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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

第五節 珍味の歴史と生産過程


 珍味の生産

 珍味は「珍重な味」を意味する言葉で、主として水産物を原料として、特殊加工と味付けによって、独特な風味が生かされた水産加工品である。この珍味の中には、古くから酒のさかなになった塩辛類のウニ・コノワタ(ナマコ)・カラスミ(ボラ)・ウルカ(アユ)のような伝統珍味と、昭和四〇年前後から急成長したイカ・タコ・フグ・タラ・ハギ・貝類などを原料にした大衆珍味がある。水産統計上では、初め「雑類」後には「その他の水産加工品」に含まれるようになった。そしてこの生産量は、伊予灘海区が圧倒的に多く、昭和五六年は九三%に達している。しかもこのうちの大部分は、水産物流通統計年報の「その他の水産加工品」の中に含まれる「調理加工品」で占められている。従って、伊予灘海区の「その他の水産加工品」は、伊予郡松前町・松山市三津・伊予市・双海町(上灘)の珍味生産が主体である。
 戦前の珍味はほとんど小魚煮で、一般に「儀助煮」と呼ばれていた。小ダイ・エビ・マアジ・ハゼ・デビラなどの小魚に糸ノリ(スジアオノリ)を加え、味付けされたもので、明治二二年近藤商店で製造した小魚煮に富岡鉄斉が「二名煮」と命名したのに始まったとされている。松前でもこれと前後して古い。当時の網元が、煮干しイワシの変色と風味抜けを防止するため、味付けをして広島方面に販売したのが最初と伝えられている。三津の小魚煮は大正に入って、松前のかんづめ行商(小魚煮を一斗缶に詰める)と結合して発展し、行商の衰退する昭和一三年ころまで全盛期が続いた。松前は行商に主力が置かれ、珍味加工の発展は戦後に持ち越された。
 昭和四〇年三月に松前町珍味加工業者の呼び掛けで四国珍味商工協同組合が結成され事務所が松前町に置かれ、この四〇年代に松前町の珍味加工業者は倍増した。五七年の漁業地区別統計によると「その他の水産加工品」(伊予市の約八〇〇tの食用魚粉以外はすべて調味加工品である)の四市町村の生産比率は松前五八%、松山二〇%、伊予市一六%、双海(上灘)六%である。珍味加工が戦前の三津中心から戦後松前中心に移ったことがわかる。
 珍味加工は零細経営が多く、松前の場合、扇屋食品のように一七〇人を越える大規模経営体もあるが、総数の七〇%は二〇人未満の小規模経営体である。頭・内臓・小骨の処理・串ざし袋詰めなど、家庭内職に回されるものも多く、背後の農村には老年女子を中心とする多くの内職者が分布し、その範囲は温泉郡川内町付近にまで達している。
 松前町の珍味加工の二五%はイカ製品である。この原料のするめは、函館・八戸からが多く、最近は第一次調味まで完了したものが仕入れられている。従って「焙焼」以後が生産工程に組み入れられることになる。この工程の中で第二次調味、すなわち「ふりかけ調味」が各メーカーの特色のポイントになっている。原料のうち町内で自給できるものはエビだけで、それ以外はすべて外部から仕入れている。カレイ―瀬戸内・山陰、ヒラゴ―宇和島・長崎・大分、キビナゴ―宇和島・長崎、イカ―北海道・東北、バカ貝―千葉・韓国・中国、タラ―北海道、カワハギ―韓国などである。
 流通の経路は図示のように、製品の九〇%が卸問屋を経由している。しかも缶単位で送られ、最終消費者が手にするような袋詰めは問屋側で行なわれ、送付先各地の特産品・土産品として販売されることが多い。従って製造業者のブランド(商標)商品として販売されるものは、僅かに一〇%で、このため珍味生産に占める松前の知名度は低い。しかしこれが同時に松前町の珍味生産を発展させた理由の一つとなっている。また行商時代の「かんづめ」が珍味商品サンプルに替えられただけで、徹底した販路開拓が実施されていることも、珍味生産の発展した理由として挙げなければならない。


表9-13 珍味の種類

表9-13 珍味の種類


図9-10 その他の水産加工品

図9-10 その他の水産加工品


表9-14 調味加工品の生産

表9-14 調味加工品の生産


表9-15 初期の珍味加工

表9-15 初期の珍味加工


表9-16 地域別組合加盟業者数

表9-16 地域別組合加盟業者数


表9-17 創業年代別企業構成(松前町)

表9-17 創業年代別企業構成(松前町)


表9-18 松前町珍味関係従事者数

表9-18 松前町珍味関係従事者数


図9-11 その他の水産加工品の分布(昭和57年)

図9-11 その他の水産加工品の分布(昭和57年)


表9-19 さきイカの製造工程

表9-19 さきイカの製造工程


表9-20 珍味の流通経路

表9-20 珍味の流通経路