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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

五 在満報国農場と花嫁訓練


 報国農場と女子拓殖訓練所

 満州の移住開拓者を激励慰問し、県民に満州事情を認識さすと共に、北満地域防衛体制の確立と食糧の自給力向上をめざし、北安省綏稜県諾敏河に愛媛在満報国農場を昭和一九年三月設置し、三〇〇町歩の開拓農場に七〇人の青年男女を愛媛県下各地より派遣し、穀類四〇トン余の割当生産を完遂、翌年の隊員を迎えても、差し当たり困らぬまでの収量を挙げた。翌二〇年三月、四月にかけて再び奉仕隊員を送り出した。その中には、松山農業学校八人をはじめ、西条・宇摩・伊予・大洲・宇和の六農業学校からそれぞれ七人計四三人の生徒(当時、一六、七歳)も参加し、男女青年団員、農兵隊員合計一一三人に達した。
 これら奉仕隊員は、満州における愛媛村建設に相当の成績を挙げていたが、遂に敗戦となり、一切を放棄する運命となった。また、敗戦時の受難で生死不明者もおり、わが民族史上拭い切れない悲史として、かつ開拓政策の一大痛恨事となった。
 当時、松農三年生として勇躍満州の荒野で鍬を振るい、松農魂を発揮したと自負する二宮文男氏(松山市土居町在住)は、次のように語っている。「私たちは、敗戦と共に満鉄線路沿いに南下した。食糧は全くなく、ソ連兵が車窓から捨てたパンを食って生命を継いだ。途中、現地人に雇われ、農作業に従事した。私たちの勤勉さが高く評価され、食べ物だけは腹一杯食べさせてくれた。六月の田植え前に帰国したが、すぐ田植えができた程、元気であった。」
 一方、満州開拓花嫁養成所として、五城村(現内子町)に愛媛県立女子拓殖訓練所が昭和一七年九月設置され、満蒙開拓の定着推進に力を入れていた。そして、一部の女性は開拓花嫁として渡満した。
 なお、訓練所への入所資格は、国民学校修了以上の学力を有し、身体強健、志操堅実な満一六歳以上の女子で
 ア 満州開拓民並びに青少年義勇軍の配偶者になろうとする者
 イ 海外に雄飛しようとする者
 ウ 大東亜建設の推進力になろうとする者
の三条件のうち一条件に該当する者であった。(資料編p683)