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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 諸会社の状況

 企業熱の高まり

 廃藩後、士族の商業がにわかに増加するが多くは頓挫し、わずかに問屋業が発達するのみであった。他は旧藩関連の銀行類似会社(興産社・信義社・潤業社・栄松社)をみるのみであった。しかし、西南戦争後の経済の発展とともに企業熱はしだいに盛んとなり、諸会社はきわめて複雑な消長を遂げながら会社総数及び資本金総額は、増大傾向をたどっていった(表産2-24)。業種別の企業動向から個々の産業の盛衰や産業構成の変化を推測できよう。もちろん、会社組織をとらない多くの商店や工場などが依然として経済活動の相当部分を担っており、会社の動向は一つの目安にすぎない。
 明治一一年には、諸会社の数はわずか八社にすぎなかった。工業会社は製茶(温泉郡立花村〈現松山市〉)、織物・紙・靴製造(温泉郡松山湊町〈現松山市〉)、製陶(下浮穴郡五本松村〈現砥部町〉)の三社。商業会社は米穀商(温泉郡松山府中町〈現松山市〉)、藍商(喜多郡大洲町〈現大洲市〉)と爲換井貸付金(松山本町〈現松山市〉)、預かり金貸付金(喜多郡新谷町〈現大洲市〉)の五社であった。この年、特筆すべきは明治九年の改正国立銀行条例に基づき、士族授産事業として第二十九国立銀行(西宇和郡川之石浦〈現保内町〉)及び第五十二国立銀行(温泉郡紙屋町〈現松山市〉)が設立されたことである。
 明治一二年には工業会社は織物・紙・製造の「牛行社」一社となった。商業会社では産物売買並金貨為換方「興産社」(明治五年設立)が資本金一万円で六、〇〇〇円の純益をあげ好調であった。米商会所も資本金三万円で純益一、八四五円をあげた。この二社が群を抜いており他は零細な貸付金業である。銀行業では第百四十一銀行(新居郡東町〈現西条市〉)が設立され国立銀行は三行となった。これら諸会社の数は九社、資本金総額は四〇万一、三一二円であった。
 明治一三年には、北宇和郡に製糸会社が創設され、また商業会社では織物会社(越智郡野々村〈現大三島町〉)、縞会社(温泉郡本町〈現松山市〉)が設立されるなど、繊維産業の増勢に伴うマニュファクチュアの成立と仲介商の発達がうかがえる。もっとも縞会社(明治一二設立)は増産による粗製濫造を取り締まり品質の改善を目的としたものであった。魚市会社の設立は米の他にも市場取り引きが発達してきたことを示している。また北宇和郡の貸金業に規模拡大がみられ、当地の繊維産業の発達に結びついたものとして注目される。さらに、本県初の国立銀行条例によらない私立銀行として宇和島銀行(北宇和郡本町〈現宇和島市〉)が設立され、銀行は四行となった。これらの会社数は一五社、資本金総額は四九万四、六一〇円であった。
 明治一四年には会社数は倍増し、三一社となり資本金総額も六七万七、四一一円となった。もっとも新規設立会社の多くは貸付金などの金融会社であり、いずれも小規模であった。三一社のうちでは資本金一〇万円の「興産会社」が群を抜き、外に資本金一万円を超える会社は五社にすぎなかった。

 経済不況下での諸会社の消長

 明治一六年、初めての農業会社として「成繭社」(北宇和郡賀古町〈現宇和島市〉)が設立される。工業会社で新設されたのは、零細な煙草製造や酒造会社であり、経済不況の下で会社設立の気運も一服した。逆にこの期に銀行はじめ金融業で一斉に資本金の増額が行われており、金融閉塞下での銀行ないし高利貸資本の伸長が著しい。
 明治一七年は一覧表の通りである(表産2-25)。不況期にもかかわらず会社数・資本金額ともに大きく増加した。これには明治一六年以降、士族授産資金の貸し下げが開始され、各地で士族が共同して会社を興したことも影響していよう。運輸業が流通の拡大と交通手段の発達に伴って規模は小さいながら会社形式で営業されるようになった。製造業は依然不振であり、この期に新設されたのは商業会社である。商業会社といってもそのうち二四社、資本金三四万六、〇七六円は銀行類似会社であり、本来の商業は魚類や紙・茶の売買業である。新奇なものとして北宇和郡に自然氷の貯蔵販売会社がみられる。
 明治一八年には厳しい経済不況によって、一七年に設立された銀行類似業の多くが姿を消しており、経営基盤の脆弱ぶりを示している。その中で南予地域で「宇和島運輸」をはじめ運輸会社の開業が相次ぎ、本県特有の一つの産業として創成したといえよう。製造業では「興産会社」(北宇和郡吉田町)が器械製糸を創業したことが注目される。
 明治一九年になると不況もようやく底を打ち、士族授産事業として各地で養蚕製糸会社や茶業会社の設立が続いた。その大部分は農工業会社ないし農商業会社であるが、業務に養蚕ないし植茶を含むものを農業会社として分類すると、農業会社は総数一一社、資本金総額二万一、〇〇六円となる。農業経営における資本主義的形態の萌芽として興味がもたれるが、その内容は資料的に不詳である。製造業においては製糸業を中心に製糸・製糖・醸造会社が設立され、諸産業での工場制展開の兆しが現れた。銀行業では「郡中私立銀行」(資本金五万円)が創立される一方で、弱小な金融会社の淘汰が進んだ。この年ようやく会社資本金総計が一〇〇万円を突破した。

 企業勃興期

 明治二〇年以後については統計書に諸会社表が掲示されていないが、明治二〇年『県政事務引継書』に県内(讃岐国を含む)諸会社の状況が記されている。

 県下諸会社ノ景況タル概シテ資金寡少殊二其拠ルベキノ條例ナキヲ以テ確手信認ヲ表スルモノ未タ少シ現二設立セル諸会社於テ壱万円以上ノ資金ヲ備へ事業着実望ミモ将来二属スヘキモノ僅々屈指スルニ過キス其他ハ会社ノ業休二属スルノ称アリト雖トモ其実商工業社会二活動ヲ与へ以テ公共ノ利益ヲ営ムモノニアラズ或ハ既二廃社ノ姿トナリシモノナキニアラサレトモ今諸会社ノ部類ヲ農商工ノ三ニ分テハ農ノ部ニ商ノ部二十三工ノ部十七ニシテ就中金銭貸付預金為替等ヲ専業トスルモノ多キニ居レリ……。

 右に指摘の通り愛媛県の企業活動はまだ低調であり、銀行及び銀行類似会社を除けば、資本金一万円以上の会社は、商業で「一等紙会社」及び「醤油会社」、水運会社で宇和島運輸会社のわずか三社を数えるのみであった。製造会社は数も少なく資本金五、〇〇〇円以上は北宇和郡の興業会社(器械製糸)と賚善社(木綿織立)の二社だけという零細さであった。金融資本や商業資本に対する産業資本形成の遅れが看取される。
 ちなみに同年の全国の諸会社(銀行・金融会社を除く)の状況をみると(表産2-26)。全体として資本主義的経営の進展がみられ、なかでも商業及び水運業において、一社当たりの規模が大きく他産業に対する優位性がうかがえる。愛媛県は全国に比較して会社の数、規模ともに大きな格差があり、資本主義発達の基本的条件形成の遅れは明らかである。全国的には明治二〇年・二一年・二二年と企業熱が急激に高まり、日本経済史の上でこの時期は「企業勃興期」と呼ばれている。例えば明治二一年から翌二二年にかけて会社数は二、五九三社から四、〇六七社へとこの一年間で一、四七四社増という過熱ぶりであった。翌二三年にはこの反動で株式暴落、会社の破産続出、一部の銀行で営業停止という恐慌状態を呈した。
 ところで愛媛県については、ちょうど企業勃興期に当たる明治一八年から二六年の間、『愛媛県統計書』が刊行されていたいため、諸会社状況は不明である。ただ、明治二一年について『愛媛県農事概要』に会社数及び資本金総額のみが記されている。それによれば製造業が拡大しているが、これは宇和紡績(資本金一二万円)の設立によるものである。この後、規模が比較的大きい紡績会社、製糸会社や鉄道会社などの設立が相次ぐのである。いま明治二九年『愛媛県農商工統計年報』によって、明治二二年から二九年の諸会社の業種別・組織別推移を示す(表産2-27)。この七年間に会社の数は三倍、資本金払込額は六倍に増えた。その結果、明治二九年の会社の数は株式会社七二、合資合名会社六〇、合計一三二社で、その払込済資本金総計は三五〇万三、九八七円となった。

表産2-24 明治前期の愛媛県(伊予国)における諸会社状況

表産2-24 明治前期の愛媛県(伊予国)における諸会社状況


表産2-25 明治17年愛媛県(伊予国)における諸会社一覧 1

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表産2-25 明治17年愛媛県(伊予国)における諸会社一覧 2

表産2-25 明治17年愛媛県(伊予国)における諸会社一覧 2


表産2-26 明治20年全国諸会社状況

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表産2-27 愛媛県の明治20年代業種別・組織別会者数の推移

表産2-27 愛媛県の明治20年代業種別・組織別会者数の推移