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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 明治前期末の生産条件

 土地利用

 産業構造の実態を知るためには、その生産諸条件を見ておく必要がある。次に、主として『愛媛県農事概要』(愛媛県明治二四年刊)に依拠して、明治二一年(一八八八)の土地利用形態・戸口構成・交通事情・物産構成について概観しておこう。
 まず、土地利用の状況をみよう(表産2-28)。愛媛県の総反別は四七万九、二〇九町歩(一町歩は約一㌶)であった。そのうち官有地は一二万三、八七〇町歩(総反別の二五・八%)で、その九八%は山林であった。官有山林が県内山林の三分の一以上を占めている。これは地租改正と並行して行われた山林原野の「官民有区分」によって、旧幕・藩有林のほとんどが官有林野に編入されたためである。民有地は三五万五、三三八町歩(総反別の七四・二%)で、その地価は三、二八三万六、二八六円と算定された。地価の一〇〇分の三が地租、一〇〇分の一が民費となった。
 耕地反別をみると、平地が少ない地形のため当時から平坦地はほとんど水田化され、田地面積は四万七、五一二町歩(耕地面積の四〇・三%)でその後もほとんど変動がない。傾斜地を利用した畑地面積は工芸作物の好不況により幾分変動するが、当年は七万〇、二七五町歩(同五九・七%)と広く、雑穀や甘藷、工芸作目の栽培が盛んであったことがわかる。塩田は一五七町歩で、明治一二年の七五五町歩から倍増している。そして当年の耕地地租は七四万〇、八七二円(国税総額の五八%)、耕地に係る地方税(地方税総額の五九%)、耕地に係る市町村費一一万〇、五五四円(市町村費総額の四六%)、公儲金一万六、八六三円であった。当時、租税として徴収されていたのは地租割、営業税、雑種税、戸数割が主なものであったが、地租を中心に耕地に係る租税負担が大きかったことがわかる。なお、当年度の公費総額は一八六万二、一五九円で、一戸当たり一〇円六銭、一人当たり二円四〇銭一厘であった。

 戸口構成

 明治以前における愛媛県の正確な人口数は不明であるが、藩政後期を通じて約五〇万から六〇万人と推定される。明治に入ると人口は増加傾向をたどり、明治五年(一八七二)七七万五、九七四人から、明治一〇年には八二万一、〇五七人へ、さらに明治二一年末には九一万二、七八八人へと急増した。総戸数も明治一〇年一七万八、二八〇戸から一八万五、一〇九戸に増えた。このような人口の増加は県下産業経済の発展を反映したものである。これを全国人口と対比してみると、明治一〇年には愛媛県人口は全国人口三、四六二万八、三二八人の二・三七%を占めていた。ところが明治二一年の対全国比は二・三〇%にわずかながら低下した。これはこの間の愛媛県の人口増加率一一・二%が全国の一一・四%を下回ったからにほかならない。
 明治二一年の産業別世帯構成は、農家一二万一、〇〇〇戸(総戸数の六五・五%)、工家二万三、〇〇〇戸(同一二・四%)、商家九、〇〇〇戸(同五・〇%)と圧倒的多数が農家であった(表産2-29)。ただ農家の約三〇%は兼業農家であった。其他三万二、〇〇〇戸には漁家及び雇人世帯が含まれる。農家人口は五九万七、〇〇〇人で総人口の六五・四%を占めていた。そのうち約二五%は兼業世帯であり、農家世帯員のうちには雇人や、雑業に就く者も多いので、農業就業人口は就業者総数の六割程度と推測される。
 なお、他管内出稼人の出入りをみると、管外へ出寄留八、一九三人に対し、管外より入寄留六、一一八人で差し引き二、〇七五人の出寄留超過となっている。『愛媛県農事概要』によれば、「本県下二於テハ雇人ヲ得ルハ甚容易ニシテ他県人ノ雇人トナリテ入稼スルモノハ真二少シ新居郡二於テハ近来鉱業盛二起リ多ク人夫ヲ使役スル」とある。農民層分解に伴う豊富な余剰労働の存在とその農外産業への流出が示されている。

 交通事情

 明治一二年一二月に愛媛県内の国道・県道が初めて設定され、現在の一一号は三等国道に、三二号と三三号は一等国道に指定された。だが「水陸ノ運輸ハ輓近汽船ノ来往漸ク繁ク海浜ハ稍其便ヲ得ルト雖モ陸路二至テ道路嶮悪ニシテ猶不便多キヲ免レス」(明治一三年『県政事務引継書』)の状態であった。明治一〇年代末になると、四国新道開さく事業など道路の整備改修が進み陸運も幾分は便利となる。「久米郡下浮穴郡及上浮穴郡ハ松山ヨリ高知二達スル新開道路ノ貫通スルモノアルカ為メニ農産物ノ輸送及肥料の運輸等二対シ著ルシク便益ヲ与ヘタリ」(『愛媛県農事概要』)。とはいっても、鉄道や車両輸送がほとんど発達していなかった当時にあっては、貨物輸送の主要部分は海上輸送に依存していた。
 船舶は日本形小船が中心であるが、機関を有する西洋船が少数ながら導入されている(表産2-30)。県の海上輸送を担ったのは県籍をもつ船舶のみではない。明治四年、熊本県の汽船舞鶴丸が三津浜港に発着したのに始まり、その後、阪神-関門航路をはじめ各社の船舶が寄港した。明治一七年大阪商船の創立により定期内海航路が開かれ、今治・三津浜・長浜・八幡浜・宇和島へ寄港した。明治一八年には宇和島運輸が大阪-宇和島間に定期航路を開設し、大阪商船と激しい競争を演じることとなった。定繋船舶及び船舶出入りの数を見れば(表産2-31)。汽船及び大型日本形船の出入港数も多く、「本県物産ノ運輸ハ主トシテ海運ノ便ニヨレリ近来汽船ノ交通頻繁ナルカ為メ輸出ノ途大二円滑ナルニ至レリ」(『愛媛県農事概要』)という事情が推察される。
 一方、陸上交通をみると、人は人力車、貨物は牛車及び中小の荷車によっていた。自転車や馬車はまだみられない。日本最初の軽便鉄道が松山と三津の間を走るのは三年後の明治二四年である。

 生産概況

 さいごに、上記のような基盤のうえで行われた生産の状況をまとめておこう。明治二一年の諸産業(鉱業を除く)を合わせた収入総額は一、一三七万三、〇〇○円で、これは当年の公費総額の約六倍に当たる。また県民一人当たり収入額は一二円四六銭となる。産業部門別構成は農産物七六七万六、〇〇〇円(六七・五%)、水産物三四万七、〇〇〇円(三・一%)、工産物二九〇万六、〇〇〇円(二五・六%)、山林物四四万四、○○○円(三・九%)となっている(表産2-32)。農産物が最も多く総収入額の三分の二を占め、工産物は約四分の一を占める。これを第一節でとりあげた物産構成と比較すると、統計数字の反映する内容が相違するので一概にはいえないものの、農産物の比重が高まり、工産物のウエイトはむしろ低下している。
 農産物について生産価額の部門別構成をみると(表産2-33)。主要農産物は米穀が四一・五%、工芸作物一六・六%、麦類一五・一%、いも類一〇・七%などとなっている。明治一〇年の農産額に比べ(第三節参照)、総生産額は約二倍に増大しているが、部門構成はあまり変化していない。ただ、工芸作物の比率が低下し、その分だけ穀類の比重が高まった。養蚕の比率はまだ極めて低いけれどもこの時期に養蚕農家、桑園が南・中予から東予地方にも拡がり急激な増大の気配をみせていた。
 以上の生産状況を要約すると、明治前期末の愛媛県の産業は産業発展の胎動期にあったといえよう。すなわち明治前期においては、明治初年の停滞から抜け出た農業が、明治一四年以降の厳しいデフレ不況を克服し、明治二〇年代初頭から生産を増大しつつ新たな展開を始めていた。これに対し工業は、在来工業の停滞と新興産業の未成熟のために近代化への歩みは立ち遅れていた。日本経済においては明治二一年には、繊維産業は工業生産額の三割近くを占め、日本産業の中核として貴重な外貨の稼ぎ手にまで成長していた。一方、愛媛県では明治前期末になって、ようやく織物などの在来工業が製法の近代化と販売の拡大を図るとともに、養蚕製糸などの新興産業が地場産業として創成されるに及んで、新たな展開の足がかりをつかんだところであった。ここに、日本資本主義の草成期において早くも愛媛県の後進性の一端がみられるのである。

表産2-28 愛媛県地目・地価

表産2-28 愛媛県地目・地価


表産2-29 愛媛県の職業別戸数・人口

表産2-29 愛媛県の職業別戸数・人口


表産2-30 愛媛県の明治21年船舶及び車の数

表産2-30 愛媛県の明治21年船舶及び車の数


表産2-31 愛媛県重要港湾の定繫船舶及び船舶出入の数

表産2-31 愛媛県重要港湾の定繫船舶及び船舶出入の数


表産2-32 明治21年愛媛県物産構成

表産2-32 明治21年愛媛県物産構成


表産2-33 明治21年愛媛県農業生産価額部門別構成

表産2-33 明治21年愛媛県農業生産価額部門別構成