データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

第一節 漁業法の制定と制度改革


 漁業のおこり
 
 人類が石器のほかに動物の骨や角などでつくった道具を使って、海岸近くの魚介類を採捕するようになったのは、石器時代の初めといわれているが、そのころは現在と違って魚介類を単に採取するだけであった。
 古い言葉に「すなどり」「いさり」「あさり」などがあるが、このうち、「すなどり」の「す」は渚であり、「な」は魚を意味している。つまり海辺で魚を取るということである。また「いさり」の「いさ」は磯のことで「り」は取るの意であるので、磯辺での漁労ということになる。さらに、「あさり」は「いさり」のなまったものと考えられ同意語である。
 このころ使われた漁具は自然の木や竹をそのまま槍に仕立てたきわめて簡単なものにすぎなかったが、その後これが木竹の先端に石や、動物の骨などをとりつけたものへと進歩した。しかし、これらはいずれも渚近くに生息しているものを、突いて取ることが多かった。しかし、一部では潮の干満を利用して潮溜りにとり残された魚を取る方法も、当時としてはかなり有効な漁法の一つとして行なわれていたようである。けれども、これらの魚は比較的大型のものに限られていたので、一方槍や銛などでは取りにくい小型の魚は、最初は木の刺で引っかけて取ることが行なわれたが、これが骨や角などを釣針にしたものに変わり、さらにこれに餌をつけて取るまでになった。そして舟を用いるようになったが、それも当初は単に筏を組んだものから丸木舟や大木をくりぬいた舟へと進化したので、漁場も従来の岸近くから沖の海面へと拡大された。そして漁具もこれに呼応するかのように発達し、「さで網」という抄い網の一種を使うようになり、さらに「ひき網」など一段と効率のよいものへと進化していったのである。したがって魚介藻類を人工的に養殖したり、つくり育てて取るというようなことは全くしなかったわけで、漁業というような大げさなものとは異なり、単に採捕していたといったほうが適切であろう。そして、往時は住民の数も少なかったので、魚を取るうえでの争いごともほとんどなく、自由にそれぞれが採捕していたものと思われる。しかしながら人口も次第に増えるにつれて、漁労をするうえでの紛争が各地でおこるようになり、そこで人びとの間に必然的に魚を取ることについてのとりきめが行なわれるようになった。そして一度きめられたこれらの約束は代々慣行としで存続することとなり、これが後に成文化され近世の漁業制度まで発展したのである。
 我が国における禁漁期の規定としては、天武天皇の四年(六七六)に四月一日から九月三〇日まで簗を使用して稚魚を取ることを禁じたことが最初であり、持統天皇の三年(六八九)には摂津国武庫(現兵庫県武庫郡)の海一千歩内の漁労を禁じたことがあるが、これが禁漁区のはじめである。
 本県における漁業制度はその沿革からみて、次の四期に大別できる。
 第一期は往昔より明治維新に至るまで、第二期は明治初年より明治三五年漁業法実施まで、第三期は明治の漁業法実施から昭和二五年の新漁業法施行まで、第四期は昭和の新漁業法施行から今日に至るまでである。
 以下それぞれの時代区分に従って概説することとするが、漁業制度が法規的に確立されたのは、江戸時代以降と考えられるので、この時代から後を中心に記述する。


図2-1 原始漁具

図2-1 原始漁具


図2-2 原始漁法

図2-2 原始漁法