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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

第二節 伊予灘海区


 米湊網代をめぐる紛争

 松山領浜村の漁民と大洲領米湊(小湊)村・尾崎村・本郡村・森村との網代紛争である。この五か村は共に松山領であったが、松山藩主松平氏の入部直前、大洲藩の希望で替地が実施された。この結果この地域が両藩に分割され、漁場紛争が発生することになった。このうちの主なものは、万治一年(一六五八)と享保九年(一七二四)の紛争である。
 浜村は松前城跡の西南に位置する網漁業を主体にした純漁村であった。寛文一一年(一六七一)松前村からの分村であるが、早くから一村として扱われ、正式には浜村、通称松前浜村と呼ばれた。寛文七年(一六六七)の漁船数五一隻で、これから推測して一七統前後の地びき網があったものと考えられる。この紛争の舞台となった海域はもちろん、温泉、和気、風早郡の地元一円に出漁していた。従って寛永一二年(一六三五)の替地は、浜村漁民に深刻な影響を与えることになった。一方大洲側でも松山領分への入漁はできなくなったが、下吾川村の海岸部に漁師町(小川町)を建設中で地先漁場を守るために、他領からの入漁は好ましくなかった。このように両者の利害が相反する中で、浜村漁民は大洲側からのたびたびの入漁停止の申し出にもかかわらず、出漁は依然として続けられた。たまりかねた大洲藩当局は、万治一年(一六五八)八月、浜村庄屋を大洲藩役所に呼出し、厳しく入漁差し止めを申し渡した。しかし渡世のためには飽くまでも入漁しようとする浜村側と、これを阻止しようとする大洲側との間に、この直後に米湊仲合で大乱闘事件が発生した。浜村漁民のあまりの人数と船数に驚いた替地(郡中)代官は、松山藩の軍船が加わっているものと速断し、直ちに大洲に注進し、援軍を求めた。この駆け付けた援軍が威嚇のため大砲を発射するなど、一時は騒然となったが、相手は漁民であることが判明して引き揚げた(松前浜村庄屋旧記)。この乱闘事件で大洲側に一人の死者を出したとされているが、大洲藩記録『北藤録』によると、

 「定行領分予州松前浜ノ者ト、泰興領内小湊村ノ者、網代ノ出入アリテ騒動二及ブ、ソノ故ハ大洲領ノ漁師松山領松前浜へ行き漁猟ヲシケルヲ、松前浜ノ漁師コレヲ見テ、他領ニテ断ナシニ漁猟スルコト不届ナリ、トテロ論二及ビ大洲領ノ者一人打殺シケル」

とあって、一人の死者はあったが、紛争の事実関係が大きく異なり、祥細については不明である。しかし、この網代紛争が両藩主の対立にまで発展したことは言うまでもない。松山藩主は「土地を替えたる事は入部以前の事なれば致し方もなし、わが領分の漁師を此方へ断なくして防き候儀奇怪なり」(松山叢談二下)また大洲藩主は「当領ノ者他領へ行キ漁猟スルハ誤ナリ、サレドモ此方へ断リナク打殺ス事理不尽ノ至リ、シカノミナラズ松山領ノ致シ方常々我儘ノ振舞奇怪ナリ……」(北藤録)
として、双方でなじり合っている。
 大洲藩は幕府に訴え裁判を求めたが、幕府は直接これにかかわるのを避け、土佐藩主松平忠義に調停を命じた。忠義は両藩主らに書簡を送って説得に努めると同時に、家臣山内下総らを大洲家老大橋作右衛門方へ派遣して調停案を作成させた。この調停の内容は、米湊(小湊)・尾崎・本郡・森の地先網代を大洲藩主から土佐藩主が申し請、これを浜村中に遣す、従って浜村漁民はこの大洲領分の漁場で安心して操業できる。また浜村側においても、大洲領四か村の入会を認める。なお大洲藩主が替地とう留中は、浜村からの入漁は差し控えるとした調停案で、同年一二月一三日松山・大洲両藩主は合意に達した。この合意書は、山内下総、片岡武右衛門の名で関係村々に通知され、この紛争は一応解決することになった。
 享保九年(一七二四)二月~三月の間、播磨国高砂浦の漁民が浜村を居浦(根拠地)に漁猟することを庄屋を通じて、伊予郡郡奉行近藤弥市左衛門らに申し出たが、これを湊町(小川町)年寄らが察知して、替地漁民らの障りになることを理由に差し止めを求めた。両者の間に論議が重ねられたが、替地側はついに承知せず「網代之儀ハ先格御極メ御座候、尚又以後出入無御座様二出合仕リ」として次に示す内容の証文を取り交わして落着した。

 一 網代入相ノ儀ハ松前・小湊・尾崎・本郡・森・右五ケ村先格御極メ御座候事
 二 他所網之儀ハ向後何網二寄ラス差置候儀ハ不申及寄合網、又ハ借用網ニテモ拾五ケ浦網代ニオイテ猟致ス間敷候事
 三 松前、小湊・尾崎・本郡・森・右五ケ村ノ儀ハ何網二寄ラズ入相網代二於テ猟仕候儀ハ勝手次第之事
   但し、フリ漕網ノ儀ハ大勢漁師共ノ障二相成候二付、用捨可仕候事、


 二神と新苅屋との紛争

 明治三三年一二月由利島地先、特に豊後崎に連なる「モウゼ」網代の専有権を主張する温泉郡神和村二神と、これを阻止しようとする新苅屋(新浜村)漁民の聞に発生した漁業紛争である。「二神本島ヲ距ル約二里ノ南二於ケル一孤島ニシテ森林アルニアラズ、水源アルニアラズ、又耕耘スベキ田畑ナク唯夕僅カ二苫ノ材料タル萱草ノアルノミナルニ、一般物価低廉ノ旧藩時二於テ斯ク八俵ノ重税ヲ課スルモノハ、其地先漁業ノ豊富タルヲ見込ミタルニ出タルコトハ推認スルニ難カラズ」(温泉郡新浜、二神間漁業紛議書類)とあるように、由利島は居住には不適当で永住はできなかった。しかし地先周辺はイワシ地曳網漁業、釣漁業共に極めて好漁場で、隣接している二神島からも、この網代でイワシ地曳網を操業し、夏季のイワシ漁期には、島民が出稼移動をした。また紀州・備中・備後、それに松前浜村方面からの入漁者も多く、二神漁民との間に紛争が絶えなかった。
 新苅屋漁民は釣漁民で、旧藩時代松山藩から緊急の場合の御用水主を命じられ、この代償として領内何れの漁場でも操業が認められ、これを背景にして戸数、人口が激増した。

 「時勢ノ変遷上新苅屋漁民ハ漸次出漁ノ区域ヲ減縮セラレ、(中略)最も利害ノ関係厚キ由利漁場テハ入漁料納付ノ請判ヲ受クルニ至リ、而シテ今此繋争漁場モ失権セントキハ忽チ部落一般ノ活路ヲ失フニ至ルヲ以テ、遂二旧藩以来ノ特権ヲ主張シ、此慣行判定ノ申請ヲ提出シタルモノニシテ、(中略)二神漁場二於ケル漁業慣行ハ旧記ト事実ノ証明セル所二止マラズ、由利島西部二於ケル「モフゼ」又ハ一名「沖ノ石」ト称スル鳥付網代ノ漁撈方法二至ツテハ二神漁民ヨリ却テ新苅屋漁民ノ方熟練シテ、此網代ノ発見八二神漁民ニアラズシテ新苅屋漁民ナリトノ主張ハ或ハ事実ナラン」(温泉郡新浜・二神間漁業紛議書類)

と、この粉争を調停した県内務部の報告にあるように、新苅屋漁民は早くから二神周辺の釣漁場に進出していた。特に由利島西端の豊後崎に連なるモウゼ網代は、春季にイカナゴが群がり、これを餌とするアビ鳥、そしてタイ・スズキの群集するいわゆる鳥付網代で、新苅屋漁民は早くからこの海域に出漁していたものであろう。しかし藩政時代から受け継がれた地先八丁(約九〇〇m)は特別な事情のない限り、専用漁業権として地元に所属させる方針を採った。したがって新苅屋側には不利で、「二神へ対シテハ其地先八丁以内ハ暗二其漁場主権ヲ認ムルヲ適当トシ、又新苅屋へ対シテハ紛擾以前、即チ明治三十二年九月迄平穏二行ハレタハ漁獲物ヲ二神商主出張セルトキハ、之へ売渡スベシトノ条件ヲ以テ、入会漁業シ得ルトノ裁定ヲ与フルヲ適当トス」(前記漁業紛議書類)として、翌年の一二月には県内務部も二神側有利の裁定を下し、明治四〇年には紛争の焦点「モウゼ」網代は、由利島を囲む専用漁業権として二神の単独所有に決定した。


表6-1 漁業状況

表6-1 漁業状況