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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

はじめに

は じ め に
 部門史の商工編は、「社会経済3」と「社会経済4」の二巻構成になっていて、本巻は、「社会経済3」に当たり、産業構造の歴史・工業史・交通運輸史の三部門を収めている。続刊の「社会経済4」には、商業史・金融史・公益事業史・工業用地工業用水の歴史の四部門が収められる。
 産業史の観点からみれば、近世以前の社会は農業社会であり、商工業の発達は近代社会以降に属するとみる。すなわち、産業革命を軸にして資本主義社会が生成発展を遂げて行く過程の中で、農業を切りくずして近代的商工業が展開するのである。だから、部門史の商工編は、時期区分としては近現代、明治以降を主たる対象にしている。とはいえ、近代産業は、明治に至って忽然として出現したのではない。前期的社会における産業の萌芽形態をみるために、藩政期の在来産業や農業などに関する叙述から書き起こしている。
 明治以降のわが国の産業の歴史において、二度の世界大戦は大きな画期を成している。黒船来航以降、列強の脅威のもとで富国強兵を旗印に「国防型産業」を促してきた日本経済にとって、第一次大戦は一大飛躍の時期であった。わが国の重化学工業はこの時期に橋頭堡を得、わが国の独占的大企業(財閥)はこの時期に基礎を固めることができた。また、第二次大戦は、わが国の敗戦によって「国防型産業」から「平和産業」への一八〇度の転換をもたらし、財閥解体・独占禁止・農地改革・労働改革などの経済民主化によって産業の基盤を一変させてしまった。われわれの時期区分も、二つの世界大戦によって大きく区切られている。
 世界史的に見ても封建体制が強固で、かつ、鎖国によって海外との通商を禁じたわが国が、明治初年において近代社会成立の諸条件が未熟だったにもかかわらず、産業革命を成し遂げ独立国家の面目を保ちえたのはなぜか。この点は、論争の多い点であって、戦前から、マニュファクチュア論争・封建制論争・日本資本主義論争として、わが国経済社会の特殊性を浮き彫りにしつつ説明がなされてきた。第二次大戦以前のわが国の経済社会は封建的残滓を留めており、現在からすれば隔世の観があるが、そこに先進諸国の近代性との落差を認めてきたのである。
 なかでも愛媛県は、典型的な農業県(ないし漁業県)であり、久しく日本の中でも後進県に属してきた。国鉄予讃線が全通したのは、昭和も二〇年になってからであって、近代産業の展開においても遅れをとってきたといわざるをえない。愛媛県にも、かつて全国屈指の産業にまで発展した地場産業がいくつかあった。木蝋・生糸・伊予絣などがそうであった。しかし、それらはいずれも農業と結びついて農業の副業として発展をみたのであった。原料の多くを農山村に依存し、労働力を農村の過剰人口に依存したがゆえに、それらの地場産業は農村の変貌とともに自らも没落せざるをえなかった。
 第二次大戦中の昭和一八年において、愛媛県最大の農地所有者は約二〇〇町歩の住友であり、久松家・伊達家・小西家・小野家などが一〇〇町歩内外を保有する大地主であった。さかのぼって戦前の愛媛県においては、大地主即、県下長者番付上位者であった。というのは、栄華を誇
った木蝋や製糸などの地場産業で得られた富は、資本蓄積に向けられずに、田畑の購入資金として多くが流出してしまった形跡があるからである。久しい間、愛媛県の工業・商業・金融は、農業と密接に結びつきながら、ある面では農業の掣肘を受けながら展開してきたのであった。
 愛媛県における近代産業の系譜は、残念ながら地場産業の自生的成長にはなく、中央資本による外部からの進出としてもたらされた。住友、別子の銅山経営を中心にして発達してきただけに、愛媛県との地縁は深いけれども、もとは大阪の豪商であり、幕府からの請負として出発したものである。大正・昭和と下って住友が財閥として確立されるにつれて、住友本社はますます中央資本としての性格を強めてきた。産業革命期に愛媛県に展開された紡績工場は地場資本によって興されたけれども、大正年間までに例外なく中央資本に吸収されてしまった。
 地場産業の中で自主的発展を遂げえたものの双璧は、今治のタオルと宇摩の製紙であろう。
 右に述べたような事情のもとで、愛媛の近現代史について、われわれが担当した「社会経済3」と「社会経済4」に関する文献は限られており、商工編は最も弱い分野である。というのは、愛媛県を代表する産業は農林水産業であったのであり、商工業へはあまり関心が向けられなかったからである。
 まず、商業史・工業史・交通史・金融史などに関する全県的な通史がない。愛媛県が編さんした大正六年の『愛媛県誌稿下巻』と昭和三四年の『愛媛県史概説』の構成部分として述べられているものが唯一のものである。したがって、われわれの部門史が各パートにおける県下初の通史となるといってさしつかえないであろう。研究の蓄積か乏しい分野に対する果敢な挑戦であるから、不備欠陥の箇所は多々あると思われるが、これを踏み台として今後これらの部門史の研究が充実していくことを期待している。
 愛媛県の県関係の資料は、『明治一二年愛媛県統計概表』以降の各種統計書類、明治五年以降の『愛媛県布達達書』全冊、明治四五年以降の『愛媛県報』全冊、明治7年以降の『県政事務引継書』など、古い時期のものを含めて比較的よく保存されている。これらの資料の中には、商工編に関するものが含まれているが、宍戸委員担当の「産業構造」で統計資料が利用されたのを除けば、県関係の資料を充分に活用することができなかった。商工部門における県資料は、いわば補助資料であり、軸をなす本史の研究そのものが進まなければ、これらの資料も生きてこないということである。
 商工編の執筆に当たって最も重要な意義をもった資料は企業史(社史)である。『愛媛県農工銀行沿革史』、『大洲銀行史』、『伊予相互貯蓄銀行創業十五周年史』、『伊予合同銀行十年史』、『伊予銀行史』、『四国電力株式会社史』、『伊予鉄道七〇年の歩み』などは、地域の産業経済史の諸隅を照射するものとして貴重である。だが、商工関係の地場企業の社史は、公刊されたものがほとんど無いといっていい状況で、『今治造船史』のような社史は稀有である。これらを補うものとしては、『井関邦三郎伝』、『紙聖篠原朔太郎翁』などの伝記類が散見されるだけであった。中央資本については、質量ともに優れた社史が刊行されており、『住友金属鉱山二〇年史』、『住友化学工業株式会社史』、『住友機械六〇年史物語』、『東洋紡績七〇年史』、『倉敷紡績回顧六五年』、『東洋レーヨン社史』、『帝人の歩み』、『丸善石油三五年のあゆみ』などから愛媛県に関するものを読みとることができた。
 地場産業発達史に業界として最も熱心に取り組んだのは、四国タオル工業組合であって、昭和二八年の『今治タオル工業発達史』に続いて、昭和五七年にも『えひめのタオル八五年史』の大冊を刊行している。地場産業の業界史は、ほかには、戦前の『伊予紙見本帖』、『今治織物同業組合沿革誌』、『伊予織物の沿革』などを数えるばかりである。松山・今治などの商工会議所では、数次にわたって会議所史を編さんしていて、とりわけ商業の歴史的発展を辿る上で貴重な文献となっている。
 県下市町村の市誌・町誌・村誌は、産業経済史の地域的基盤を明らかにする上で、これら重要な文献である。
 また、地方経済史研究の典型をなすものとして、『日本特殊産業の展相・伊予経済の研究』や『新居浜産業経済史』は大いに参考になった。
 本巻の「産業構造」は、愛媛県の産業発展の流れを主として統計資料に基づいて数量的に明らかにしようとするものである。農業・鉱業・工業・商業などにまたがる全産業の動向を生産額・就業者数などによって長期的に解説しており、商工編全体のいわば総論をなすものと見なすことができる。第二次大戦後は統計が整備されたので、県民所得・産業別付加価値額・産業連関・エネルギー需給などについても概説されている。
 「工業」は、藩政時代から第二次大戦後に至る工業の発達を概説している。愛媛県の工業は、在来産業から盛衰を経てきた地場産業の歴史と、水と労働力とを求めて県下へ進出してきた中央資本の歴史とが交錯している。藩政時代の伊予各藩の在来産業に発する地場産業は、産業革命・昭和恐慌に耐えて根強く存続してきた。これらを根底から掘り崩したものは、第二次大戦下の総力戦体制であり、戦後の消費革命であった。戦中戦後の激動の社会的経済的条件の中で、よくこれを凌いで発展の軌道に乗りえた地場産業は、それだけの適応力と開発力とを有していた。他方、第二次大戦後の愛媛県の工業は、化学・化繊・石油精製などの中央資本の進出と造船・農機などの地場資本の発展によって急激に重化学工業化を遂げてしまった。素材型工業への偏倚と加工型工業における構造的不況業種の偏在とは、多くの問題を投げかけている。
 「交通・運輸」は、明治以降第二次大戦後に至る交通・運輸の発達を概説している。愛媛県は、本州・九州との間に海を隔てているために海上輸送に頼るところが大きく、鉄道の発達・道路の発達では著しく後れをとっている。交通史の叙述で特色ある点は、鉄道・自動車・船舶・航空機の各交通手段別に四分して、国鉄・伊予鉄道・宇和島運輸など主要交通企業の変遷を述べている点で、さらに細分化された部門史を形づくっているともいうことができる。また、東予・中予・南予の各地域での地域社会の発展と交通との関係についてもスポットを当ててハイライトをつづるという手法も採られている。
 どの分野も通史としては未開拓の分野であり、執筆の各委員にとって労多く苦心の存するところであったと思われる。煩忙きわまりない日常の業務に追われながら稿を進められた委員諸氏に対し心から敬意を表するものである。
 社会経済Ⅱ部会長 望 月 清 人