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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

三 紡績業の発展

 紡績業の盛衰

 全国的に紡績業は、産業革命の花形としての地位を占めるが、本県においては、綿織物・製糸業に次ぐ産業で、あまり重要な役割を果たしたとはいえない。明治一三年(一八八〇)に西宇和郡宮内村(現保内町)の都築温太郎、温泉郡の本郷重清、同一六年に今治の有田正平らが政府に紡績機械の払い下げを出願したが、許可されなかった。
 明治二〇年一一月西宇和郡川之石村(現保内町)の兵頭昌隆ら九名により宇和紡績が創立された。明治二五年一二月温泉郡朝美村(現松山市)に松山紡績株式会社、同二七年一月(『今治市誌』には明治二六年一二月とある)今治に伊予紡績株式会社、同二九年一二月西宇和郡八幡浜町に八幡浜紡績株式会社が続いて設立された。愛媛県下で四工場となった。明治三五年(一九〇二)には営業成績不振のため、宇和紡績と伊予紡績が解散して二社に減じ、松山紡績もまた同年下半期には、九、四七八円余の欠損を出している。地方の中小紡績が大紡績資本に圧倒されて発展が困難であったと見ることができる。
 伊予紡績は資本金二〇万円、錘数四、〇〇〇であったが、技術幼稚にして業績振るわず、明治三六年一二月大阪の福島紡績に買収され、福島紡績今治支店となった。この年、八幡浜紡績も解散し、大阪の渋谷合名会社に買収されて同社八幡浜紡績所となっている。
 日露戦争になると、県下の紡績業は好況に向かった。松山紡績の例でみると、明治三八年上半期に、純利益五万円余、配当二万円(二割)も出している、これに刺激されて、同年五月に元宇和紡績会社の事業を受けて、白石紡績所が設立され、県下の紡績業は四工場に復したのである。同社は、明治四〇年四月大阪紡績株式会社に買収され、大阪紡績川之石工場となった。さらに、大正三年(一九一四)大阪紡績と三重紡績が合併して東洋紡績となったため、東洋紡績川之石工場と改称された。
 また、明治三九年一二月渋谷合名会社八幡浜紡績所を引き継ぎ愛媛紡績八幡浜支店が設立され、本社は大阪府下東成郡鯰江村(現大阪市)に置かれた。
 明治四〇年三月、松山紡績は職工不足で、高知・九州方面にまで募集員を派遣し、三、〇〇〇錘増錘計画に伴う寄宿舎設備の改善をはかっている。この年一一月、大阪合同紡績が、伊予水力電気の電力供給能力の増強をまって、松山に分工場を設置する計画もあった。
 紡績業の好況は、松山紡績以外の紡績会社を大阪の紡績資本が買収して経営させるに至った。
 なお、大正二年宇摩郡三島町に三島紡織株式会社の設立があった。

表工2-11 愛媛県内紡績工場概況一覧(明治35年~40年)

表工2-11 愛媛県内紡績工場概況一覧(明治35年~40年)