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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 別子銅山

 大別子の危機

 別子銅山は長年にわたる近世鉱山技術による乱掘のために荒廃しきっていた。幕末の慶応三年(一八六七)にはわずかに五八万斤(四一六トン)にまで落ち込んでしまい、ピーク時の三割にも満たなくなっていたのである。加うるに明治維新の激動が住友家の経営を根底から揺り動かすこととなった。
 明治元年(一八六八)一月、明治新政府は、大阪にあった幕府銅座を封鎖するとともに、薩摩藩に命じて住友の銅蔵・本家銅吹所(鰻谷)を封鎖させ、さらに土佐藩に命じて別子銅山を接収した。こうして別子銅山の請負稼行を差しとめられた住友は、家業の存亡にかかわることとして、支配人広瀬宰平を中心に、家業の再開を求めて必死の嘆願を続けた。
 その結果、明治元年閏四月、政府は住友に対し、土佐藩管理のもとに銅山の請負稼行の再開と伊予四郡(宇摩・新居・周布・桑村)の買受米の継続支給を認め、政府管理のもとに大阪鰻谷の銅吹所の再開を認可することになり、住友家の危機は去った。

 別子の再生

 明治二年二月、政府は、封建体制下の制約を取り除き、鉱山開発を一般私人に解放する画期的な布告を発し、鉱業権と鉱業自由の原則を宣言した。続いて、製錬と国内における銅売買・銅輸出の自由が認められた。明治四年の廃藩置県により、別子銅山は土佐藩の管理をとかれた。翌五年三月、政府は『鉱山心得』を頌布し、鉱山は「悉ク政府ヨリノ請負稼」であると布告したので、住友は、別子・立川銅山の請負稼行を出願し許可を得た。さらに明治六年七月、「日本坑法」を頌布して従来の鉱業人に対する再出願を命じたので、住友は両銅山の借区開坑を出願し、請負稼行を認められた。
 広瀬宰平は、別子銅山が接収の危機を脱すると、いよいよ別子の再生に取りかかった。明治二年一月、「諸事更新」の方針を発表し、実施した。経費の節減を主眼とし、経営の近代化・効率化をはかり、社会情勢の新しい変化に対応しようとしたのである。明治五年に「別子銅山改革法」が発表せられ、給与制度・身分制度に関して細かく改革がなされた。次いで翌六年一月に「勤務規則」、三月には「別子銅山慣行改革」「雇員以下罰金法則」「金銭貸借心得」「雇員等級制」及び「雇員月給制」が相次いで制定された。就業制度や服務規律を厳格にし、身分的経営秩序を時代の流れに合わせて再編、確立し、明治初年における合理化の総仕上げを行ったのである。

 近代化案の推進

 明治五年(一八七二)に洋式機械設備と外人技師雇用を政府へ出願して許可され、同七年にフランスのリリエンタール会社から鉱山技師ルイ・ラロックを招いて、施設近代化の基本計画(東延斜坑の開鑿・洋式製錬所の建設などの「別子銅山目論見書」)を立案し、同九年に塩野門之助と増田好蔵の二名を、採鉱冶金学研究のため、フランスに派遣した。東延斜坑の開鑿と別子・立川間車道の新設に着手し、同一二年に東延斜坑口の高橋へ大鎔鉱炉を建設して洋式製錬の開始をした。
 次いで、明治一三年に別子・立川間車道が完成して、別子と新居浜惣開洋式製錬所建設予定地とを結ぶ幹線道路が敷設され、引き続き建設に着手した惣開製錬所が同一七年に完成し、同二一年には山根製錬所も設けられた。さらに明治二一年(一八八八)には惣開鎔鉱所に工作方(住友機械株式会社の前身)を設けて鉱山用機械の製造を開始し、同二三年に至って旧来の和式製錬(立川)を廃止した。
 採鉱の基本となる東延斜坑(深さ五二〇メートル、斜度四九度)は開鑿に蒸気巻揚機を使用すれば八か年半で完成する計画であったが、最初は人力によったため進捗が遅れ、惣開洋式製錬の開始と斜坑の開鑿完了の時期を一致させることができなかった。しかし、明治二三年に蒸気巻揚機が導入されてから、本格的に作業が進んで、同二八年一月に完成をみた。
 東延斜坑に次いで着手した第一通洞の開鑿は、明治一五年に始まり、同一九年に完成した。別子山を南北に貫通する大通洞が、別子・立川間車道と連結して、別子と新居浜惣開製錬所とを直結する鉱石運輸の動脈が整備された。採鉱には明治一七年以後ダイナマイトの使用が始まり、採鉱高は飛躍的に上昇した。
 こうして、ラロック案に基づく別子近代化事業は、明治二三年の和式製錬の廃止、蒸気巻揚機の導入をもって、一応その基礎的態勢を完了したといえる。この年の産銅額が三〇〇万斤(二、〇二六トン)の大台を超え、明治初年の産額七〇万斤(四二二トン)の四倍以上に達している。これは産業革命による生産の飛躍と利潤の増加がいかに大きなものであるかを物語るものである。この年、別子開坑二〇〇年記念祭典が行われ、住友家が国恩に報いるために奉献を計画した大楠公の銅像は、産業革命の完遂を記念するものとなった。

 別子銅山の発展

 明治二三年(一八九〇)産銅額三〇〇万斤(二、〇二六トン)、同二八年四〇〇万斤(二、五四八トン)に達した。以来一〇年毎に倍増して明治四二年(一九〇九)には一、〇〇〇万斤(六、二三四トン)を突破してしまった。この異状な産銅額は全く新鉱法を導入した結果によるものであった。旧式鉱法では不可能とされた三角坑以下大座本の富鉱帯をあますところなく開発したからである。
 明治三〇年ごろは東延時代と謳歌されるほど東延の事業場は繁栄した。実に別子の山中はわが国屈指の銅山町となった。
 ところが、さしも極盛をうたった別子の町も、明治三二年八月二八日突如襲った空前の大暴風雨に伴う大洪水・山潮の禍をうけ、人家も施設も一夜に倒壊あるいは押し流されてしまった。全山流失家屋一一〇戸、死者五〇〇人に及んだ。この復旧対策について住友は別子銅山の将来の事業場は嶺北におくこととし、嶺南に建設された別子の諸施設を漸次立川方面に移転することを決めて、別子の再興は断念された。
 明治二三年以後の近代化の流れを述べることにする。明治二六年、惣開~端出場間(下部線)一〇・四キロメートル、次いで角石原~石ヶ山丈間(上部)五・五キロメートルを開通させた。これで牛車道は廃止されて鉱山鉄道が代替わりした。なお、両鉄道の間にある端出場~石ヶ山丈間は、斜距離一、五八六メートル、標高差六六四メートルの複式空架索道により連結した。こうして別子の地上運搬機関が全面的に整備されたのである。明治二九年煙害間題を解決するため四阪島製錬所建設に着手し、同三八年(一九〇五)操業を開始している。
 明治九年(一八七六)に着工した東延斜坑は約二〇年の歳月をかけて、同二八年に完成した。これにより別子の出鉱体制の確立をもたらした。第三通洞は明治二七年に着手し、同三五年に開通している。
 ついに東平から東延斜坑道に達する全長一、八一八メートルの大通洞が貫通し、束延~東平間が直結することとなった。明治三八年には電車運搬を開始した。電灯用として明治三一年火力発電に着手、同三七年から水力発電による電気動力の普及が進んだ。明治三八年東平~黒石間の長距離索道も完成し、別子の運搬体系は再び著しい革新をみたのである。また、明治三五年東平に選鉱所が建設され、第三通洞の開通は、嶺南東延時代の終幕であり、嶺北東平時代の到来であった。

新居浜より四阪島へ

 新居浜の惣開には明治一六年(一八八三)洋式製錬所を設けて以来、同二二年新居浜分店、立川分店製銅場が移転統合した。明治三二年の別子大水害により、別子製錬所もこの地に移されることとなった。熔鉱炉五座・生鈹焼炉四〇床・焼鍍鎔解炉一座、粗銅熔解反射炉三座・稠密鈹熔解反射炉三座を有する大製錬所の所在地に発展していた。
 鉱業地区化した新居浜も、別子の製錬作業をここに統合する以前、さらに海上約四キロメートル仲合の四阪島へその全部を移転すべき運命に迫られていた。その原因は煙害事件の発生であり、最初は明治二六年九月と記録されている。藩政時代から鉱毒水が吉野川・国領川の流域に被害を及ぼしていたが、亜硫酸ガスによる煙害は従来あまり問題にならなかったことである。明治二七年五月にも麦の不作が表面化した。関係農民との紛糾を納めるには、製錬所を陸地より引き離す以外に無いと決断されるに至ったのである。
 明治二八年一一月、四阪島を買収、翌二九年九月二五日製錬所建設につき農商務大臣に申請し、同一二月二五日認可されるや、ただちに建設に着手した。しかし、大事業のため、再検討案が出され、一時中断するも、明治三五年(一九〇二)末ついに移転断行、工事続開が再決定された。いよいよ明治三八年一月、全部の竣成を見た。新居浜製錬所はじめ、別子・角石原の焼鉱作業の総てを挙げて四阪島に集中することとなった。元禄(一六八八~一七〇四)以来の別子の銅鉱業は、山上より新居浜へ、さらに新居浜より四阪島への移転を完丁したのである。新製錬所の建設には八〇万円を要したという。当時の一か年の銅山収入は約一〇〇万円であった。新製錬所の設備は、焼鉱鍋七、熔鉱炉七、焼鈹窯二二、錬銅炉四、精銅炉二、ベルトコンベア一、○四三尺(約三一三メートル)などである。
 だが、この大英断と多額の最新設備をしても煙害を絶つことはできず、東予四郡(宇摩・新居・周桑・越智)一帯に拡大してしまうのである。

 鉱夫の生活

 別子鉱山で働く労働者は、坑内で採鉱に従事する鉱夫(坑夫・負夫)と坑外で選鉱・製錬その他の作業に従事する者とに分けられる。その内鉱夫は、住友が直接雇用する労働者ではなく、会社(住友)から採鉱を請け負っている請負者(飯場頭)が雇って入坑させる労働者であった。一〇人内外の手組という小集団をつくり、組ごとに採掘・搬出を行っていたのである。ここでは、鉱夫は請負者に従属する親分子分の関係にあり、独身者は飯場で合宿生活をしていた。会社(住友)は、直接鉱夫に賃金を支払うのではなく、請負者に、毎月一か月の実績を調査し、それに応じて請負賃金の総額を支払っていた。請負者は、これを入坑者員数に頭割りして各鉱夫に支給していたが、請負者は自分の取り分をハネルばかりでなく、架空の鉱夫名簿(幽霊人口)を作って入坑者人員の水増しをして会社側に支払単価を引き上げさせるとともに、鉱夫の手取り賃金をもピンハネするような状態であった。
 このような請負制の悪弊を改革しようとする会社側の方針と、これに反対する請負者、鉱夫の賃上げ要求とが互いにからまり合って、明治三八年(一九〇五)以降紛争が繰り返されることとなった。明治三九年九月、「飯場取締規定」を発表するも、鉱夫の生活は苦しくなるばかりであった。
 明治四〇年五月三〇目、負夫代表山田豊次郎らの賃金改善要求に応じなかったため、六月四日採鉱課事務所をダイナマイトで爆破するなどの大争議へと発展した。どれに対し、会社側は、軍隊の出動を要請するに及んだ。
 この事件のあと、住友では、労働者教育に全力を傾け、自彊舎を創立して、別子銅山の労働者に労資協調の精神教育を行う道場とした。自彊舎は、戊申詔書の「自彊やまざるべし」からきた名称であるという。

図工2-2 別子銅山概略図

図工2-2 別子銅山概略図


図工2-3 別子銅山坑内断面図

図工2-3 別子銅山坑内断面図


図工2-4 別子産銅の製錬順序

図工2-4 別子産銅の製錬順序