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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

六 林産物検査制度の沿革並びに木炭用材の生産について②


 用材生産の推移

 愛媛県内の用材生産の推移は、第二次大戦前のものは明治三七年以降の「愛媛県統計書」によって、また第二次大戦以降のものは「愛媛県統計年鑑」や県林政課の資料によって把握することができる。ただ用材の生産は、その用途や形状が多様であることを反映し、時代によって統計処理の仕方に相違かあり。林産物のなかでも木炭生産のごとく統一的な数量把握は困難である。
 明治三七年から大正三年までの「愛媛県統計書」には、用材は林産物雑類の項に、丸材及び角材・挽材・鉱山用坑木・下駄材・榑木・車両用材などの別に記載されている。このうち丸材及び角材・挽材・鉱山用坑木の生産が主なものであるが、明治四〇年の生産量をみると、丸材及び角材一、九七〇万才(約七・七万立法メートル)で四四・八万円、挽材六七万坪で二四・二万円、鉱山用坑木四二二万才(約一・六万立法メートル)で六・六万円となっている。昭和五五年の国有林と民有林を合わせた素材生産量が八〇万立法メートルであるので、当時の用材生産量はそれほど多くなかったことがわかる。
 また同統計書には郡市別の生産量も記載されているので、当時県内ではどの地域に用材の生産が多かったかを指摘することもできる。当時の用材生産量は、天然林に依存した略奪的な生産を反映して、地区別にみると年により生産量の変動が激しい。この変動幅は数か年の平均値でみると除去することができる。明治三八年から四二年の五年間の平均値でみると、当時、丸材及び角材の生産の多かった地区としては、新居郡・喜多郡・東宇和郡などが、挽材の生産の多かった地区としては、上浮穴郡・新居郡・北宇和郡・東宇和郡などが、坑木の生産の多かった地区としては、東宇和郡・西宇和郡・喜多郡・北宇和郡などがそれぞれ指摘できる。丸材及び角材の生産の多い地区は、加茂川流域や肱川流域のごとく、木材の流通の盛んな地区であり、挽材の生産の多い地区は上浮穴郡や北宇和郡など木材の流送の不可能な地区である。また坑木の生産の多い地区は、喜多郡と南予の三郡で、坑木の需要地である北九州に比較的近接している地区であり、それぞれの地域の特性を反映して用材生産が行なわれていたことがわかる。
 大正四年以降の愛媛県統計書には、林産物のなかから用材生産は除外され、かわって国有林と民有林の伐採量が用材と薪炭材別に記載されている。大正四年の用材伐採量をみると、国有林一一・六万尺〆、民有林二七・四万尺〆、計三九・〇万尺〆(約一五万立法メートル)で六九・〇万円となっている。明治四一年の用材伐採量が四三・九万尺〆であるので、用材生産量に明治末年以降さしたる変化はみられなかったことがわかる。ここで注目されることは、用材の伐採量に占める国有林の比率が三〇%も占めていることである。当時は国有林材の生産が県内の用材生産に重要な地位を占めていたことがわかる。
 大正年間の県内の主要用材生産地をみるために、大正五年から同九年の郡別の用材伐採量の平均値をみると、北宇和郡、上浮穴郡などの伐採量が多いことが注目される。両者とも国有林の伐採量が多く、国有林の開発を中心に用材生産が伸びていることが注目される(表1―35)。
 用材の伐採量は昭和六年の満州事変後急激に伸びている。昭和六年の伐採量一五二万石は昭和一〇年にはその二・二倍の三三五万石(約九三万立法メートル)になり、昭和一五年ころまではほぼ同じ伐採量で推移する。当時の用材主産地は北宇和郡・上浮穴郡であるが、温泉郡や伊予郡など都市近郊山村で用材の伐採量が多くなっている点は注目される。昭和一六年以降の統計数値は不明であるが、同年太平洋戦争が勃発して以降、木材統制法が公布され、木材は国の統制物資となる。
 第二次世界大戦後の用材生産量は、統計的には素材生産量として把握されている。戦後しばらく社会情勢の混乱から用材生産は停滞していたが、昭和二五年の朝鮮戦争を契機とする経済界の好況を反映し、用材生産量は急増する。昭和二六年の立木伐採材積は二二五万石、素材生産量一六九万石であったものが、翌二七年には立木伐採材積六三八万石、素材生産量四六九万石(約一三〇万立法メートル)に急増しているのは、この間の事情を物語っている。
 愛媛県の素材の生産量は昭和二七年から三二年の間は一三〇万立法メートル程度で推移するが、昭和三六年以降はその生産量が年を追って減少する。昭和三五年の一三二万立法メートルに対して、昭和四〇年にはその七九%にあたる一〇四万立法メートルに、昭和四五年には六六%の八七万立法メートルに、昭和五一年には四四%の五八万立法メートルにまで低下する。昭和三〇年代の半ばは、木材の需要も多く、それを反映して木材価格も高価であったが、幼齢木が多いという樹齢構成の特性と労賃の高騰から素材生産は伸び悩む(図1―11)。
 県産材の不足を補うものとして登場したのが外材である。外材の輸入は昭和三六年から増加するが、愛媛県の木材消費量に占める外材の比率は、昭和三八年一二・八%、四三年二七・三%、四八年三九・〇%、五三年四九・〇%と増加していく。昭和三〇年代後半から四〇年代にかけては、この外材輸入の増加が県産材の生産低滞の大きな要因となる。
 外材の輸入は、輸出国の丸太輸出の規制などの影響をうけ、近年は減少傾向にある。これを反映して愛媛県の素材生産量も近年は再び増加傾向をみせてきた。昭和五一年五八・四万立法メートルであった素材生産量は昭和五五年には八〇・五万立法メートルにまで回復してきたが、まだ最盛期の五九%にしかすぎない。木材価格は五〇年代にはいって低迷を続け、住宅建築数、木造住宅率も低下している。加えて山村では過疎が進行し、林業労働力の不足と労賃の高騰が続いており、林業をとりまく環境は依然として厳しいものがあるといえる。

 加茂川流域の用材生産の成立

 木材はその重量の割には価格の安い商品であるので、用材生産地域は交通の不便な時代には、都市に近接した地域か、河川による流送の可能な地域に成立する例が多かった。愛媛県で明治年間用材生産の盛んな地域は、東予の加茂川流域、南予の肱川流域や鬼ヶ城山系などであったが、これらの地域はいずれも木材の流送の可能な地域か海岸に比較的近接した地域であり、交通不便な時代に木材の輸送に便利な地域であったといえる。
 西条市に注ぐ加茂川流域は愛媛県で最も早く用材生産の盛んになった地域であり、加茂川林業の名がある。この地域は石鎚山を前面にあおぎ見る地形急峻なところであるが、結晶片岩の風化した地味肥沃な土壌に恵まれ、スギの美林がみられ、さらに奥地の国有林地帯にはモミ・ツガの天然広葉樹林がうっそうと繁茂していた。美林の形成には、西条藩か宗藩紀州家の林制にしたがって山林の保護育成につとめたこともあずかって大きかった。
 この地域に林業が成立したのは、山地が海に近く、しかも加茂川が木材の流送に利用できたことが最大の要因であった。木材の流送は藩政時代にすでに行なわれていたが、『西条誌』には寸太とこの地方で言われた薪材の流送が盛んに行なわれていたことを誌している。薪材は河口の古川土場に陸揚げされ、ここから讃岐や摂津などに搬出されていたという。スギ・モミ・ツガなどの用材もまた加茂川の流送によって河口の古川または加茂川橋付近の土場に陸揚げされた。
 加茂川は急流で木材の流送には必ずしも恵まれていなかったので、筏流しはほとんど行なわれず、主として木材を一本ずつ流す管流しを行なった。それでも激流のなかで岩に当たり、折れたり、割れたりする材木も多かった。管流しの起点は加茂川の本流では旧千足山村の土居の土場であり、その支流の河口谷では西ノ川の土場であった。また旧加茂川村から流出する谷川では、下津井の下手の筏津が管流しの起点であった。加茂川とその支流の谷川の流域には、本流ぞいに九つの土場が、支流には八つの土場があった。
 木材の管流しの基点である土場への木材の搬出は、木馬や駄馬、さらには担夫によってなされた。木馬は比較的平坦なところにつけられたが、急峻な山地では担夫にたよらざるを得なかった。担夫は「仲持ち」といわれ、男は「負子」で、女は「べ夕負い」で搬出するものが多かった。「仲持ち」のなかには、千足山村などでは、星森峠(標高八一〇m)を越えて、挽材や角材を小松まで搬出する者もあった。
 加茂川ぞいの大保木村に県道が開通しだのは大正初期であり、その奥地の千足山村に車道が開通しだのは大正一四年であった。また支流の谷川ぞいに森林軌道が敷設されたのは、昭和四年であった。これら車道や森林軌道が開設されると、木材の流送は次第に衰退し、第二次大戦後はほとんど見られなくなった。また「仲持ち」も、大正四年に加茂川の河ヶ平で索道が架設され、それが周囲の山村に普及していくにっれて、次第に消滅していく。山元から土場までの木材の搬出はもっぱら索道にたよるようになった。
 新居郡の明治三八年から四二年の年平均の用材生産量は、丸材及び角材五〇五万才(県の二八・一%)、挽材八・二万坪(県の一二・五%)である。前者は県下随一の生産量であり、後者は上浮穴郡に次ぐ生産量である。木材の集散地は、西条・氷見・小松であり、この地の製材工場で加工された製材は東予地帯一円の建築用材として利用されると共に、一部は大阪や高松などへも出荷された。
 加茂川流域の奥地には、国有林と住友林業の社有林が広大であり、これらの奥地林も早くから開発の対象となった。加茂川支流の谷川上流の国有林は、モミ・ツガなどは流送によって西条に搬出されたが、雑木は山中で木炭に生産されたり、薪材に加工されて、明治中期までは旧別子に搬出された。山中には別子山村の中七番に通ずる駄馬道も通じていた。加茂川奥地の住友林業の社有林も、また早くから開発の対象となった。大正年間には、山中に通ずる水平の軌道と索道によって用材の搬出が盛んに行なわれていた。

 肱川流域の用材生産の成立

 肱川流域もまた流送によって用材生産の盛んになってきた地域である。肱川は愛媛県では最も水量が豊かで、かつ河川勾配も緩やかなことから、川舟の運行や筏流しが盛んに行なわれた。筏流しと川舟の起点は野村町の坂石であり、ここには第二次世界大戦前に筏流しの集団が三つもあり、ここに管流しや馬車で集まった木材が筏に組まれて三日行程で河口の長浜へ流送された。川舟で下った代表的な林産物は薪と木炭であり、河口の長浜までは二日の行程であった。支流の小田川も筏流しが盛んに行なわれた。この川では、上流域の小田郷の小田深山国有林の木材が、くらがり峠を越えて蔵谷・宮原に搬出され、そこから管流しされたものが、田渡川との合流点の突合で筏に組まれ、河口の長浜まで下った。
 肱川林業はクヌギの切炭とスギの小丸太生産を特色とするといわれるが、明治年間にはニブキといわれたクヌギの薪材とマツの用材の生産に特色をもっていた。筏に組まれて河口に流送された用材で最も多かったのはマツ材であった。長浜に集散されたマツ材は、そこに立地する製材工場でセメント用の樽材などに加工され、阪神方面や対岸の広島・山口県などに出荷された。マツ材はまた北九州の炭田地帯に坑木として移出されたものも多かった。スギ・ヒノキも筏で長浜に集積されたが、これらは長浜の木材問屋の手をへて、機帆船にて香川・岡山・広島・山口の瀬戸内海沿岸の各県に建築用材として移出された。
 喜多郡の明治三八年から四二年の年平均用材生産量は、丸材及び角材二六八万才(県の一四・九%)、挽材二・四万坪(県の四・六%)、鉱山用坑木五四万才(県の一二・七%)であり、丸材と角材では新居郡・東宇和郡に次いで多く、坑木は東宇和郡・西宇和郡に次いで多い。明治年間、肱川流域は加茂川流域と並ぶ用材の生産地であったが、加茂川流域の用材生産の地位が大正年間以降次第に低下するのに対して、肱川流域は大正年間以降も愛媛県の重要な用材生産地域としての地位を保ってきた。昭和初期には長浜は県内随一の木材集散地となり、県内では唯一の貯木場があって、製材工業の最も盛んな地区であった。長浜が木材集散地としての地位を失うのは、第二次世界大戦後筏流しが衰退した以降である。肱川の筏流しが終焉したのは昭和二八年であった。

 鬼ケ城山系の用材生産の成立

 宇和島市の背後にそびえる鬼ヶ城山系は南予の用材生産の発祥地であった。そのなかでも特に用材生産の中心地は滑床国有林であった。この地に用材生産が盛んになったのは、山中にモミ・ツガ・ケヤキなどの天然林がうっそうと繁茂していたこと、宇和島藩か林野の保護育成に意を用いたことにもよるが、一方では、滑床国有林が木材の集散地であり、かつ大阪への木材の移出港である宇和島と至近距離にあったことも大きな要因であった。
 滑床からの用材の伐採・搬出は藩政時代からすでに行なわれていた。宇和島藩が天保一一年(一八四〇)、滑床と宇和島市を最短距離で結ぶ梅ケ成峠(標高九八〇m)経由の馬道を開いたのは、一つには木材の搬出を容易にする意図もあったと思われる。この峠道は明治二三年から二五年の間に営林署によって改修された。営林署が滑床国有林の開発を本格的に始めたのは、明治二九年官行せき伐事業を開始した以降である。これは四国の国有林の木材伐採事業の嚆矢をなすものであるといわれている。
 明治から大正年間にかけての滑床国有林は宇和島の四人の木材問屋に立木のまま払い下げられ、木材問屋の雇用した杣夫・運材夫・木挽などが、山中で木材を伐採し、杣角や板に加工した。これらの半製品はさらに駄賃持によって梅ケ成峠経由で宇和島に輸送され、その半ばは木材問屋の手によって海路大阪方面に出荷された。
 滑床国有林の開発で画期的なできごとは、大正一三年インクラインが開通し、トロッコで木材が宇和島の野川貯木場まで輸送されるようになったことである。インクラインと軌道・索道によって、木材が大量に輸送できるようにたったことは、従来行なっていた山中での杣角や板の加工を必要とせず、丸太のままで宇和島へ木材が輸送されるようになった。また大正一二年からは滑床国有林の木材の伐採搬出は営林署の直営事業となり、従来木材問屋の雇用していた杣夫や運材夫は営林署の雇用となった。滑床国有林の用材がインクラインを利用して梅ヶ成峠経由で宇和島市に搬出されたのは、昭和一二年ころまでであったという。
 滑床国有林を含む北宇和郡の明治三八年から四二年の年平均用材生産量は、丸材及び角材八〇万才(県の四・四%)、挽材七・〇万坪(県の一三・三%)、鉱山用坑木四三・五万才(県の一〇・三%)であり、挽材では県下随一の生産量を誇っていた。また北九州の炭田地帯に移出する坑木生産の多い地区でもあった。くだって大正五年から九年の年平均用材伐採量をみると、一三・五万尺メとなっており、これは県内の二六・四%にも相当し、二位の上浮穴郡の七・一万尺〆(県の一三・八%)を大きく引きはなし、当時県内随一の用材生産地であったことがわかる。用材伐採量に占める国有林の比率は四六・三%にもなり、当時県内では最も国有林での用材生産が盛んな地区であった。

 久万地方の用材生産の成立

 上浮穴郡の久万町を中心とした林業地帯は久万林業といわれ、現在愛媛県随一の用材生産地域となっている。海岸から遠く隔たり、木材の流送も不可能であった久万地方は、林業の成立条件には決して恵まれていなかった。久万地方に育林事業が開始されたのは、明治初年先覚者井部栄範の指導によってであった。彼は明治五年菅生村大宝寺の住職として紀州から来住したが、還俗後明治一二年菅生村戸長となり、村民に熱心に植林を奨励した。明治一二年の村会では、全戸が一か年に二〇〇本の植林をすることを決議し、苗木の無いものには苗木を無償貸与し、林野の無い者には村共有林を立木一代限りで貸与するなどして植林の普及につとめた。明治末年から昭和の戦前にかけては、彼に刺激された隣村の篤林家が植林を推進し、スギ小丸太生産を特色とする今日の久万林業の基礎が確立した。
 井部栄範が植林事業とともに力を注いだのは道路の建設工事であった。松山と高知を結ぶ四国新道の建設が着工されたのは明治一九年で、翌二〇年には三坂峠の坂道が開削され、同二七年には松山と高知間の道路が貫通した。この四国新道の地元側の推進の中心になったのが井部栄範であったが、彼が道路開通に力を注いだのは、木材の搬出路を開くことが大きな目的であった。
 道路開通後は馬車による木材の搬出が容易になり、久万地方の木材の伐採搬出も次第に盛んになった。明治年間以来昭和の戦前に至るまで久万地方の木材は郡中に出荷された。郡中には大阪の消費地問屋と結びついた木材問屋があり、彼等の支配する賃挽の製材工場があり、製材された木材は松山市で消費されると共に、海路で広島や大阪方面に盛んに出荷された。久万地方の木材が直接松山市に出荷されるようになったのは、昭和三一年に県森連松山原木市場が、同三四年に原木相互市場が、それぞれ松山市に開設された以降のことである。
 久万地方の用材は、四国新道の開通後瀬戸内海沿岸の消費市場に出荷されるようになったが、明治年間にはそれほど多くなかった。上浮穴郡の明治三八年から四二年の年平均用材生産量は、丸材及び角材一四六万才(県の八・一%)、挽材九・〇万坪(県の一七・一%)、鉱山用坑木六・五万才(県の一・六%)であった。挽材においては当時県一の生産地であったが、丸材及び角材では新居郡や喜多郡にはるかに及ばなかった。挽材の多いことは、木材を少しでも軽量にして出荷することを要した内陸地方の特性を反映するものである。くだって大正年間になると、山間盆地の道路の整備もすすむので、用材生産量は多くなる。大正五年から同九年にかけての年平均用材伐採量でみると、上浮穴郡は県下随一の量を誇っている。ただしこのうち半分は小田深山などの国有林材である。民有林のスギ小丸太の生産量が特に多くなるのは、第二次世界大戦後であり、久万林業が名実共に県下一の地歩を確立したのは第二次世界大戦であるといえる。

 銅山川流域の用材生産の成立

 銅山川流域は三波川系の結晶片岩の風化した沃土と一七〇〇㎜に達する年降水量に恵まれ、森林資源の豊庫であった。森林資源に富みながら林業の発達が遅れたのは、銅山川が阿波に流れ下り、木材の輸送路として利用できなかったことが最大の要因である。木材の消費地である瀬戸内海沿岸の諸都市には、水平距離にして五~一〇㎞にすぎないが、その間には急峻な法皇山脈がそびえ、重量の大きい木材の搬出を人力にたよることは困難であった。
 銅山川流域の用材生産に先駆的な役割を果たしたのは、地元住民ではなく、別子銅山を開発した住友家であった。別子銅山は元禄四年(一六九一)に開坑されるが、銅の製錬には焼鉱用の薪と熔鉱用の木炭を大量に必要としたので、薪と木炭を得るための銅山備林が設定された。住友林業が植林事業に力を注ぎだしたのは明治二三年の銅山川の大水害以降であるが、それは荒廃した林野の治山を目的としたものであった。銅山川源流地帯の住友林業の木材は、別子銅山の坑内電車と鉱石搬出索道を利用して新居浜に運ばれ、その製品は戦前は社内用のみに利用された。住友林業の木材輸送ルートは地元住民には利用されなかったので、住友林業の用材生産は直接的には地元住民の林業活動に刺激を与えるものではなかった。
 銅山川流域を主体とする宇摩郡の明治三八年から四二年の年平均用材生産量は、丸材及び角材三五万才(県の一・九%)、挽材二・一万坪(県の四・一%)、鉱山用坑木一・四万才(県の〇・三%)であり、隣接の新居郡などと比べて生産量がきわめて少ない。銅山川流域の用材生産が盛んになるのは大正中期以降であるが、その契機となったのは、大正八年高知県大川郡に白滝鉱山が開発され、同所より宇摩郡三島町に鉱石運搬用の索道が架設されたことである。この索道は銅山川流域の木材や木炭の三島町への搬出を可能にしたので、銅山川流域9用材生産がにわかに活発化した。しかし索道による搬出量には限度があったので、木材の多くは山元の移動製材で加工されたものが三島方面に出荷された。銅山川流域の用材が三島・川之江方面に本格的に出荷されだしたのは、昭和一一年に堀切峠に自動車道が通じ、さらに同三五年に法皇トンネルが開通して以降である。銅山川流域は現在東予随一の用材生産地域となっているが、その地位を確立したのは交通網の整備された第二次世界大戦であった。

 用材生産の現況

 昭和五五年の愛媛県の用材生産量は八〇・五万立法メートルであるが、その内訳は民有林材七二・八万立法メートル(九〇・四%)、国有林材七・七万立法メートル(九・六%)となっており、民有林材の生産比率が圧倒的に多い。明治・大正年間には用材生産で重要な地位を占めていた国有林材は、第二次世界大戦後はその地位を完全に民有林材にゆずっているといえる。国有林材の生産が停滞しているのは、国有林には伐採の制限を受ける保安林や自然公園の面積が広いことが一要因としてあげられる。愛媛県内の国有林は昭和五五年現在三万七、五七五haあるが、このうち保安林・自然公園・鳥獣保護区・レクリェーションの森などに指定され、施業が厳しく制限されている第一種林地は二万四、一五七ha(六四・三%)にも達する。国有林は今や用材生産のための林野というよりは、自然環境の保全や国民のレクリェーションの場所を提供するなど、公益的利用に重要な意義をもってきているといえる。
 昭和五五年の素材生産の樹種別構成をみると、マツ四三・七%、スギ二七・五%、ヒノキ一九・九%、モミ・ツガ〇・七%、広葉樹八・二%となり、マツの比率が圧倒的に高い。特にマツ材の生産が多い地区は、肱川流域や宇和海沿岸北部、それに松山市の周辺山村などであるが、これらはいずれもマツクイ虫の被害木の伐採を主体とするものであり、正規の用材生産の実態を示しているものではない。
 マツクイ虫の被害がまだ顕著でなかった昭和四九年について、民有林の素材生産の樹種別構成をみると、マツ一二・○%、スギ三九・八%、ヒノキ一八・〇%、広葉樹三〇・一%となり、スギ・ヒノキなどの用材生産の比率が高いことがわかる(表1―36)。
 マツクイ虫の被害があらわれていない昭和四八年の素材生産量の市町村別分布状況をみると、県下の素材生産地の現況がよくわかる(図1―13)。県下随一の素材生産地は上浮穴郡であり、そのなかでも久万町と小田町が双璧をなす。次いで生産量の多いのは銅山川流域と加茂川流域の東予の山間地である。共にスギ材の生産を主体とするところである。南予では宇和町の生産量が多いが、ここは宇和桧の生産地であり、ヒノキ材の生産量が過半を占める。ほか肱川流域や高縄山地、北宇和郡の山間地などが素材生産の多い地区であることがわかる。

表1-34 明治38~42年の用材の郡別生産量

表1-34 明治38~42年の用材の郡別生産量


表1-35 大正5~9年の用材の郡別伐採量

表1-35 大正5~9年の用材の郡別伐採量


図1-11 第2次世界大戦後の愛媛県の素材生産量の推移

図1-11 第2次世界大戦後の愛媛県の素材生産量の推移


図1-12 千足山村人力による坂道輸送の実況

図1-12 千足山村人力による坂道輸送の実況


表1-36 地区別の樹種別素材生産量(民有林、昭和49年)

表1-36 地区別の樹種別素材生産量(民有林、昭和49年)


図1-13 民有林における市町村別の素材生産量の分布

図1-13 民有林における市町村別の素材生産量の分布