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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

第三節 行商

      
 魚の行商

 現在は農山村でも中心的な集落には、スーパーマーケットはもちろん、鮮魚店まで設けられている。しかし、これも利用できる範囲は限られており、背後の広範な山間部は行商に頼ることになる。例えば、上浮穴郡面河村は久万と三津から、周桑郡丹原町桜樹は丹原、それに東予市河原津、松山市三津から、また宇摩郡の嶺南にある新宮村は、隣接している徳島県三好郡山城町と川之江市から、それぞれ魚行商人が車で入り込んでいる。人口の少ない消費のきわめて限られている別子山村では、鮮魚は地元商店が注文を受け川之江・三島から取り寄せ、平素は塩蔵品・素干品に主として依存している。宇和(卯之町)・大洲・内子・五十崎は広い農山村をひかえ、古くから魚市場が設けられ、鮮魚供給の中継地点となっていた。大洲・内子・五十崎は戦前で消滅したが、宇和町では現在も続いている。鮮魚は一搬商品とは異なって大量の買い置きもできず、現在でもなお行商に頼る度合が強い。松山市中央卸売市場水産市場の売買参加者及び買出人は、東は西条市から、南は東宇和郡明浜町まで分布している。もちろん松山市に多いのは当然のことで、鮮魚店・飲食店・料理店・スーパーマーケット、ねり製品業者などが含まれている。松山市の周辺部に分布するものは主として鮮魚店を経営し、さらにその地点を起点として中継的行商を行なう鮮魚商が多い。
 交通不便な時代においては、なおさら行商に依存する度合が強かったことは言うまでもない。しかし、鮮魚の行商範囲は、きわめて限られていた。したがって、この行商圏外では鮮魚(無塩)は求めることができず、専ら川魚(水田に石灰を投入する幕末期以前は川魚が多かった)によるか、時たま訪れる行商人から塩蔵品を求める程度であった。
 行商でよく知られているのは、松前浜の「オタタ」、西条漁師町(喜多浜)の「カべリ」と呼ぶ漁村婦人の魚行商であるが、現在は消滅をしている。頭上で運ぶおけ(ハンボ)は、松前では「ゴロビツ」、西条は「イバチ」と呼んでいる。松前の漁師町の成立は中世末にさかのぼるもので、行商の歴史はきわめて古い。しかし幕末席での農村は、特別な行事以外は鮮魚はほとんど用いなかった。したがって、行商の対象は城下町松山の武士及び町人衆であった。それが明治に入って、近隣の農村地域に徐々に拡大したが、それでも初めは塩蔵品、煮干し類が多かった。代金は出来秋に米で勘定するのが一般的で、「オタタに戴かれてしまう」とぐちをこぼす農家も多かった。「オタタ」の近郷行商に対し、遠隔地行商に「からつ船」による砥部焼などの陶磁器の行商と「かんづめ」行商とがあった。からつ船の行商は幕末に始まり全盛期は明治末期で、大正から昭和にかけて衰退するが、これと逆のコースをたどったのが「かんづめ」行商と呼ぶ小魚煮の行商であった。この数は大正末~昭和初期に急増し、昭和五年には一、五〇〇人を越えることになった。同年松前町の人口六、一六九人であるから総人口の二四%が「かんづめ」行商人で占められていたことになる。このように出稼者の増加は、当然漁業人口の減少となり、それまでの漁業盛大地域(地びき網)は次第に下降線をたどることになった。昭和一三年には「東レ株式会社愛媛工場」が松前町に誘致された。このため出稼者も激減し漁場も縮小され、漁業はさらに衰退することになった。現在松前町の漁獲物は、イワシ船びき網の漁獲約一八〇tは煮干しイワシに加工し、エビこぎ網の漁獲がこれまた約一八〇tで、これが珍味加工の原料になる一方、行商の女子二〇人、男子一〇人によって近郷に売りさばかれている。

図12-34 松山中央卸売市場水産市場売買参加者及び買出人分布

図12-34 松山中央卸売市場水産市場売買参加者及び買出人分布


図12-35 漁面漁業税負担額(大正3年~大正14年)

図12-35 漁面漁業税負担額(大正3年~大正14年)


表12-20 魚行商とかんづめ行商出稼人数

表12-20 魚行商とかんづめ行商出稼人数