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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

四 営農実績


 二種類の営農実績

 開拓地の営農実績は、県単独の、市町村別入植地増反地総合属地主義調査と農林省指定様式による開拓組合ごとの入植者属人主義調査の二種類が行なわれていた。しかしながら前者は、増反地が分散多岐にわたり、例えば温泉郡の拝志・荏原地区の水害跡地約一三〇町歩や松山市の吉田浜地区約二〇〇町歩のような既墾地と未墾地の区別の困難な地区もあった。後者は、属人主義のため、全開拓組合の耕地面積などが必ずしも、開拓政策として取得したものではない等々明確に実績把握ができないこともあった。また、実績といっても、入植施設や開墾建設事業のように形が一定期間残るものとは違い、開墾した土地も一年放置すれば荒廃し、面積増減が頻繁なうえ、入植者数も流動的であり、正確を期するのに苦労した。(資料編p734)

 大野ケ原の例

 有名な大野ケ原開拓地の黒川高茂氏は、酪農で県内トップクラスと言われるまでに成長している。あの厳しい原始林を開拓し、立派な飼料畑二・〇ha、牧野五・七haを造成し、搾乳牛四〇頭、育成牛二〇頭を飼養し、一頭当たり乳量は年間六、五〇〇㎏を収めている。勿論八ケタ所得農家である。
 また、大野ケ原開拓農業協同組合は、昭和五一年三月一八日、中国四国地区代表として、全国六開拓農協の中に選ばれ、晴れの農林大臣賞を安倍晋太郎農相から受けた。同時に黒河高茂氏は、優秀農家として、農林省構造改善局長賞の栄誉を受けられた。関係者一同、あらゆる困苦欠乏に堪え、人力の限りを尽くして想像を絶する悪条件と闘い、開拓営農の確立に邁進して、今日の輝かしい成果を得るに至ったことを想い起こし、落涙を禁じ得なかった。

 御開山の例

 広見町の御開山開拓地では、昭和二二年から二六年頃までは、陸稲の生産成績がよかったが、その後台風や地力減退で減収を続けていたが、昭和三二年から食糧確保を目途に災害回避と一年三毛作のため水稲早期栽培を始めた。


 現地指導事項(御開山開拓地水稲早期栽培)
  月 日      指 導 事 項           適 用
  一中       資金調達指導           開拓者は殆んどその日暮
                                しで資金皆無
  三下       種子消毒・芽出し・施肥・     開拓者は新技術の知識乏
            灌水・保温紙被覆指導       しい     
  四中       保温紙除去             経験なきため不安な開拓
                                者多し                      
  五上       田植(本田移植)指導       積算温度で登熱するので
                                早期田植督励
  六上~七上  本田管理指導           農試 松本益美
                                技術特別指導
  八下       収穫指導              胴割米防止指導
  一下       早期栽培反省会 


まず、谷間に石垣を積み開田し、次に農業改良資金と開拓者資金(営農振興資金)で資材を調達した。技術的には、全く素人であったが特別指導班を次のとおり編成し万全を期した。


特別指導班長   多 田 義 満  (県農地拓植課)
班      員   今 井   勝   (    〃    )
    〃      土 居 清 志  (    〃    )
高度技術指導員 小野山 一 雄   (県農業試験場)
            菊 池 貞一郎   (県農業改良課)
            赤 松 三喜雄   (地区担当普及員)


 初年度は、成績の良い者で一〇アール当たり兵田栄氏四二二㎏、池田保氏三八一㎏であったが、翌三三年度には、一段と技術も進歩し、兵田栄氏は米作日本一表彰全国競作会に出品し、五四三・七五㎏の成績で、遂に、早期栽培の部で愛媛県一の成果を挙げ、県知事は勿論、農林大臣表彰も受け宮中で両陛下に拝閲した。

 大洲市徳森の例

 また元県開連会長清水市太郎氏は桃園経営一・二haが主体であるが、良質桃の生産が有名で市場でも特別価格である。その開拓所感を記しておく。
 『昭和二二年の夏であった。毎日の雑炊生活に当時六歳になる長女が、「かたいご飯を食べさせて」と欲しがるのを、妻が「もうすぐお盆が来るから、お盆が来れば、かたいご飯を炊いてあげます」と言い聞かせていた。かたいご飯といっても、配給の丸麦を炊いたものであったが、妻は死ぬまで繰り返し繰り返し、涙ながらにこのときのかわいそうな話をしていた。米の余剰に明け暮れる今日とは、隔世の感を覚ゆる。
 今日の農業が、他産業に比して如何に見劣りがしようとも、敗戦時、一億人の最低生活に、先ず腹ごしらえを与えた、この開拓営農につきぬ愛情を感じるのである。
 過ぎ去った苦難の連続も、現在、何一つとして苦しい想い出として残っているものはない。すべてが楽しく、そして後味のよいものに感じられてならない。人間生命がけの仕事を成せば、その成否を超えて、なんらの悔いを残すものではないということであろう。「臨終を学んでしかる後、世事を学ぶ」の心境で、一瞬一時に最善を尽くし、何時死を迎えようと悔いを残さぬ覚悟ができた。今、私は県下一の果報者である。』

  (注) 清水市太郎氏は、自ら一鍬一鍬開墾した大洲市徳森地区約二haの開拓地の上部に「慈源山妙法塚」を生涯の想い出にと建設している。氏の説によると、この地区は、大洲方面から鹿之川行きの本街道筋であり、古文書によれば、約七〇〇年前慈源寺という寺院があった地らしい。この意義深い所に、この供養塔を建て、一千年間、清水市太郎及びその子孫が墓守りをすると石碑に刻んでいる。戦後開拓の記念碑としては、逸品であり、個人としてかくも立派な碑は、異例と思われる。

 楠河の例

 東予市楠河地区では、西川源一郎組合長を先頭に苦労の末、温州みかんの先駆的集団産地を造成し、既存農家に刺激を与え、みかんブームを東予に巻き起こした。

 開拓地区別概況

 しかしながら当時を振り返ってみると、食糧事情の好転や日本経済の高度成長により、現在の「開拓地区別概況」は、表3-17のとおり、三三年当時一、六九六戸の入植者も、六五組合七七四戸に減少し、営農面積も一、九六〇・一haが七四一・二haになり、苦難の割には、開拓事業そのものの成果は残っていない。
 結果のみをとらえて批評するのは、余りにも酷と言わざるを得ないが、国も県も事業の推進のため時宜にかなった最善の指導援助を実施し、開拓者自らも、殺気立った努力を適期有効に行なったのである。
 営農を各期別に分け、その概要を述べると次のとおりである。


     ① 難民入植(農業復帰)の時代(昭二〇~二二年)
 昭和二〇年二月九日「緊急開拓事業実施要領」が閣議決定されてから、二二年一〇月二四日「開拓事業実施要領」の省議決定がなされるまでの苦難の時代である。
 基本方針は「終戦後の食糧事情及び復員に伴う新農村建設の要請に即応し、大規模なる開墾、土地改良を実施しもって食糧の自給化を図ると共に離職せる工員・軍人・その他の者の帰農を促進せんとする」であった。焦眉の急務といわれた食糧・就労の対策として打ち出された所に無理があったし、準備不足のままでスタートしたことは、帰農者を大いに苦しめる結果になったのである。


     ② 営農の基礎的・環境の整備時代(昭和二三~二五年)
 この時代には入植者自身とその営農、開拓行政ならびに指導体制について、基礎的な整備が進められた。入植者は定着の決意を固め、道路・開墾・住宅の建設にはげみ、先ず第一の目標を食糧の自給において努力を続けた。 しかしながら開拓の基礎整備は、昭和二四年にいたり、戦後の悪性インフレ防止のためのドッジ顧問による強力な経済政策により、圧縮を被り、食糧増産の主体も開拓より次第に土地改良に転移し、土地改良法の制定、農地局の設置などが行なわれた。しかしながら開拓者は半ば、営農以前の状態にありながら、用地の確保・道路・用水・住宅などの生活・経営の基盤を整備しつつ、ひたむきに開墾への精進によって一握りでも多く食糧を確保し自らの生活を固め、再生産の糸口を掴もうと苦闘した時代である。


     ③ 営農伸び悩みの時代(昭和二六~二八年)
 この時代は、戦後入植者が開拓の意欲を燃やして一気に営農の充実・拡大に前進すべき時代であった。しかしドッジ政策の影響による建設工事の遅延、営農資金の不足による経営の伸び悩み、一部開拓者の開拓意欲の減退も手伝って、全面的な営農不振の傾向が強まった時代である。


     ④ 営農転換・負債累積・あと向き対策の開始の時代(昭和二九~三一年)
 開墾へのひたむきな努力によって漸く収穫の喜びを得たのもつかのま、昭和二八年に続いて昭和二九年も冷害を被り、その救済のための災害経営資金は従来の開拓農家の負債の上に累積した。
 一方連年の被害を契機にして、これまでに穀菽に偏った作付方式を転換し適地適作が叫ばれるにいたった。


     ⑤ 第一次営農振興対策の時代(昭和三二~三六年)
 この時代は、特に立法措置によって開拓農家の営農振興を図ろうとした画期的な期間である。開拓者の団体は金融機関や政府と一体になって営農の不振から立ちあがり、抜け出そうとして努力したのである。
 昭和三二年四月営農振興臨時措置法の制定、三三年五月の開拓事業実施要領の制定、開拓地基本営農類型の設定、昭和三五年過剰入植等対策要綱の制定、開拓者資金融通法による政府の貸付金の償還条件緩和等に関する特別措置法の公布などいわゆる開拓の後向き、前向き双方に向かっての施策が数多く打ち出されたのである。
 この時期における開拓営農は、物の生産面では着実に伸びながら、金の循環面では益々苦しくなるという傾向を強めた。
 開拓営農振興臨時措置法の制定にともなう振興対策は昭和三二年度は実施の諸準備や計画に費やされ、対策は実質的には三三年から始められた。
 立法の中心となる内容は災害資金の借り替え措置であった。その後開墾建設工事の促進・追加融資・土壌改良など一連の施策が行なわれた。もし、この対策がなかったならば、おそらく開拓者は雪崩をうって都市に流出し土地は荒廃し戦後開拓は破局に当面したであろう。


     ⑥ 第二次営農振興対策の時代(昭和三七~四三年)
 昭和三六年一一月の開拓営農振興審議会の答申に基づいて、開拓者を三種に類別し営農振興の対策が進められた。すなわち、営農が既存農家の水準に達し、開拓の卒業生とも称すべき農家を一類とし、一般の農政の対象に円滑に移行を図った。
 営農の確立の見込みのない農家を三類農家とし、離農を希望するものは「開拓者離農助成対策」、負債の償還の困難な者に対しては債務の履行延期や償還条件の緩和減免の措置を講ずることとした。営農が未確立であるが営農意欲のある農家はこれを二類農家として、四三八戸を認定し各種の営農振興対策をすすめた。


     ⑦ 開拓行政の一般農政移行措置開始(昭和四四年)
 開拓地は、その特異性を生かしつつ、適地に適産地を作った地区と、一方、競争力に乏しく見込みのない所は離農対策などを推進する地区とに大別された。そこで前者については、四八年度までに一般農政に移行することとなりその措置が開始された。


     ⑧ 開拓営農総合調整事業の開始と完了(昭和四七年)
 戦後の開拓行政が開拓者及び開拓地区を対象とした特別の施策として、展開されてきたことから、地区によっては、一般農政との乖離ないし、これに対する不信の問題などが存在している実情に鑑み、これからの諸問題を解消して開拓者の営農の一層の発展を図るための諸事業を円滑に実施できるよう、県において指導協力体制の確立その他これに必要な諸措置を講ずる事業を「開拓営農総合調整事業」と称し、昭和四四年、都道府県開拓審議会令の改正により、同会に営農総合調整部会が設置され、本県でも、同部会による「愛媛県開拓営農総合調整事業の実施に関する基本方針について」答申がなされ、次のことが示され、実施について努力が重ねられた。

      ア 開拓農家の今後のあり方に関する基本方針

 基本方針

 本県の戦後開拓は、約一万三、〇〇〇haの未墾地開放がなされ、県下一五四地区に合計二、四五〇戸が入植したが、食糧事情の緩和、度重なる災害並びにわが国経済の伸展にともない、順次離農し、現在一、〇九〇戸の入植者が一、二五七haを耕作している。経営型態は、果樹・酪農・和牛・中小家畜・養蚕・その他で、海岸山麓地帯は「みかん」、高冷地帯は酪農、中山間地帯は養蚕・葉たばこ・その他の生産団地が生まれるに至った。現在の入植者は、二~三年もすると既存農家と肩を並べてやって行けるものと考える。
 今後の開拓農業の誘導方向としては、その一が「みかん」、その二が「酪農」、その三が「養蚕」である。

      イ 開拓地における営農振興に必要な各種助成制度の活用

 助成策の活用

 一般農政分野における各種助成制度(農業構造改善事業・草地改良事業・桑園集団化事業など及び制度融資)を活用している地区もあるが、営農意欲があり、採択基準に達すれば活用すべきである。
 また、今後の助成方向としては、営農基盤の整備、一類農家(モデル農家)の一層の発展配慮、認定農家(自立安定指向農家四三八戸)の作目別濃密指導及び離農希望者の早期離農促進指導助成が必要である。

      ウ 開拓者の協同組織の再編整備の方向

 開拓農協の解散

 開拓農協は、開拓行政の媒体として、また開拓者資金の転貸機関として開拓者の社会的地位の向上に少なからぬ役割を果たしてきたが、若干系統資金の貸付業務が残るものの、政府資金の貸し付けもなくなり、かつ開拓行政事務も著しく減少し、その機能が失われるので、負債対策などの諸措置、組合財産の処分が完了次第、自主的意向を尊重しながら順次解散することが適当である。(以上)
 なお、この総合調整事業は昭和四七年度で完了し、二七年間の開拓行政の幕を閉じ、いよいよ一般農政へと移行した。


     ⑨ 開拓行政の一般農政へ移行(昭和四八年)
 一般農政移行後も積み残し事項について「開拓地総点検事業」などが行なわれ、昭和五〇年度で全部完了した。

表3-17 開拓地区別概況 1

表3-17 開拓地区別概況 1


表3-17 開拓地区別概況 2

表3-17 開拓地区別概況 2


表3-17 開拓地区別概況 3

表3-17 開拓地区別概況 3


表3-17 開拓地区別概況 4

表3-17 開拓地区別概況 4


表3-17 開拓地区別概況 5

表3-17 開拓地区別概況 5