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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

五 和紙の手漉から機械漉へ

 伊予和紙の盛衰

 宇和島・大洲両地方の製紙業は藩庁の保護政策により盛大になっていた。廃藩置県により保護がなくなり、業界の打撃甚だしく、急激に衰退していった。大洲半紙は明治維新後商業べースに乗せられ、粗製の弊に陥り、藩政当時の名声を失墜させてしまったという。明治時代に入って両地方共に多くの先覚者が、退勢挽回に努め、明治四〇年(一九〇七)大洲産紙改良同業組合、同四二年三月宇和紙同業組合を組織すれども、漸次衰退への途をたどるのであった。
 多年保護奨励の温床に育った両地方が、維新以後の新しい社会経済機構の出現とともに時代に取り残されたのに反し、宇摩郡抄造界は藩庁の保護を受けなかったことが、却って業者の自主独立心と研究努力心を培い、その後順調な発展をみるのである。
 宇摩地方では、明治初年に農山村の副業から、多数の専業者を生み、家内工業ではあるが、それぞれ工場を自営するまでになった。慶応三年(一八六七)京阪への売り出しに成功し、明治四年(一八七一)には製品二、〇〇〇梱、価額二万円を県外に移出するまでになり、地元生産の原料では足りず、徳島・高知・中国地方より移入するほどになった。

 宇摩和紙の発展

 薦田篤平・石川高雄・住治平など先覚者の指導誘致に当業者もよく協力し、明治五、六年ごろ一枚漉、二枚漉の器具を四枚漉に改め、座業装置を立ち仕事装置にするなど、諸器具を改良したため生産能率は向上した。明治四年の年産四万円が、同八年には一〇万円に達した。さらに、明治一二~一三年(一八七九~八〇)ごろには四枚漉装置を八枚漉に改め、製品の寸法の統一、荷造包装を改良して商品性を高めている。高知より浜田林吾・吉井源太などの技術者を招き、あるいは岐阜・福井より熟練工を迎えるなど、先進地の技術を習得するのに努めている。明治一七年ごろ製紙原料として新たに三椏を利用する途が伝えられた。これは宇摩郡製紙業界に新分野を開拓することとなった。三椏の利用は、強靭にして光沢のある極めて薄手の良質紙を抄造することが可能になったからである。
 明治文化の進展と共に紙の需要は増加したため、西洋紙の侵害にも耐え、着実な歩みを続け、明治末期に至った。この間の和紙産額は、明治一七、八年ごろ三〇万円、同二七、八年(一八九四~五)ごろ五〇万円、同三五年七〇万円、同四〇年には遂に一〇〇万円を突破するに至るのである。

 宇摩和紙の変革

 和紙の需要は、価格の安い西洋紙の輸入に圧倒されて減退し、わが国の和紙産額は明治三六年(一九〇三)に低落の極に達している。そのため、明治三〇年代後半から同四〇年代にかけて、西洋紙に対抗してコストダウンと紙質の改善をはかるために、生産機械化の機運が高まってきた。
 明治三八年、電力業界の鬼才といわれた才賀藤吉が、機械製紙を計画して伊予製紙会社の設立をはかったが実現せず、同年周桑郡中川村(現丹原町)に県下初の蒸気機関による三好製紙工場が誕生した。翌三九年、宇摩郡川之江町(現川之江市)の篠原朔太郎は、印刷局抄紙部に学んだ経験から、和紙の原料叩解にビーター(叩解機)を導入して、本県製紙業における産業革命の第一歩を踏み出したのである。同じく、この年、川之江の森実吉次が東予製紙原質抄造工場を設立、三島の今村文八の製紙原料叩解工場も蒸気機関を設備し、これに続いた。
 明治四〇年篠原朔太郎は、ビーターの動力用蒸気機関から生ずる廃蒸気を利用して回転式三角乾燥器を発明し、晴雨にかかわらず紙の乾燥ができるようになり、紙質の改良・生産の効率に多大の貢献をした。この年、宇摩郡妻鳥村(現川之江市)の近藤又太郎も近藤式蒸気乾燥器を発明している。
 明治四一年(一九〇八)には、宇摩郡製紙業者の合資で郡内一〇か所にビーター叩解工場が設けられ、業者は原料叩解をすべてビーター工場に委託し、手打ちする業者はなくなったという。手打ちでは男二人が一四時間かかる叩解作業が、叩解機を利用すれば三〇分で完了した。叩解機の導入によって、叩解量は増え、生産コストは低下した。節約された労力は抄紙に向けられて生産高は上がった。三椏・楮以外の雑物の混合も可能となって、和紙の特色を生かしながら、市場で西洋紙に対抗することができるようになったといわれる。
 明治四二年には、篠原朔太郎が廃蒸気を利用する和紙原料蒸煮開放釜を発明し、漸次この地方に普及していくのであった。
 抄紙の一部機械化は明治末期であり、全工程を機械化したのは大正二年(一九一三)で、宇摩製紙株式会社が初めてスウェーデン型長網機を設備した。また、同年宇摩郡松柏村(現伊予三島市)の森実棟太郎は水引及び元結の原紙抄造のため、小幅の製紙機械を導入している。近代的製紙工業は、ここにその緒を切ったのであった。
 機械製紙業界では、手漉製紙業界の個人企業に対して、結社企業が登場してきた。さらに、大資本の必要から株式会社組織の結成をも促進するのであった。
 原材料としては木材パルプ・晒粉の利用が盛んとなった。和紙原料に木材パルプを使い始めたのは明治三〇年ごろであったが、当時はパルプは高価で、採算がとれにくかったという。明治末期になり、その価格が低下し、機械製紙の導入と相まって、その利用が急増した。パルプの利用と共に晒粉の応用により、在来の茶褐色の紙から、純白の紙に改められ、品質の向上が一段と進んだのである。
 同業組合の設立も進められ、薦田篤平らの主唱により伊予紙同業組合が組織されたのは明治三九年であった。同四一年に準則組合より重要物産同業組合法による組合に改組された。業者の間の統制と改善指導に乗り出したことは大きな進歩である。
 明治末期から大正時代にかけて業界は多くの変革と発展を見た。産額も急増し、明治四四年には一七〇万円に達した。ここに和紙業における産業革命は一応の完成時代を迎えるのであった。
 大正二年(一九一三)の郡別和紙産額をみると、宇摩郡で製造戸数七六一戸、生産額一五八万六、〇〇〇円と順調な伸びを示している。これに反して、喜多郡は一、四八四戸、一七万一、〇〇〇円、東宇和郡の二、六一七戸、二四万一、〇〇〇円と衰退の一途をたどっている。生産額で、温泉郡の四四万三、〇〇〇円、新居郡の二三万一、〇〇〇円にも及ばなくなっている。これは製造戸数の多さに比して、生産額の少なさは、機械製紙の導入、産業革命の進展が、喜多郡の大洲半紙、東宇和郡の仙貨紙にまで、波及しなかったことを意味している。

図工2-5 和紙抄造工程図

図工2-5 和紙抄造工程図


表工2-13 愛媛県紙製造戸数と産額

表工2-13 愛媛県紙製造戸数と産額


表工2-14 愛媛県の郡別和紙産額の累年統計

表工2-14 愛媛県の郡別和紙産額の累年統計