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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

一 開墾建設事業


 事業の概要

 昭和二〇年の「緊急開拓事業実施要領」に基づいて開墾建設事業が実施されることとなり、本県では、耕地課が主管することとなった。
 その内容は、一地区五〇ha以上の開拓地は、地区内外の一切の工事を全額国費負担で実施され、五〇ha未満の地区は「緊急開拓事業補助要項」により、地区外道路及び開墾工事は、いずれも補助率五〇%で、地方公共団体、農業会などが事業主体となって実施された。
 昭和二二年一〇月には「緊急開拓農地開発事業委託要項」により、国の委託主体であった農地開発営団が閉鎖され、それとともに、緊急開拓計画にも無理があったことなどから、農林省は、これを再検討した結果、「開拓事業実施要領」を定め、更に、翌二三年には、既着工中の委託事業で三〇〇ha以上の地区は、国直轄とし、その他の地区は、県の代行事業で行なわれることとなった。なお、開墾作業については、入植者、又は帰農組合などに対し、補助金を交付して行なわれた。

  芒原開拓記念碑文(表面)
 昭和十二年七月七日日支事変に端を発した大東亜戦争は仝二十年八月十五日無条件降伏で終止符をうち、戦后の食糧事情は極度に悪化し国は緊急食糧増産対策事業として開拓行政を強く打出した 県内では百十八地区が認定され当地区は昭和二十八年当時の野村町長池田政太郎氏が地元有志と相諮り食糧増産及び農家二三男対策事業として申請翌廿九年一月同志廿三名により木落開拓農業協同組合を結成し一戸当り二町歩の配分面積で鍬入れを行なった爾来自作農を目標に自らの手で打ち拓き新しい村造りを胸に一致団結総て人力による開墾建設事業の推進につとめた
 昭和卅四年芒原部落として町行政の一画を形成するまでとなった 営農促進事業としては 昭和卅三年度一次振興計面を続いて 同卅八年度二次振興計画を樹立酪農養蚕を基幹とした営農の確立に邁進してきたが其后社会情勢の進展に伴い現在では栗を主体の営農態形に移った 一方開拓事業もその域を脱しつつある実情に鑑み国は昭和四十七年度をもって開拓行政を打切り 当組合は同四十八年一月解散し一般農政へ移行した その間当組合が行なった主たる建設事業は 開拓農道事業自昭和廿九年至卅六年延長三、二六〇米、事業費三三二三千円灌漑用水路事業自昭和三十年至卅四年延長一、七二六米、事業費三八七四千円、開拓事業田八町七反、畑七町三反、桑園六町四反、樹園地一五町五反、草地外七町一反、宅地造成二、九二〇坪である。
   昭和四十八年七月建之   建設委員 兵頭藤太郎  窪前功  山口衛  佐藤元春  宇都宮英世

 昭和二四年から、一〇ha以上の地区は「地区開拓計画」を樹立したものから、順次、工事が実施された。これは、従来、地区毎のしっかりした開拓計画が樹立されないうちに入植が行われたことを是正するための措置でもあった。
 昭和二七年一〇月、農地法の施行に伴い、未墾地の買収売り渡しは、同法により行なわれることとなり、地区開拓計画も法的根拠が与えられた。また、昭和二五年度から建設工事の末端三〇ha以下の支線工事は、開墾作業の付帯工事として取り扱われていたが、昭和二七年度に改正され、開墾建設付帯工事として補助率二分の一で、県又は団体で実施されることとなった。
 補助対象は、末端一〇ha以上の道水路、集水面積一〇ha以上の排水施設、受益戸数一〇戸以上の飲料水施設などであった。
 昭和二八年以降、開拓者のうち、営農不振に陥るものも、若干でて来た。そこで、この振興を図るため、昭和三二年「開拓営農振興臨時措置法」が制定され、他の振興対策とともに、不振開拓地の建設工事が推進された。
 具体的には、建設工事完了地区で、入植五年以上のものは、開拓地改良事業(補助率、三分の二)で、入植五年未満のもの及び建設工事実施途中のものは、新たに追加工事が行なわれた。(資料編p699)


  1 補助制度の変遷

 緊急開拓事業の実施に伴う開墾作業

 地区面積五〇ha以上の集団地に対しては、「緊急開拓農地開発事業委託要領」に基づき、建設工事とともに、開田、開畑事業を農地開発営団、県、市町村、農業会などに委託し、全額国費で施工した。
 小団地に対しては、「緊急開拓事業補助要綱」に基づき、基本施設事業とともに、開田・開畑事業を入植、増反、またはその組織する団体などに六〇%の補助金を交付して実施した。即ち、委託開墾と補助開拓は分離していた。開墾の対象面積は、開墾計画の全部を対象とし、入植・増反の区別はなかった。

 昭和二三年「農地開発代行要綱」が施行され、開墾作業はすべて補助制度による自力開墾に変わり、集団地については、既入植者八〇%、新規入植八五%、小団地については、五〇%の補助率であった。

 昭和二四年には、補助制度が整理され、開墾作業も次のように改正された。
 ア 補助対象面積を開墾計画面積の八〇%とした。
 イ 補助率を補助対象面積の二分の一は六〇%、残り二分の一は
  三〇%とした。
 ウ 開墾補助対象は、入植者のみとし、増反者は無補助とした。

 昭和二七年度より二九年度の間にも、制度変更が次のとおりあった。
 ア 補助率を四五%とする。
 イ 従来、開墾作業費に含まれていた建設工事の付帯工事が分離
  され、純粋な開墾作業の工事費となった。
 ウ 歩掛りを地区の実情に応じて定めるようになった。
 エ 生活費的な補助の考え方を払拭した。

 昭和三一年度に機械開墾地区の開墾が開始された。

 昭和三三年度「開拓事業実施要綱」の制定に伴い、基本営農類型適用地区が設定され、この地区の開墾作業は全面積を単年度で機械開墾することになった。

 昭和三六年度に「開拓営農振興臨時措置法」に基づく営農改善農家が、営農振興を図るために行なう開墾作業などに対し、次のとおり措置された。
 ア 一般の入植者と振興農家とに区分し、振興
  農家に対しては、「畑より田」「階段工」「残抜
  根除去」などの手直し開墾、また自家飯米確
  保のための開田の工事を新たに補助対象とし
  て認められた。
 イ 開拓地改良事業の範囲は表3-9のとおり
  である。

 昭和三九年度に開墾残面積の実態調査が行なわれ、調査結果と、従来の補助制度の両方に基づき補助制度の整理改訂が次のとおり行なわれた。
 ア 振興農家のみを補助対象とした。
 イ 補助年限を整理し、入植後速やかに開墾を
  完了させる。
 ウ 追加配分地を補助対象とされた振興農家に
  ついては、振興目標を達成するのに必要な面
  積の範囲内で、付帯地及び離農対策により取
  得した土地の開墾にも補助金を交付する。
 エ 人夫賃の単価を毎年度の労務単価とする。
 オ 振興農家の補助対象面積を、昭和四〇年より開墾計画面積
  の全面積に改める。


  2 開墾施行面積

 開墾作業の施行済み面積と要施行面積の把握は、作業種類が新規着工、再開墾、山成畑から開田などと複雑で多いことから、極めて困難で、面積確定をめぐり常に問題となり、「掘って掘ってまた掘って」との批判が高まった。
 しかし、昭和三九年度の調査で、開墾作業が正当に実施され、かつ開拓農家の営農振興に必要な土地のうち、未利用地が相当に残っていることが確認され、各方面の理解と協力により、実質的開墾に対する助成がなされ、所要の開墾実績を収めることが出来た。


  3 国の助成制度による開墾建設事業実績

 国補事業と自己開拓

 開墾建設事業関係については、自己資金による者もみかんブーム・開田ブームに乗って相当に上ったと思われる。その正確な把握は困難であったが、国補による主要地区は、資料編(p737)のとおり二〇地区である。


  4 新制度の開墾建設工事
          
 新制度の開拓実績

 昭和三六年農業基本法の制定を契機に、開拓パイロット事業及び農用地開発事業として、開墾建設工事は純然たる土地改良法により実施されることになり、現在まで表3-10のとおりの実績をあげている。
(注) 開墾建設工事関係については、昭和六一年発行予定の「愛媛県
    土地改良史」(仮称)に詳述されるので参考にされたい。)

表3-9 開拓地改良事業の範囲

表3-9 開拓地改良事業の範囲


表3-10 農用地開発事業実施状況一覧表(開拓パイロット事業を含む)

表3-10 農用地開発事業実施状況一覧表(開拓パイロット事業を含む)