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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

三 菊間瓦の発達

 御用瓦

 明治四年(一八七一)廃藩置県により、従来の藩の保護が解かれ株制限もなくなった。明治六年以来新規の営業者が続出した。自ら新株と称し旧来からの株業者に対抗し、互いに反目し需要の均衡を失って商況の不振を招いた。明治一四年には業者数四三軒に増加した。販路も東京方面にまで拡大している。
 皇居御造営の趣を聞いた旧藩主久松定謨は、菊間瓦を宮内省に紹介した。愛媛県令関新平も明治一六年(一八八三)五月御造営御用御下命を宮内大臣に申請した。見本として六四平瓦三枚、唐草瓦一枚を桐の箱に納めて越智安蔵が上京している。幸いに特選の栄をうけ、第一期三万枚(単価一枚一〇銭)、第二期明治一七年六月六万枚、同一二月六万枚、第三期同一八年五万枚、計二二万枚を納入することになった。この御下命請負者は越智安蔵・津田寅蔵・越智作蔵・安永幸五郎の五名であった。御用瓦の製造は、四二名が関係している。請負業者をはじめ製造に従事する人々は利害を超越して一意専心無上の光栄と仕事に励んだという。
 明治一九年一二月一八日付で宮内省より、「皇居御造営ニ付鬼瓦壱対、献納候段奇特之至候依テ為其賞木盃壱個下賜候事」の賞状と木盃を下賜された。

 同業組合

 文政二年(一八一九)全文一五条の株仲間規約をつくり業者の結束を固めていたが、明治四年藩庁の保護も止まった。明治一〇年(一八七七)までに一三軒の新規営業が生まれ、自ら新株と称し、旧株二七軒に対抗して互いに反目するようになった。そのため専ら価格の低廉さを競い、粗製濫造となり商況は不振に陥った。さらに明治二七年(一八九四)一二月その範囲を拡大し組合区域を越智郡波方村(現波方町)より温泉郡三津浜町(現松山市)に至る沿岸一帯になり伊予製瓦組合となった。翌二八年一月よりこの組合が決議した事項は第一に瓦販売上破損予備として瓦一〇〇個に対し三個の数え込みであったのが廃止され、第二に本部の役員は経済界の趨勢を観察し協議会を開き、臨機の処置ができることになった。製造品の価格・原料の買入評価・職工仕渡賃を定めた。常に不均一な行為がないように申し合わせている。
 明治三六年日露開戦の兆しにそなえ、役員は決議第二項に基づき製瓦者一軒一か月間の売捌き数三、〇〇〇枚を超さないことを決議し、翌三七年には更に二、〇〇〇枚とすることを定め、組合員に通知し、実行させていた。これらの処置は産業上の利益は別として、組合員各自が安全に製造を続けることができだした。だが、次第に疎遠となり、組合は有名無実に近い存在となった。菊間支部においては、その後も結束がはかられていた。

 生産の仕組み

 瓦の原料である粘土は藩政時代既に地元で自給できず、野間郡の波方・森上・馬刀潟村(現波方町)、更には大三島の野々江村(現大三島町)より運んでいた。明治初期は風早郡和田・磯河内村(現北条市)、和気郡興居島村(現松山市)から移入していた。明治一六年の皇居造営の御用瓦は大洲・郡中・興居島の三種の粘土を混合して焼成した。明治後期には広島県久比及び大崎、吉名土が讃岐土とともに使用されている。風早郡小川産(現北条市)を上等とし、興居島産がこれに次ぎ、波方産を下等としたといわれる。地元産の粘土も価格低廉のため多く使用されていたと『歌仙村郷土誌』に記されている。
 燃料は松材の大束及び松葉がよく使われた。薪材の調達は専ら農閑期の副業であって、馬による運搬が多かったようである。藩政時代には浜村に松葉問屋があって移入を扱っていた。明治三〇年代には中島、広島県の三津・倉橋島・御手洗島より盛んに移入した記録がある。松葉は明治時代一窯に一三〇杷程度も使用されたという。
 製造工程は手工業であった。粘土から瓦になるまでの所要日数は大略次のとおりである。
 明治元年(一八六八)以来の製造戸数及び生産枚数をみると、二七軒、二〇〇万枚、同二〇年六五戸、五〇〇万枚と倍増し、同四〇年七〇戸、六五〇万枚、大正六年(一九一二)七五戸、七〇〇万枚と漸増をたどっている。この間の大

土練、荒地取(一日) →荒地乾燥(七日)→成型(二日)→磨き(三日)→白地乾燥(二日)→窯焼成(一日)→選別荷造→合計一五日
 
口出荷先として、明治元年、広島浅野藩主御用・約一〇万枚、同六年広島鎮台御用・約二一万枚、同八年小倉分営及び丸亀分営御用・約一〇万枚、同一一年松山兵営御用・約一三万枚、同一五年(一八八二)佐世保鎮守御用・二八万枚などがある。なかでも有名なのは明治一七年に皇居御用瓦を納めたことで、海路品川港へ運ぶのに三〇~四〇日を要したといわれ、二二万枚を納めている。さらに、明治三八年(一九〇五)宇品被服廠御用・一〇六万枚、韓国鎮南浦・二〇万枚、四阪島住友行・二五万枚、同四〇年福山兵営衛戌病院御用・一〇七万など大量の出荷をしている。
 『愛媛県統計書』によると、明治三七年の愛媛県下の瓦製造状況は四一八戸、一、七四六万枚、一九万二、八五四円であった。大正三年五四〇戸、二、九七六万枚、四三万六、五五七円であり、製造戸数で一二二戸、生産枚数一、二三〇万枚、金額にして二四万三、七〇三円の増である。製造戸数では大正元年がピークで、生産枚数は翌二年、金額では明治四四年(一九一一)と多少ずれがみられる。第一次大戦の影響で県下の瓦製造業界にも変化をきたしている。

表工2-4 菊間瓦の営業数と年産額

表工2-4 菊間瓦の営業数と年産額


表工2-5 愛媛の瓦工場の累年比較

表工2-5 愛媛の瓦工場の累年比較