に基づく種畜牧場の開設により雑種的な改良増殖業務が開始せられた。
 同時に中期以降から畜産団体の育成強化が叫ばれるようになり、三三年に至り、「産牛馬組合法」(法律二〇号)が制定され、県下でも牛馬の改良増殖の尖端組織として、三七年に南宇和郡産牛組合の設立を皮切りに順次組合が設立されて地方畜産振興の中核となった。
 このように三〇年代はまさしく和牛維新とも言える時期であると共に雑種熱も日増しに高まり、折からの日露戦争による好況を迎えて、雑種万能時代の出現に至るのであるが、所定の方針や目標もなく、選択淘汰もない結果、改悪のそしりも出て、いたずらに混乱を招くことが多かった。
 たまたま日露終戦の不況と共に四一年を峠に雑種熱は急転直下に冷却し、反動的に純粋和牛に対する郷愁のようなものが生ずるに至った。
 こんな情勢の中から四五年には雑種交雑を転換し、その整理固定を図る方向が打ち出された。
 そしてこの時期は牛の商品価値の高まりと共に、牛小作など預託方式による和牛の飼育の増加に加え、産牛馬組合の活動が与って戦後の減少から漸増をたどるのである。

 大正期における和牛

 この時期は雑種問題の反動も短期で終わり、かと言って在来の和牛のままでは不満足なことが一般の認識となり、大正元年に在来の和牛と雑種牛の採長補短を改良の基本方針にすべきことが明示された。
 従って牛の呼び方も、改良の途上にあるという意味で「改良和種」と呼称されることとなった。
 本県でもその実情に即した県独自の改良目標を樹立し、その目標の達成をめざすべく、先ず大正三年に本県の代表原産牛である「御荘牛」と「三崎牛」の実態調査を実施して雑種牛との比較整理を行うこととなった。
 その調査結果では和牛の矮小・晩熟・低泌乳能力・後く発育不良など劣勢もあったが、一方雑種の骨太・肉質不良・大貫物すぎるなどの欠点も大きく指摘された。
 そこで和牛の良さを基盤として外国種を入れての改良が進められることとなったが、この辺の模様については大正五年の県政事務引継書で窺知することができる。
 改良和種と呼ばれたこの時期の牛は決して「改良された和牛」でもなく、まして固定された品種でもなかった。従って県でも伊予牛の標準体型を定め、審査標準を作成し、さらに進んで登録制度を樹立実施して品種の固定をはからなければならないということになって和牛の登録事業に取り組むこととなった。
 またこの時期は前期の好況につれ畜力利用の奨励普及が盛んに行われ、後期不況の深刻化と共に厩肥に対する認識も高まり一般農家での和牛飼育は有畜農業的性格を強めていったのである。
 同時に戦争による好況に刺激されて牛肉消費も急増したため県内一部の地域にとどまっていた肥育が各地で行われるようになり、その奨励施策として肉牛品評会、共進会が盛んに行われるようになったが、生産基盤の脆弱さから増強には至らず一進一退の中で、元年の四万八、八七三頭から一五年は四万八、三九六頭と大正期を通じて、僅かながらも減少するという結果に終わっている。

 昭和前期における和牛

 大正末期から昭和初期の不況の深刻化は、農業経営組織の編成替えを促して無畜農業から有畜農業への転換が始まった。
 昭和四年から七年にかけて初めて牛の経済調査が実施され、また六年には「有畜農業奨励規則」が制定されて、農業経営全体の改善に畜産を織り込むことが唱道せられ、和牛は着実な伸びを見せるに至った。
 かくて厩肥、畜力利用が一層盛んになり、肥育の面でも各地に肥育組合が誕生し、さらに七年の「牛豚肥育奨励規則」の制定や満州大豆の飼料化で肥育地域は一層拡まった。
 同時に徴発の軍馬に代わり牛への転換が多くなり、九年まで四万頭代であった牛が一〇年には一挙に五万六、七四七頭とこの年を境に増え続け、一七年にはピークの六万八、七九二頭になるが、太平洋戦争えの突入により二一年まで減少が続いた。
 施策の面では二年に伊予種牛標準体型作成審議会が発足し検討を重ねて、九年九月一一日に伊予種牛標準体型が別掲のとおり制定され、登録事業も順調に普及するに至ったが、一二年に至り全国一元化の線に沿って県畜連が指定団体となり、一四年に至り『資料編社会経済上』二九六頁のとおり役肉用牛登録規程が制定された。
 また同一四年には生産力拡充五か年計画に従って空腹解消を目的とした種雄牛の無償貸し付け、牛の増殖専任技術員の設置、共同育成施設など広範な施策が実施された。
 次いで一五年には牛の価格統制が実施され、登録の階梯によって値が決められたことなどから登録事業は軌道に乗り、加えて肉牛の大量供出で駄牛の淘汰も大いに進み和牛の改良には絶好の機会となったほか、牛の採草放牧用として国有林の一部開放などもあったが、飼料事情などの悪化で、本県の得意とした肥育事業などは本格的なものはほとんど姿を消すに至った。
 かくて終戦となったが濃厚飼料への依存が少なかったことから最低線は維持され、その後の和牛需要の急増や牛価の高騰からブームの到来を思わせるものがあって、二三年には既に戦前の水準にほぼ回復した。
 その後二五年のデフレーション期には伸びが一時鈍化したが朝鮮戦争で再び増加に転じ、二七年開始の有畜農家創設事業によってさらに拍車がかかり、二八年には七万二、六〇〇戸の七万七、七五〇頭と本県和牛史最高を示すに至った。
 しかしこの年代初期には県畜力利用推進協議会による技術交換競技会や各地に競犁会などが盛んに開催されていたが、末期からは耕耘機が出回り初め、三〇年代に入ると普及は一層めざましく、役用需要は大きく後退し、飼養頭数も次第に減少の方向をたどるようになった。
 そしてこの期には経済好況による肉類需要の増大から次第に肥育事業が復活し、二七年の麦の統制撤廃などに加えて、肉牛審査標準の設定、肥育促進ホルモン剤の利用や各種の試験研究の進展により、役に代わって肉用肥育技術の著しい進歩をみた時代となった。
 また経営拡大や近代化に重点を置いた施策も補助事業から融資事業が大きく代替するのである。

 昭和三〇年以降における和牛

 三〇年四月一日より愛媛県原種々畜指定要綱が制定され、優良牛の系統造成や高等登録制度への対応など育種的改良への基盤整備も進み、登録事業の発展と共に本県和牛の斉一性、繁殖能力、産肉能力など肉利用面の強化が着々と進んだ。
 次いで三二年ころから肥育牛の若齢化、理想肥育あるいは本県独得といわれた牡牛肥育の当否などが進められると共に多頭化の普及、三五年開始の肉用素牛導入事業、三六年の農業構造改善事業、三八年ころより唱道された一貫経営、協業経営による大規模肥育事業が始まって、従来の有畜農業的性格から離脱して農業経営の主要生産部門としての地歩を固め、畜牛と殺の七〇%を肥育牛が占めるようになった。
 しかし、こうした肉利用の増大に対し、役利用、厩肥利用の退調に加えて乳牛・豚鶏などの増大によって、農宝的、絶対的な地位は失われて低迷が続いて、肉利用への転換体制は一段と強化され、模索する中で乳用雄子牛が素牛として脚光を浴びることになった。
 そして、昭和二九年には乳牛肉は和牛肉の僅か七%に過ぎなかったが農協育成牧場の設置、集団肥育実験事業の実施に続き四八年には県経済連が北海道に乳雄子牛の集荷基地を設けるなどで乳雄子牛の肉畜化は急速に発展し、五〇年代では肉牛に占める乳用牛の割合は六〇%以上を占めるようになった。
 また牛肉需要の増大や土地利用型畜産経営の必要から肉用牛の生産振興は必須の課題となり、昭和四〇年一月二七日に松山市において肉用牛生産者大会が開かれ、翌四一年には肉用牛振興地域指定が行われ、次いで別掲のような、愛媛県肉用牛生産振興方針も策定されて生産基盤の強化や経営規模拡大が試みられ、企業的経営が志向されたが成果は意の如くならず、その位置付けは困難で戸数、頭数とも減少を続け四八年には最低の一万八、四〇〇頭に減少したが、石油パニックによる減速経済の中で肉用牛経営は見直されることとなり、四九年五月大洲市において肉牛生産危機突破大会を開催し強力な施策の実施を要請するなどにより回復の兆しを見せ、五一年以降は微増を続け、五八年には二万六、八〇〇頭に回復した。
 これは乳牛、豚鶏などが生産調整を強いられる中で、独り牛肉が世界的供給不足の情勢にあるためで低コスト国産牛肉の生産は緊急最大の課題となっている。
 しかし貿易自由化が押し迫る中で、牛肉の輸入枠拡大ないし自由化の外圧は日増しに強く、国、県令団体の不退転の決意が要請されている。
      愛媛県肉用牛生産振興方針(昭和四六年目標)


   1 基本方針

  愛媛県肉用牛生産振興方針は、増大する食肉需要に対応して激減傾向にある肉牛資源の確保をはかり、経営の拡大合理化を進め安定的な肉用牛の経営を計画的に推進するための基本的方向を示すものである。
  本県は和牛の肥育を主体とする肉牛生産県であり、素牛の大半を県外移入に依存している現状において、全国的な肉用牛資源の不足並びに価格の高騰は素牛の入手難となり安定的な肥育経営を指向する農家層に緊急な問題となっているが、肉用牛資源は今後も慢性的な不足傾向に推移するものと予想される。従って、肉用牛の計画的かつ安定的な振興をはかるためには繁殖ならびに肥育経営の地域間分業と主産地経営の原則に立って地域を指定し、指定区分に応じた振興施策を推進することとし、零細経営から複合経営、主業経営あるいは専業経営への段階的育成をはかるものとする。地域の指定に当っては肉用牛飼養の実態はもとより、愛媛の明日の農業計画、南予経済圏整備計画、酪農近代化計画等の振興方向との関連において行うものとする。
  基本的事項は次のとおりとする。

  (1) 繁殖育成部門の整備育成
 当面の最重点事項とし繁殖育成の立地に適応した地域の整備育成により意欲的な生産を助長して素牛の県内自給度の向上につとめるものとする。
  (2) 肥育経営の安定的拡大
 肥育は本県肉用牛経営の中核をなすものであり、素牛の計画的かつ安定的な確保をはかるものとし、経営規格の段階的拡大につとめるものとする。
  (3) 飼料基盤の整備拡大
 零細副業経営から複合経営あるいは専業化への規模拡大に対応して飼料基盤の整備拡大につとめるものとする。特に繁殖育成部門においては既耕地の効率利用をはかるほか草地の放牧等による省力利用をはかるものとする。
  (4) 流通の合理化
 安定した肉用牛経営の維持拡大をはかるため、系統組織の育成強化につとめるものとする。
  (5) その他
 経営拡大方向に応じて集団飼養技術の普及、衛生対策の充実、ならびに一元的な協力指導を推進するものとする。


   2 日標(表2-4参照)


   3 改良および増殖に関する事項

  (1) 改良計画
 県内和牛増殖地域において生産された優良雌牛の保留につとめるほか、県外和牛改良地域より優良繁殖基礎雌牛を計画的に導入し、体形、資質、産肉能力、繁殖能力等を重点改良事項とする。種雄牛については、少数精鋭の優良種雄牛を適正に配置し、集中管理による人工授精の普及を強化して、改良の効率化につとめる。なお、人工授精技術の急速な進歩に応じて凍結精液の実用化をはかるなど意欲的な改良と受胎率の向上をはかる。肉用牛改良の組織は県ならびに種畜場を中核とし、県家畜改良協会、経済連等生産団体の協力により生産農家の改良意欲をたかめ、改良計画を着実に推進するものとする。
  (2) 増殖計画
 昭和四六年度における肉用牛の増殖目標は飼養頭数四万頭、飼養戸数一万五、四〇〇戸とし、一戸当りの飼養頭数は二・六頭とする。県の肉用牛生産振興地域の指定は、国の指定基準に準じて行なうこととし、和牛増殖地域、和牛増殖+肥育地域、肥育地域の三区分とする。地域指定は市町村を原則的な単位として行なうが、一部特定地域には広域的な指定を行ない増殖計画の推進につとめるものとする。県の広域的な肉用牛増殖計画の地域区分は次のとおりである。

    繁殖育成の中心は南予地域ならびに中予山間地域とする。
    肥育は肥育地域に指定した平地農村地帯、中山間地帯を中心とする。
    育成については草地の開発に応じて、中予、南予の山間地帯に所要の集団育成を進めるものとする。


   4 導入に関する事項

  現況における県内の素牛自給率は約八・四%であり、計画最終年次の昭和四六年度においても僅かに一二・七%である。従って、県の肉用牛増殖目標の維持達成には県外からの素牛導入については特に留意することとし、繁殖基礎雌牛の導入による意欲的な生産団地の拡大育成による素牛自給度の向上につとめるとともに、肥育素牛の安定的な導入をはかるものとする。
  即ち国の行政指導とあいまって隣接主要生産県の素牛需給ならびに価格安定の方向に即応しつゝ助成、融資等制度導入の拡大をはかり、系統組織による共同導入の方向を、さらに推進し、導入の合理化につとめる。県外素牛の供給地としては、中国、九州の各県を予定するが、産地の移動、情勢の推移等により新しい供給地の開拓についても留意するものとする。


   5 飼料自給度の向上に関する事項

  現況においては飼養規模が極めて零細であるため、農場副産物等の利用により粗飼料(麦、雑穀等)の大半を自給しているが、経営規模の段階的拡大の方向により、意欲的な粗飼料生産利用対策が必要である。特に繁殖経営、若令肥育経営については良質粗飼料の確保が規模拡大の前提となる。従って既耕地における飼料作物の作付強化(水田裏作、畑作)畦畔野草等の集約省力利用、山林原野草の省力利用、草地の改良等地域の資源、立地条件に適合した意欲的な開発利用を行ない規模拡大の隘路打開につとめるものとする。特に草地の開発利用については山村地域において適地の選定、権利の調整、利用方式の策定等増殖計画に対応して推進し効率的な開発利用による飼料自給度の向上につとめる。粗飼料の自給目標は一〇〇%とし、全飼料に対する粗飼料を含めた飼料自給目標は次のとおりとする。
      飼料自給目標(五~六頭飼養の複合経営)

      現  況                     目標(意欲目標)
  繁殖経営 一%(一~二頭の場合は九五%)    九〇%
  若令肥育 三〇%                     五〇%
  壮令肥育 二〇%                     三五%


   6 技術改善向上に関する事項

  本県の農家の肥育技術は一般的に高水準にあると認められるが、繁殖育成技術については他県に比してかなり遅れている。特に多頭飼養の方向に即応する技術体系の確立普及が肝要である。

  (1) 飼養管理技術の改善については畜舎施設等の過大投資を避け、その効率的な運用と省力多頭化を推進し、放牧管理技術の確立をはかる。
  (2) 飼料作物の生産利用技術の向上については、省力的な高位生産技術を主眼とし、試験結果等を基礎として品種の選定、多肥省力栽培の普及ならびに収穫、調整、貯蔵等の合理化につとめる。
  (3) 経営管理技術の向上については、試験研究機関などの体系的に確立された経営技術を普及し、技術水準の向上のため、研修、講習会、日頃の技術指導を通じて地域に即応した経営技術の普及をはかる。


   7 経営改善に関する事項

  (1) 繁殖育成経営
 地域の立地条件に応じて段階的に改善をはかることとし、繁殖牛常時五~六頭飼養の複合経営の育成に主力を置き、一〇頭程度の主業経営、さらに二〇頭程度の繁殖専業経営を期待し、放牧利用方式による経営の育成をはかる。また兼業農家等の零細飼育経営の維持についても留意し綜合的な素牛自給の向上と経営安定につとめるものとする。
  (2) 常時飼養頭数一〇頭程度の複合経営から三〇頭程度の専業経営の育成を地域に応じて段階的に推進し、規模に対応した経営技術の普及につとめるものとする。



表2-4 愛媛県肉用牛生産振興方針の目標 (昭和四六年)

表2-4 愛媛県肉用牛生産振興方針の目標 (昭和四六年)