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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 別子銅山の源流

 別子開坑

 わが国の代表的銅山に発展した別子銅山の初めは阿波(徳島)生まれの切上り長兵衛という廻切夫の情報が端緒であった。長兵衛は別子に隣接する立川銅山で働いていた。ある日、立川銅山の峰つづきで幕府領の宇摩郡別子山村の足谷山中において、大きな銅の露頭を発見した。元禄三年(一六九〇)六月、当時住友経営の備中(岡山)国、吉岡銅山の駐在重役田向十右衛門(重右衛門とも書く)に有望な山色の見えることを告げたという。こうして九月、十右衛門らは現地に出かけ深山を踏査し、「蜂の巣焼け」といわれる高度の銅分を含有する露頭を探し出した。暗紫色に光る斑銅鉱の大鉱脈の尖端を前にして、一行は抱き合って歓喜したという。この掘口は「歓喜間符」と命名され、それを記念して、現在でもその場所に「歓喜坑」という標識が建てられている。
 さて、住友は十右衛門の調査の結果、元禄三年の一〇月に稼行請負願を提出した。ところが、翌四年二月運上(税)を増額して願い出よとのことで、再考の上改めて四月に願を出して、五月九日に認可を得ることができた。
 このときの認可の条件の大要は、
 一、出銅の山師取り分と運上分とに大別され、山師取り分の一割三分に当たる運上銅を毎月代銀納する。
 二、別に諸入用として年額金子五〇両を出す。
 三、炭竃の運上として炭竃一〇口につき一か年、銀三〇枚(約一貫三〇匁)を毎月納める。
 四、山の囲と山役人の番所の普請並びに修理は請負人の負担とする。
 五、年季は六月より向こう五か年とする。
 六、坑木・薪炭用として銅山付近の雑木ならびに朽木・立枯木の使用を許可する。
というものであった。
 この請負許可には競願者がいた。別子の銅鉱発見については、住友より三年前、貞享四年(一六八七)、宇摩郡三島村(現伊予三島市)の祗太夫が別子山内に銅鉱を見つけ、新居郡金子村(現新居浜市)の源次郎という者に試掘させ、許可を願い出ていた。源次郎は無届試掘が関係してか、失格した。その後、尾張留右衛門が那須善五郎を請人として請負許可を求めていた。住友の出願は遅れたが請負運上額が多かったことや、高峻な深山で、素人による開発は困難なので、泉屋のような資力のある経験豊かな鉱業家に認可が下ったわけである。
 だが、別子は四国山地の支脈、法皇山脈にあって、別子越の標高一、三〇〇肩という深山で、開坑の準備も意外に手間どった。付近の山村から多くの人夫をかり集めて宇摩郡天満村(現土居町)から銅山まで五二キロメートル余の山から谷へ、崖を削り木を伐って橋をかけ、食糧・銅鉱の運搬路を造り、その間に四か所の中宿を設けた。また、坑場の地形を整えて山小屋・勘場(事務所)・床屋(鎔鉱場)・焼竃などを建てた。支配人としては田向十右衛門の下にいた杉本助七があたり、諸方から多くの稼ぎ人夫が集められ、川之江代官所から銅山役人も派遣されて来た。
 かくて、いよいよ閏八月一日(九月二二日)から掘り始め、一〇月一二日(一二月一日)から焼吹を開始した。この年一二月末日までの産銅は五、一二二貫九〇〇目、すなわち、三万二、〇一八斤(約一九・二トン)の成績であった。その詳細は翌元禄五年(一六九二)正月に代官所に提出された運上目録で知ることができる。
 住友の採鉱出願については年季五か年の請負となっているが、初めから本腰を入れた遠大な計画であったらしく、元禄八年の幕府宛の書状に、「年季で請負うた山は山師が都合のよいように扱うから百年つづく山でも二十年、三十年で絶えるものである。住友は天領の各地を請負い、末長く繁盛するように心掛けて多額の金をつぎこんでいる」と述べている。

 別子産銅額の変遷

 その後の産銅成績はきわめて良好で、元禄五年に五九万斤(三五八トン)、同六年に八一万斤(四九一トン)と躍進を示している。元禄六年は六月二一日に大風雨が襲来して蔵一三か所、坑夫小屋二〇〇余戸が潰されるという大被害をうけながらの成績である。
 元禄九年に入ると五か年の請負期間も残り少なくなったので、二月に稼行継続願を出したが早くも三月に認可がおりている。元禄一一年に二五三万斤(一、五二一トン)を産出しているが、これは明治以前の別子の最高記録であるとともに、日本の銅山の最高だった。産額の多いことで知られた延宝(一六七三~八一)・貞享(一六八四~八八)のころの足尾銅山も、これには及ばなかったようである。また、元禄一〇年の日本の銅産額は一、三〇〇~一、四〇〇万斤(七、八〇〇~八、四〇〇トン)で世界一であったといわれているから、別子が二二三万斤(一、三四七トン)を産したことも大きく関係したと思われる。次いで元禄一二年の産銅を見ると、約七三〇斤(四三八キログラム)の減少である。この年二月に大風水害があり、焼竃六〇口破損などの災害を受けなければ、恐らく前年より更に何程かの増産を示し、別子産銅の最高記録を上昇できたはずと、惜しまれている。これ以後の産銅額は横ばいないし漸減を呈するのであった。このような別子の盛況は住友に未曽有の繁栄をもたらし、世上に宣伝されて大坂では岩井半四郎がこれを題材に「予州銀箱白鼠」とか、「別子長者三番続」というような芝居が上演されるほどだったといわれる。
 別子銅山も元禄一二年(一六九九)には、開坑以来九年になり、坑道七か所、その坑道は次第に深くなり、鉱水の排出には二間(三・六メートル)の樋六〇挺を要する程にもなった。その経費は莫大で、今後採鉱の進行に比例して失費がかさみ、このままでは程なく稼行不能に陥るという状態に立ち至ったのである。そこで住友は銅山永続のため、この年九月東山谷より五五八メートルの大水抜を、翌閏九月より向こう六か年間に五二〇両の経費自前負担で開鑿する計画をたて、そのため稼行年季を予定の期限元禄一四年六月より更に向こう六か年間延長されたいと願い出ている。
 日本の産銅もこのころから次第に減退して、幕府が清(中国)・オランダ両国商人に約束した貿易定額八九〇万二、〇〇〇斤(五、三三八トン)の長崎回送が困難となり、別子の開発にも有力な支援の手が加えられることになる。元禄一四年の三月、幕府は銀座加役として新たに大坂に銅座を設け、同地の銅吹屋をことごとくその支配下に収めて、直接長崎回銅に当たらせることとなった。

 別子の製錬法

 別子における製錬法は酸化製錬法で、荒銅製錬までが行われた。坑口より搬出された鉑石の中より銅気のあるものを選び約三センチ立方に砕く。次いで長さ七・二~一〇・八メートル、幅一・五メートル、高さ一・二メートル程の板石で囲んだ焼竃の底に薪をしきその上に砕いた鉑石をのせ、それより交互に薪・鉑石を重ねる。鉑石一、〇〇〇貫目(三・七トン)に対し薪三〇〇~五〇〇貫目(一・一~一・九トン)の割である。約三〇日間の焙焼を経て七、八割の焼鉱を得る。さらに焼鉱は吹床に回される。ここで焼鉱を木炭の火熱で鎔解し、風を当てて硫化銅・硫化鉄を主体とする鈹を作る。この床は地上に径一・八メートル、深さ〇・九~一・二メートルの半球形の穴を掘り地床を設け、その上部に高さ一・八メートル、幅〇・九メートルの炉を築き、上に煙突をつけ、炉の背後に風通しの穴をあけ、鞴をつけて送風の装置とする。地床の周辺には火気を避けて送風するための板石でできたたたらかべを設ける。この炉中へ木炭を入れ、次に焼鉱に硅石を混ぜて入れ、鞴で火熱を高める。焼鉱の鎔解とともに硫化銅は炉底に溜り、一方焼鉱中の鉄は酸化鉄となり、硅酸と結合して硅酸鉄の溶液となる。硅酸鉄は比重が軽いため炉の上部の溝より外へ流出する。これを鍰または土ぶという。硫化銅は水をそそいで冷却させ、皮状に固まると吹大工により鉄条をもって剥ぎとられる。これを鈹という。全部剥ぎとった後に床尻銅が残る。作業員は一床に吹大工一人・手伝五である。さらにこの鈹を真吹床にかける。前同様硅石を加え木炭の火熱を与え、鞴で強風を吹き込んで硫黄分を除き、亜酸化鉄は硅酸と結びつき分離する。あとに残るのが荒銅すなわち粗銅である。真吹には吹大工一人・手伝三人がかかる。幕末の例では「銅吹一仕廻は焼鉱四八〇貫目より鈹七〇~一〇〇貫目・床尻銅一~三貫目、また真吹一仕廻は鈹一〇〇貫目より粗鋼三〇~四〇貫目、鉄数一〇~一三枚」といわれている。別于の山元で製錬された荒銅は海上を大坂に送られ、鰻谷(現大阪市南区)の住友吹所をはじめ諸吹屋において真吹し精銅とする。さらに小吹により貿易用棹銅、地売銅などを造った。また荒銅中に銀を含むものは南蛮絞りによって銀を分離採取していた。

 別子銅山の繁栄

 別子銅山の異常な繁栄は開坑以来の鉱石の豊富さに基づくことであるが、このうえに稼行に根本的な方法をとったからだといわれる。この山は鉱石の多い代わりに実に天災も多かった。ほとんど毎年もしくは隔年といってよいほど大小の風水害があり、また、宇摩郡天満村(現土居町)の舟場までの長途の難路輸送に悩まされた。元禄七年(一六九四)の火災や、同六年・八年の大風水難にもかかわらず、銅産は順調に上昇の一途をたどっている。
 元禄七年の記録を見ると、当時この銅山に住んでいた人々は銅山関係で五、〇〇〇人、このほか各種の売り物に従う者・妻子ともで約一万五、〇〇〇人ほどといわれ、その繁盛ぶりが察せられる。幕府も輸出銅の宝庫として重視していたので経営資金の貸し付け、鉱夫の食糧補給のために伊予国の天領の年貢米年々六、五〇〇石を銅山米に供給するほどの援助を行っている。
 銅山稼業人の内訳は、全般の経営事務をとる勘庭のほか、鋪方・吹方・両炭方及び浜方(新居浜方)などの役を設けた。従業員は、奉行人と稼人(働人)に大別できる。奉行人には、支配人・元締・役頭・手代・角前髪・子供がある。支配人は今の鉱業所長、元締は勘庭以下諸役所の部長で数人おり、役頭は十数人、手代は三〇~四〇人おり、それぞれ元締の下に事務を分担していた。稼人には山内従人のほか、日傭人や付近農村から農作間に木伐、炭中持などに出る者もあった。
 宝暦一二年(一七六二)の給与の例をみると、同年上半期は鉱石七万〇、一八七荷、出銅四八万三、五四〇斤(二九〇トン)余で、銅山の総経費銀七三九貫九四六匁となっている。この中で直接の採鉱・選鉱・製錬関係の稼人の賃銀表と日傭賃銀表がある(表工1-3・4)。賃銀の基準となるのは、吹一枚の作業量である。四~五吹を本前とよんで一人前賃銀の単位となる。増一吹には大工・手子とも一吹分の増給がある。鈹四~五〇貫目を間吹するのが本前である。増吹鈹は一〇貫目で、本前賃の五割も増与したこともあったという。鉑吹・間吹ともに、大工・手子いずれも本前(一仕舞)に対し、一日分の米などの扶持を与えたのである。

 立川銅山の併合

 別子越の分水嶺は藩境で、北側は西条藩松平氏の所領で新居郡立川山村(現新居浜市)、南側が天領の宇摩郡別子山村であった。立川山村にあった立川銅山は「寛永間符」という坑口の名が残っているように別子銅山より五〇~六〇年も前から本格的に掘られていた。ところが、この立川銅山と別子銅山は鉱床はひと続きであった。ただその底部は立川銅山側に浅く、四五度の傾斜で分水嶺の下部をかすめて南に落ちているので、鉱床の大部分は別子銅山側にあった。産銅成績も立川側が不利で、別子に対する反感が強くて、元禄七年(一六九四)四月二五日に別子に発生した大火災のとき、立川側に火の手が及ぶのを防ぐため「向かい火」と称して付近一帯に火をつけたため逃げ場を失い、多数の焼死者が出たりした。
 元禄八年四月二五日のこと、分水嶺に近い立川の大黒間符から掘り進んできた坑夫と、別子の大和間符から掘ってきた坑夫とが偶然にも坑道を抜き合って両銅山の激しい境界争いが起こった。このようなときは、その地点の真上と想定される地表が立川山村か別子山村かで決定されるのが慣例だったが、実はその村境が明瞭でなかった。そのために西条藩と天領との領分争いに発展し、幕府の評定所が乗り出して実地検分が行われるなど三年越しの大裁判となった。結局別子側の主張が通り、立川銅山側が一七〇メートルほど掘り越していたことが明らかになり、立川山村の庄屋・銅山師らは江戸の牢屋に二か年監禁され、境界には検使役が登山して杭を打ち、解決したのであった。
 元禄一五年一月に大坂の住友吉左衛門は勘定奉行荻原重秀の鉱業振興に関する諮問に応ずるため江戸に上り、この機に別子が抱えている諸問題を幕府のお声掛りで一挙に解決することができた。新居浜浦への輸送路を西条藩に幕府から話をつけてもらうこと、銅山永代請負を認可してもらうことなどである。幕府の口ききによって西条藩の許可が得られると住友は早速新道開設に着手し、同年八月には立川山村渡瀬へ下り新居浜浦に出る約一八キロメートルの道が開通した。宿願であった銅山米の荷上げや、大坂への銅の船積みも便利になった。
 しかし、問題は十分には解決していなかった。新道筋は西条領であり、立川銅山は他の銅山師の請負である。住友は早くから別子・立川の一手稼ぎを考えていた。そのためには立川銅山も天領とすることが望ましかった。幕府も銅山を天領下におくことは願いであり、宝永元年(一七〇四)西条藩に交渉して新居郡立川山・東角野・西角野・大永山・種子川・新須賀村の六か村を天領とし、宇摩郡蕪崎・小林・長田・西寒川・東寒川・中之庄・上分・金川村の八か村の天領との替地を行った。
 延享四年(一七四七)に大坂屋久左衛門(立川銅山の請負人)より立川銅山の引き受けを懇請された。これは大坂屋が他の事業に大きな損失を出し、当時赤字経営の立川銅山を維持し得なくなったためである。住友も大坂屋の事情をくんで、ともに松山藩に願い出て、幕府へ願書を提出する段階にこぎつけたとき、西条領の新居郡数か村から反対が起こった。住友の一手稼ぎになると両銅山の鉱水が国領川に溢れ出て、沿岸の田畑に大きな損害を与える恐れがあるというのである。住友側としてはこの時点では立川を合併することはあまり乗り気ではなかったが、同業者のよしみもあり、せめて燃料と製錬を共同にすることにより採算が立つこと、今一つは隣山を筋のわからぬ者に請負われ稼行の妨げになっても困るなどの理由から、引き継ぎを承諾することにした。ところが大坂屋の懸命の奔走で、地元村民の了解もつき、ようやく認可が下りたと思う間もなく、またまた江戸銀座年寄が異議を申し立て、奉行と結託して一旦下りた認可を差し留めてまで実地調査することになった。しかし、調査の結果やはり大坂屋の主張の通り、立川の独立経営は不可能で、住友の一手稼ぎによってのみ辛うじて維持し得ることが判明した。それでも奉行は体面に拘泥し、幕府領銅山二つを同一人の請負にすることに難色を示したので、江戸浅草店の手代美坂杢兵衛を請負人とすることで、寛延二年(一七四九)にやっと認可された。その後請負人、杢兵衛が死亡し、奉行所の役人も入れ替わってしまった宝暦一二年(一七六二)に至り、別子・立川双方より願いが出て、名実共に両山一手稼ぎということになったのである。
 このような複雑な経緯と高価な犠牲のもとに漸く手に入れたのであるが、結果は直ちに生産増加にはつながらず、経費の減少というくらいであった。地表に近い黄銅鉱を掘りつくし、次の富鉱帯に達するには含有率の少ない、堅い鉱床があって掘進を妨げるのと、坑道が深くなるにつれて地下水の湧出が多くなるので、山の衰兆が現れるのであった。別子は明治年代に入って洋式採鉱法をとるまで、ずっと漸減の一途をたどるのである。この立川併合は、将来への影響という面から見れば、水抜きが自由にできるようになった点であり、明治以後の大発展の基礎が築かれたことが最も重要なことであった。

表工1-1 別子産銅額の変遷

表工1-1 別子産銅額の変遷


図工1-1 別子における荒銅(粗銅)製錬の過程

図工1-1 別子における荒銅(粗銅)製錬の過程


表工1-2 別子銅山稼人(労働者)内訳表

表工1-2 別子銅山稼人(労働者)内訳表


表工1-3 別子銅山稼人給銀表

表工1-3 別子銅山稼人給銀表


表工1-4 別子銅山日傭賃銀表

表工1-4 別子銅山日傭賃銀表