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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 工業化の進展

 戦後経営と重工業化

 本章であつかうのは日清戦争後から第一次世界大戦直後(大正八年)までである。日本経済は明治前期末には、織物業その他在来産業を中心に広範なマニュファクチュアの展開がみられると同時に、明治政府の保護のもとに鉄道業・紡績業及び鉱山業などの、機械制大工業の移植育成が行われ工業化が急速に進んだ。産業構造からみれば、紡績業・製糸業など繊維産業を中心とする軽工業化の時代であった。
 その後、日本経済は明治中期から大正前期にかけて、日清・日露・第一次世界大戦という三つの大きな戦争を通して、さらに急速に工業化を進めながら発展した。日清戦争後は、台湾の領有及び莫大な賠償金と中国からの利権を獲得したのを契機にして「日清戦後経営」が展開される。それから、さらに一〇年後の日露戦争の際には、満韓における権益を奪取したが賠償金は得られず、戦費はほとんど外債で賄われ、対外債務が一三億円に達したにもかかわらず戦後経営が展開された。政府は明治三〇年以来の金本位制の下で、欧米との経済関係を急激に密接化し外資導入を積極的に促進しながら、軍備拡張を最重点に、土木事業・鉄道・電話・教育・産業奨励に至るまで事業規模を拡大し財政支出を急膨張させた。この政策に対応して国内経済の動きは活発となり、企業の新設・増資・民間設備投資の成長・貿易の拡大がみられた。この間に、明治三一年(一八九八)、明治三三年、明治四一年、大正三年(一九一四)の恐慌に見舞われたとはいえ、むしろ日本経済は発展傾向にあった。とくに、大正三年に勃発した第一次世界大戦は日本経済界に大きな影響を与えた。日露戦後の構造的不況下にあった日本経済は開戦当初大きな打撃を受けるが、翌大正四年ごろから一転して空前の戦争景気が到来した。
 こうした発展過程は産業構造からみれば、重化学工業化へ進展する途であった。軍拡路線にそって製鉄・建設・鉄道・海運・造船などの産業部門が強化される一方で、電力・電気通信・機械・車両・化学などの新しい産業企業が勃興・成長していった。動力面でも蒸気力から電力への転換が進み、ことに日露戦争から第一次世界大戦にかけて、織物業など在来工業でも第二次産業革命が進展し工場制工業が拡大して、大正初頭には、ついに工業生産額が農業を凌ぐまでに拡大した。この時期までに原料輸入・製品輸出という加工貿易型産業構造の原形ができあがった。第一次大戦によりアメリカや中国向けに生糸・綿糸・綿織物などの輸出が急増するとともに、これまで輸入に依存していた機械類・鉄鋼・造船・化学などの生産拡大と国産化が促進された。大戦の終わった大正七年には、工業生産額は総生産額の過半を占めるまでに成長した。工業部門内では、依然として軽工業が大きな比重を占めながらも、造船業を中心に重化学工業が著しく発展した。またこの急速な産業発展過程における好・不況の波動のなかで紡績業や製糸業では、特定少数の資本による工場の増設または合併の動きがみられ、この動きは日露戦前後から他の産業分野にも及び、ことに第一次大戦期にかけて企業集中の動きが顕著となり、銀行業の集中と相まって独占資本形成の方向に進んでいった。

 愛媛県における工業化

 愛媛県でも戦後経営期には積極政策が展開されている。明治二九年と三五年を初年度とする二つの継続土木事業が計画されたが、一部の工事を実施したにすぎず、財源難のためほとんどの事業が繰り延べとなっていた。日露戦後、当時の安藤県政は戦後経営の最重点を土木事業の推進におき、予算総額七五五万円余の二二か年継続土木事業計画を立案し、県会の可決・内務省の認可を経て実施に移した。しかし翌年知事が交代したのに伴い、この大土木計画は継続年期の短縮、支出額の大幅減額などの更生を受けて実施されることとなった。
 さて、経済面の動きをみると、愛媛県でも産業革命が進展し、この期を通じて全体として工業化が急速に進んだ。明治二〇年代から三〇年代前半にかけて、別子銅山の近代化を先駆けに器械製糸が普及し、県下四紡績工場が出そろうなど諸会社の設立が続いた。日露戦争ごろから、綿織物業で工場が急増し力織機・動力起毛機が導入され、製糸・印刷・煙草製造・精米業でも原動力使用工場の設立が相次いだ。さらに明治末期には造船・鉄工・水力発電の勃興をみた。県工業は多数の農家副業的家内工業と低廉労働力の基底の上に、生産形態は工場制手工業から原動力使用の工場制機械工業へ発展し、生産力は飛躍的に拡大した。明治末期から大正期にかけて数度の好不況を経験しながら、繊維産業部門を中心に海外市場との結びつきをしだいに強めつつ発展し、第一次世界大戦による海外需要の急増によって県産業界も空前の活況に恵まれた。生糸・綿織物の生産高は大戦中に倍増し、国内消費が増えた製紙や輸入が途絶えた化学肥料なども生産を大幅に伸ばし、鉱山や造船業もすこぶる盛況であった。諸会社の利益は、うなぎ上りに高まり多くの成金を生んだ。この時斯に愛媛県でも総生産額中の工業生産額が農業を抜いて第一位となった。