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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

三 養鶏振興施策の概要


 本県養鶏の発展は明治以降であり本格的な産業養鶏の進展をみたのは大正時代から特に昭和時代に入ってからである。従って施策についても明治の国の施策についで大正時代の奨励諸制度の整備、昭和初期の鶏卵増産施策そして戦後の復興対策につぐ近代養鶏産業施策がとられ、試験研究成果などと相まって今日の地歩を築くに至った。


  1 明治時代の養鶏施策

 国においては明治七年優良種鶏輸入計画が持たれ、八年「家畜飼養法」が刊行され、九年人工孵化試験を実施、一一年新式孵卵器及び育雛器を輸入、一五年米国より種鶏六種の輸入による種禽種卵の配布をはじめ、一七年第一回万国家禽会議への参加、二一年家禽統計調査の実施、二六年万国博覧会への日本鶏の出品、三五年鶏卵輸入関税の引き上げ、三九年月寒種牛牧場付属種禽種卵所の設置などの施策が漸次講ぜられた。
 本県においても明治初期以降洋種鶏二〇余種の導入が行われ、三七年伊予家禽協会の設立、三八年養鶏に関する統計の公表が行われた。


  2 大正時代の養鶏施策

 大正六年国の「副業奨励規則」の公布、第一回全国家禽共進会の開催、八年の「道府県種畜場補助交付規則」並びに畜産奨励規則の公布、一三年「鶏卵共同処理奨励規則」の公布に次いで鶏卵などの「畜産物販売斡旋及受託奨励規則」の公布などに基づく施策が講じられた。
 また県においては大正二年「畜産物共同施設奨励金交付要項」が、三年二月「養鶏奨励補助規程」の制定、ならびに養鶏組合の設置奨励に関する内務部長通牒、八年には鶏を含む第一回県畜産共進会の開催、一〇年に県立種畜場が周桑郡庄内村に設置されると共に副業的養鶏奨励団体に対する孵卵器や仮母器の助成事業が始まり、一一年には種禽、種豚、種卵の払下規程が制定された。


  3 昭和戦争終了までの養鶏施策

 昭和二年に政府は、鶏卵増産一〇か年計画を樹立したが、この計画に関連して養鶏奨励規則が施行されると共に、全国枢要地五か所に種鶏場が設置された。
 三年七月に産卵能力検定規則、四年種鶏場へ養鶏技術用練習生採用規程による練習生の採用が初まり、七年全国養鶏大会が開催され、一三年には卵の公定価格が設けられた。
 一四年に鶏の改良増殖五か年計画が樹立されたが、次第に体勢は厳しくなり、一五年には遂に鶏卵配給統制規則などによる統制策が強化された。
 県においては昭和二年に種豚・種畜・初生びな・種卵の払下規程が、また三年には養鶏奨励補助規程が定められ、四年になり、これまでの偽卵による母鶏孵化から、人工孵卵器孵化に変わることとなった。
 また七年にはひなの雌雄鑑別が始まり、翌八年には愛媛県産卵能力検定規則の制定やトタン傘型仮母器が使用されるようになった。
 次いで一一年に自痢検査が実施され、一六年には堆肥のはっ酵熱利用の温床育雛の出現をみ、一九年に種禽検査規則が公布されたが農村不況や戦争のため、施策の十分な効果は上げ得なかった。


  4 昭和戦後の養鶏施策

 戦後の復興をめざして、政府は昭和二二年第一次畜産振興五か年計画を樹立し、逐次飼料業績の好転と共に復興の兆しをみせ、二四年六月二五日鶏卵の統制の撤廃に伴い全販連の系統共販が再開された。
 二七年には畜産振興一〇か年計画を策定、米国などの先進国から種々の新しい機械器具や技術の導入も活発となり、三二年には、白レグ×ロードアイランドレッドの国産鶏増井一号が作出された。
 三四年に融資措置が始まり、三五年には待望の養鶏振興法の成立をみ、また鶏卵の取引規格設定のための協議会が設定されるなど戦後からの一〇数年間は養鶏の復興期であった。
 次いで三六年ころから外国鶏の大量輸入が始まったのに対して国産種鶏の改良に乗り出し、やがて新種鶏「ノーリン一○二号」や「ノーリンクロス」などの作出が発表されることとなった。三九年には豚鶏資金制度が開始され、四一年に鶏卵価格安定基金制度が発足し、四五年には、全国ブロイラー価格安定基金が設置された。
 また翌四六年には全国鶏卵公社の設立に続き畜産環境改善資金制度が発足し、さらに四九年は鶏卵需給調整協議会の設置をみた。
 五〇年に鶏の改良増殖目標が公表され、五一年には飼料穀物備蓄体制の整備が急がれることとなった。
 一方、さきに述べた国の施策に呼応して県や関係団体の施策も昭和二二年には種鶏をふくめた県畜産共進会を再開し、二三年から白色レグホーンのアトキソン系・タンダレット系から系統間交配されたものが飼われるようになり、翌二四年には甘藷養鶏が唱導されると共に白色レグホーン×ロード・プマウス・名古屋種などとの一大雑種(大卵化~一卵重が五五g~五七g)の利用が始まったが経済性の面などから二五年後半より減少した。二七年に養鶏試験場の前身となった県立松山畜産指導所が設置されて本県養鶏の拠点としてその後の養鶏の発展に大きな支えとなった。二八年にはバタリー育すう器の出現や点灯が行われるようになり、コクシジウム症の多発があった。二九年愛媛県種鶏検査並びに孵卵業者条例の公布と愛媛県産卵能力現場検定要綱が制定されると共に雑草養鶏なども試みられたが輸入飼料の増加に伴い二~三年で止まった。三〇年愛媛県種鶏検査等運営審議会設置要領の制定があり、三一年には愛媛県種卵孵化受託規程が施行された。
 また三二・三三年の二回にわたって米国より優秀な新品種種鶏が直輸入され、在来品種の改良に大きな刺激となった。また三二年には宇和町農協などの共同育すう場が設置されて養鶏の規模拡大や団地育成に貢献するところとなり、三三年に至り県内の養鶏羽数一〇〇万羽突破を記念し五月二九日記念大会が開催されると共に県農協婦人部の提唱による一戸七〇羽飼育運動の展開、さらに県経済連は鶏卵の無条件委託系統共販を開始した。
 三四年にケージ飼い養鶏がおこり、卵の段ボール箱詰出荷が開始された。また翌三五年には県立松山畜産指導所を廃止して県養鶏試験場が設置され本県養鶏発展体制の拠点となり、この年標準鶏認定事業が始まったが当時の県下標準鶏の分布および初生雛の生産機構主流図を示せば図2-4のとおりである。
 一方県経済連においても鶏卵系統共販一、〇〇〇t・配合飼料取扱倍増計画達成を記念して愛媛県農協養鶏大会を開催し、一〇万羽集団養鶏など振興対策の強化と鶏卵共販体制の拡充、飼料予約共同購買体制の確立などが決議された。またこの年の一二月二〇日総工費一、六〇七万円で廃鶏およびブロイラーの処理施設として経済連食鳥加工場の設立をみた。
 三六年には養鶏試験場に肉専用鶏の新品種を米国より直輸入すると共に、丹原家畜保健衛生所において県下初めて鶏の人工授精が実施された。またこの年に経済連と畜連の統合によって畜連の種鶏場・孵卵場・選卵場などの施設が経済連に引き継がれ、三七年から再編拡充整備に着手した。
 三七年三月、二〇〇万羽突破記念行事を行うと共に、第一回鶏卵品質改善共励会を阪神市場において実施するほか、この年に熱断嘴の開始、一日二回給餌への切り換えや軽量鉄骨鶏舎の建設が始まった。
 三八年には鶏糞の定置式送風乾燥機が出回り、また宇和島・松山・今治に共同選卵場が設置されて愛媛鶏卵の声価を高めることとなった。同時にこの年はコリーザが多発して対策に苦慮した。
 そしてこのころ県内でも三元交配品種ゴールデンレッドの作出をみるなど、在来種の改良基礎鶏は確保されたが、さらに産卵効率などを高めるためには外国鶏の導入が必要となり、この年四月八日ハイライン種の第一次空輸を実施した。
 このころは民間でも多くの種類の外国鶏が導入され、愛媛養鶏の発展促進に大きく貢献した。
 三九年の鶏卵価格はエッグサイクルの周年として安値が予想されていたが、年明けとともに予想以上の低落が続き、殊に四~八月は大阪相場でkg当たり一六〇円に暴落した。
 このため南予地区の養鶏農家一五〇人は七月一六日、宇和町役場において南予養鶏振興大会を開き、養鶏振興ならびに鶏卵価格補償や経営制度の確立に関する決議などを採択して各方面に要請運動を展開した。
 こうした養鶏農家の結集はやがて九月二六日の愛媛県養鶏危機突破大会の開催へと盛り上がり、翌四〇年半ばすぎまで要請運動が繰り返されたが、この年鶏卵価格補償事業やブロイラー生産調整事業が開始され、また養鶏試験場の産卵戦力集合検定事業を経済能力検定事業に切り換えるなど試練も多い年であった。
 そして、続く四一年ころは、外国鶏への切り換えが急速化し在来種の供給体制のことなどもあって、経済連はハイライン専用種鶏場として種鶏伊予分場(松前町中川原)を建設し、ハイライン採卵用初生雛三〇万羽の供給体制の確立を図った。四二年には養鶏専業農家も増えて飼料タンクの庭先設置や自動給餌・除糞装置などへの設備投資も次第に大きくなった。四三年には愛媛県養鶏協会、愛媛県食鳥肉販売業環境衛生同業組合並びに愛媛県鶏伝染病自衛防疫促進協議会などが発足をみており、四四年には鶏卵食鳥消費普及拡大事業が展開され、青空育すう・育成が出現し、強制換羽やウィンドレス鶏舎の普及が始まった。
 四五年には、外国鶏のシェアーは八二%を占めるに至り四六年は愛媛県養鶏経営者協議会の発足、廃鶏処理施設整備事業が開始された。四七年に養鶏試験場が整備拡充のため東予市福成寺の農業研修所跡へ移転を完了して、中・四国一を誇る施設を完備し、総合的な試験研究調査を行い養鶏振興に活躍することとなった。四九年には鶏卵計画生産強化のため県下一九市町村などに鶏卵需給調整協議会が設置され、五〇年六月二一日県農協会館において社団法人全日本初生雛鑑別協会主催、本県は当番県として、また第一四回農業祭参加行事として、第一六回全日本初生雛雌雄鑑別選手権大会を開催、本県選手九名を含め全国より一二一名の選手が参加、本県相田陽一が四国地区最高位となった。そしてこの年は鶏卵価格補てん基準価格が制度発足以降最高額二七三円/kgとなり、以後も補てん対象数量・金額ともに増加傾向が続いた。五二年には松山養鶏農協は餌高から身を守るため二種混合飼料工場を北条市難波に建設するなど畜産物余剰基調の中にあって、養鶏産業は既に飼養技術あるいは鶏病コントロール技術などは限界に達したと言われる現状であって、五三年以降は鶏卵食鳥ともに余剰基調は崩れず生産対策は計画生産とかコスト低減のための僅かな施策に限られ、専ら流通合理化、価格対策あるいは消費拡大対策などで占められ需給の好転バランスの保持に努めるようになった。






表2-9 県下採卵鶏の基盤である標準鶏の分布状況 (昭和36年県畜産課調)

表2-9 県下採卵鶏の基盤である標準鶏の分布状況 (昭和36年県畜産課調)


図2-4 初生雛生産機構主流図

図2-4 初生雛生産機構主流図