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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 日清戦争後の工場事情

 工業部門別の構成

 日清戦争直後の愛媛県工業の状態を、明治二九年「工場表」から探ってみよう(表産3-14)。同年において県下で職工一〇人以上を使用する工場は一一業種、一二九を数え、前年に比べ二九工場が減少した。当時の工場新設と休廃業の動きは激しく、総数の増減に見られる以上の頻繁な交代が行われている。それでも、一〇年前の明治一九年の工場数三、原動機ゼロ、職工数一九五人という状況に比べれば、この一〇年間における工業の発達がいかに顕著であったかが明らかであろう。まず業種別内訳をみると、綿織物業が総数の四〇%を占め、製糸業二一工場と紡績業三工場とを合わせて繊維工業が全体の六〇%を占めている。格段に落ちて陶磁器業と飲食業がこれに次いでいる。燐寸(マッチ)、煉瓦など新製品を生産し、新市場の開拓を意図した雑工業が生まれてきているが、機械器具のような近代的部門の設立はみられない。工場の地域分布をみると、綿織物業が立地する越智郡が最も多く、次いで製糸業が立地する南予地方となっている。中予は陶磁器の砥部村(現砥部町)に集中している。まだこれらの産業では、原料と労働力という立地条件と歴史的性格に基づく農村工場が優位にあることがわかる。松山市に所在するのは酒造・精米・煙草などの飲食品工業と印刷業である。全国的には、この期に化学・機器その他の都市工場が急増して、工業の都市集中の傾向があらわれつつあった。

 原動力別の構成

 原動力別にみると、人力による零細マニュファクチュア(工場制手工業)が圧倒的に多く、動力を使用する工場は総数の一九%に当たる三八工場(蒸気力三〇、水力八工場)にすぎない。そのうちの過半数は製糸業であり、蒸気機関二一・六七馬力と水力機関二を有する。明治二二年南予製糸(株)の蒸気機関による原動力使用製糸工場の創設に始まり、翌年、大洲町(現大洲市)に河野・程野共同の蒸気機関使用工場の設立と続き、以後原動力使用工場は漸増し、二九年時点では、人力や伝統的な座繰製糸法に日本形水車を用いただけのものから蒸気機関にほぼ転換している。ちなみに当年の生糸産額の九〇%は器械製糸であった。紡績業は三工場(伊予紡績・松山紡績・宇和紡績)で、蒸気機関四(三五七馬力)を有し群を抜いた生産規模の大きさを見せている。愛媛県では新興産業である製糸業及び紡績業は、別子銅山に続いて産業革命を先導する役割りを果たしていた。
 鉱業は一〇工場で、蒸気機関一〇(一三三馬力)と水力機関六(二六馬力)を有し、機械工業化が最も進展していた。この主力はいうまでもなく別子銅山の近代化によるものである。別子銅山では、明治七年にフランスより技師を招いて施設近代化の基本計画を策定して近代化に着手し、早くも明治一二年に洋式製錬を開始した。以来、明治一五年採鉱におけるダイナマイト使用、同二三年和式製錬の廃止・洋式製錬の確立・蒸気巻揚機の導入、二四年削岩機の導入、二六年住友専用鉄道の敷設など相次いで近代化を果たした。さて、これらの動向に対し、この時点で綿織物工業は四八工場中、機関取付工場は皆無であり、近代化の遅れをはっきりとみせている。
 ところで、愛媛県の産業が家内工業及び工場制手工業から原動力使用の工場制機械工業に移行する時期は、三つに大別してみることができる。まず別子銅山が採鉱・製錬に洋式機械を導入していく時期(明治一二~二三年)、ついで原動力使用の器械製糸と紡績業が発達する時期(明治二二~三三年)、そして綿織物に力織機が、製紙業に叩解機が導入され、印刷・煙草製造・精米業などに原動力が使用されるとともに、造船業・鉄工業・水力発電業が勃興する時期(明治三三~四五年)である。

 職工別の構成

 工場の職工総数は七、三〇五人で、そのうち鉱業が三六%を占め、その大部分は鉱夫などの男子職工であった。鉱坑山は職工数五〇~九〇〇人の規模であり、別子鉱業所を頂点にして比較的大規模操業が行われていた。続いて職工数が多いのは織物業・製糸業・紡績業の順となっている。これら三業種では女子職工数が圧倒的に多く、いずれも男工数をはるかに凌いでいる。織物業は工場数が四八と多く、そのほとんどは職工数一〇~三〇人のマニュファクチュア作業場である。一〇〇人以上は今治町(現今治市)の興業社と村上綿練工場の二か所にすぎない。この時期には綿ネル生産は資本を集中し固定設備の大規模化をはかるよりは、同一経営で小さな分工場を設けるという生産方式がとられていた。製糸業はやや規模が大きく、五〇人以下は五工場だけである。他は五〇~一〇〇人の中規模工場が並び、一〇〇人以上は宇和島町(現宇和島市)の南予製糸(株)のみである。紡績業では零細工場はみられず、三工場とも三八〇人程の規模であった。
 一方、規模の最も小さいのは陶磁器業で、平均二〇人と家内工業を含む零細工場である。飲食品工業や燐寸工場も零細である。以上のように、日露戦争前後にとくに鉱業・紡績業・製糸業・綿織物業において、工場生産が飛躍的に発展したのであるが、一部を除いてその規模は小さく、機械化も微々たるものであり、経営基盤はまだ不安定であった。その多くは二八年・二九年の好況期に設立された新工場であり、ほとんどは数年後には姿を消していくのである。

表産3-14 明治29年の工場数(職工10人以上の工場)

表産3-14 明治29年の工場数(職工10人以上の工場)