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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 恐慌下の愛媛県経済の動揺

 戦後恐慌

 愛媛県においても第一次大戦後の恐慌により、製糸業・紡績業・織物業を中心に大打撃を受け、企業の倒産・休業が続出し、大正九年上半期だけで一万人余の職工が解雇された。
 製糸業においては、生糸相場が五割~七割に大暴落したのに対し、工賃の値下げ、女工の解雇・操業短縮を断行したが、生産過剰傾向から脱し切れず、しばしば県内一斉休業を余儀なくされた。しかし、こうした苦境に立ちながらも廃業することなく生産数量を年々拡大させ、昭和二年には製糸工場三二〇・釜数一万・産額二八万貫にのぼった(表産4-1)。
 綿織物、なかでも伊予絣は最も深刻な打撃を受けた。好況の大正八年には、絣相場は一反七円以上で織賃も一反二円~一円二〇銭していたが、翌九年には、絣相場は一反四円八〇銭~五円六〇銭に暴落し織賃も一反七〇銭~八〇銭に下落した。絣相場は一時的に回復することもあったが、ジリ貧状態が続き、大正一五年には一反一円五〇銭まで崩落した。伊予絣の生産量は大正初期の落ち込みのあと、大正一〇年以後、足踏機の導入などにより年産二〇〇万反の生産を維持してきたものの、価額は半分以下となって業況は悪化する一方であった。今治及び南予の綿織物業も輸出の急減による在庫の急増と綿布価格の下落によって、操短・休業する工場が続出した。救済資金の貸出しや賃金引下げ、人員整理、製品転換などで切り抜けようとしたが、大正一一年に再び綿布・綿糸が大暴落し大打撃を受けた。今治地方では力織機が六、〇〇〇台から四、〇〇〇台に減り、中小工場は休業し、一、〇〇〇人を超える失業者が出た。
 県下の農村の受けた影響も深刻であった。米価は、大正九年初頭には一石五〇円台を維持していたが、九月に入って三〇円台に落ち込み、さらに一二月には二六円三六銭に暴落し、県内各地で米の投売りが始まった(表産4-2)。農家の赤字経営は続き、小作農家はもとより自作農家も経済的に窮迫した。県内農家の主要な副業であった繭価の暴落がこれに拍車をかけた。価格下落による所得減を補うように生産量は年々増加したが、価格は逆に下落の一途をたどり、養蚕農家の経営は悪化する一方であった。県内小作争議の発生件数は、大正九年二〇件、同一〇年三八件と急増し、一三年には四二件のピークに達した。要求の中心は小作料の減免であったが、しだいに耕作権の確立など生活権に根ざしたものに進んでいった。

 昭和恐慌

 産業界の不振は県下の金融界にも波及し、銀行取付けが相次ぎ、これを契機として県内各地で銀行合同が急速に進む中で、昭和二年の本格的な金融恐慌が本県を襲った。今治綿織物業の不振のあおりを受けた今治商業銀行が、一月二四日から休業に入ったのを前駆に、東予地方の各銀行で取付け騒ぎが起きた。金融恐慌とこれに続く世界恐慌は、本県産業界にさらに深刻な打撃を与えた。
 伊予絣は当時全国第一位を占めていたが、金融恐慌による農村の疲幣と捺染絣の出現により、昭和二年四月二三日、創業以来初の一斉休業の止むなきに至った。その後も衣服の洋服化が進むにつれて需要が急速に減退していった。価格は一反二円一八銭から、翌三年二円一四銭、五年一円八〇銭、七年一円四七銭と続落し、生産高も昭和二年の二九五万反をピークにして漸減し、昭和七年には一八八万反に低下した(表産4-3)。その結果、生産価額は昭和元年七〇四万円から昭和七年二七七万円へと急減した。伊予絣は、その後、復活することかく逐年減少し昭和一五年には三三万反、一〇六万円に低下している。
 綿織物業も金融逼迫と中国・インドへの輸出不振により大幅な操短を余儀なくされ、綿織物総価額は、昭和元年四、二五九万円から同六年二、一八〇万円へ半減した(表産4-4)。昭和四年世界恐慌時には今治及び西宇和地方では織機工場の休業・倒産が相次ぎ、この期を境に主要製品である綿ネル・広幅織物は減衰の途をたどることになった。ただ白木綿から転換したタオルだけは、ドビー機からさらにジャガード機へと織機の改善を行いつつ好況を持続していた。タオル生産高は、大正一〇年九七万ダースから昭和六年五〇七万ダースとなり、さらに同一〇年六二三万ダースの最盛期を迎えている。
 製糸業も金融恐慌による価格下落で打撃を受けながら、生産量はむしろ増加させてきたが、世界恐慌によるアメリカ市場の崩壊によって、生糸相場は暴落し本県製糸業界は大損害を被った(表産4-5)。工場の休業・閉鎖が続出し、製糸場数は昭和六年三三七が、昭和七年製糸業法の施行により小規模工場の設立が不可能とたったこともあり、昭和八年には二四六、同一〇年には一六八に減った。蚕糸生産価額は、昭和元年二、三七八万円から、同五年一、七九九万円、同七年一、三一二万円、同九年一、二〇七万円と急激に減少していった。
 他方、金融界では、反動恐慌・震災・金融恐慌の度ごとに巨額の政府資金が放出され金融市場は膨張するが、それら資金は二・三流銀行に対する警戒から大銀行と郵便貯金に集中し、地方小銀行は没落した。昭和二年三月銀行法公布による合同促進政策もあずかって、本県においても昭和五年以降、中小銀行の整理と合併が進展し、大正一五年に三二行あった銀行が昭和五年には一七行に減少した。その後も銀行合同が積極的に推進され、昭和九年には、すでに多数の銀行を併合してきた有力銀行である第二十九銀行・大洲銀行・八幡浜商業銀行が合併して予州銀行となり、さらに一二年内子銀行、一三年卯之町銀行を吸収して南予に一中心銀行を形成した。中予でも、昭和一二年県下最大銀行である第五十二銀行と仲田銀行が合併し松山五十二銀行となり、さらに一三年三津浜銀行買収、一六年伊予銀行・久万銀行を買収合併する。かくして県内銀行は東・中・南予の代表銀行である今治商業銀行・松山五十二銀行・予州銀行が並立することとなったが、一県一行主義から、ついに昭和一六年九月伊予合同銀行(昭和二六年伊予銀行と改称)の成立をみた。
 ところで、愛媛県内においても打ち続く諸恐慌により労働情勢が深刻化するにつれ、大正一三年ごろより労働組合が結成され始めた。日本労働総同盟系として、大正一三年別子労働組合、同一〇年今治労働組合が結成され、さらに日本労働組合評議会系のものとして、大正一五年松山合同労働組合、昭和二年今治一般労働組合、同三年西宇和郡印刷工組合が形成された。県下における大規模な労働争議として、大正一四年一一月一〇日より一〇八日間にわたる別子銅山争議と、昭和二年三月二五日~四月一五日の倉敷紡績松山工場争議があげられる。
 一方、大正九年以来の赤字経営に苦しむ農村では、米価(県内平均価格)が、大正一五年は一石三八円五〇銭であったものが、昭和二年には三二円、落ち込みの最も深かった昭和六年には一七円台という超安値となった。米の収穫高も大正八年一七万一、九四二㌧をピークに漸減し、昭和三年は一三万七、五五〇㌧、同六年は一二万一、六六二㌧に著減した。その結果、農産物総価額は、大正八年一億一、七三〇万円、同一四年一億〇、四七三万円から、昭和二年七、一八〇万円、五年四、六三〇万円、六年四、〇四〇万円に激減した。この激烈な農業恐慌のもとでの農家の悲惨な状態は推して知ることができよう。県内の小作争議は、昭和初期一時後退していたが、昭和六年以降、小作地継続などを求めて再びかなりの高まりをみせた。昭和一〇年四四件のピークに達したあと、政府の弾圧や農民組合の弱体化により減退した。

表産4-1 愛媛県生糸生産高の推移

表産4-1 愛媛県生糸生産高の推移


表産4-2 愛媛県の農産物価格

表産4-2 愛媛県の農産物価格


表産4-3 伊予絣生産高及び平均単価

表産4-3 伊予絣生産高及び平均単価


表産4-4 綿織物総価額

表産4-4 綿織物総価額


表産4-5 愛媛県生糸糸生産高及び平均単価

表産4-5 愛媛県生糸糸生産高及び平均単価