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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

5 農機具製造

 愛媛県の農機具

 戦前の水田農業は、鋤に牛馬を使うほかは、鍬・鎌・雁爪、さらには素手と、全く人手に頼る作業であった。特に田の草取りは、カンカン照りの中を腰をかがめて一夏に三番までやらなければならなかったので最大の重労働であった。水田耕作で最初に省力化の工夫がなされたのは、水田を転車でかき回して草を抜く除草機の発明であった。大正の中ごろには、松山市唐人町の大野商店(後の大野農具製作所)で水田中耕除草機が製造販売されていた。井関邦三郎は除草機の製造から身を起こすのであるが、大野式除草機に惚れこんだ彼が、北宇和郡三間村(現三間町)から松山まで出かけて大野商店に住みこんで製造技術を習得したのである。
 一方、伊予郡余戸村(現松山市)の関谷農具工場が、大正の初めに籾すり機の製造を始めた。当初のものは、上下二つの土臼を発動機で回転させてすり合わせ、そのすき間に籾を通して籾殼をすりむくという単純な仕組みであった。だから玄米の表皮にすり傷がつきやすいという欠点があった。関谷農具工場では、昭和七年に動力脱穀機の改良に成功し、昭和九年には自動脱穀機を製作発売した。
 昭和一一年(一九三六)末の愛媛県商工課の主要工場名簿には、農機具工場として左の七工場が記載され、そのうち五工場が松山市に集まっている。
 関谷農具工場     松山市南江戸町三二二番地
 大野農具製作所    松山市唐人町一丁目四五番地
 宮内鉄工所      松山市大手町二丁目一一番地
 大野農具製作所    松山市河原町一一番地
 株式会社井関製作所  松山市湊町六丁目一三番地
 安野農具製作所    越智郡小西村大字別府
 岩本鉄工所      新居郡西条町大字大町八三〇番地

 井関農具商会の発足

 松山市新玉町に井関農具商会が創設されたのは、大正一五年(一九二六)八月である。井関邦三郎は、大正一三年ごろから大野式除草機の製造販売権を得て、故郷の北宇和郡三間村(現三間町)に家内工場を設けて除草機の製販を始めていた。愛媛県内では大野商店と競合するため、彼は米どころの熊本に目をつけ、農機具卸商の与縄商会を通じて九州方面に販路を広げることに成功した。
 その熊本出張中に井関邦三郎は岩田式籾はぎ機を共進会で見てその商品としての優秀性を確信するに至った。それは、回転軸の遠心力を利用して円錘状のゴム盤に籾がたたきつけられる仕組みになっており、従来の土臼に比べて効率がよく、乾燥不良の籾でも脱ぷできるというものであった。籾すり機といわずに籾はぎ機と称したのも玄米を損傷せずに脱ぷできるという触れ込みであった。
 邦三郎は、岩田式籾はぎ機のセールス中、幸運にも、高知県立農事試験場の山岡技師の推奨により、高知県後免で製作されている山本式自動選別機を知り、発明者の山本松次からその製造販売権を手に入れることができた。選別機というのは、風を吹き込んで玄米と籾殼とを選り分ける装置であるが、山本式は直接風を吹きつけるのではなく、吹回し式にして風圧が平均するように調節されていたので調子がよく、市場でも好評であった。岩田式籾はぎ機の仕上げ工程に山本式選別機を組み合わせることにより、予想以上の効果を挙げることができ、ここに全自動籾すり機の第一号機が誕生した。
 当初の工場は旋盤二台、ボール盤二台、グラインダー一台という小規模のものであったが、選別機の売れ行きが好調で年産一五〇台に及んだので、一両年で除草機の製造は中止し、井関農具商会では選別機の製造を専業とするようになった。

 ヰセキ式自動送込脱穀機

 昭和六年(一九三一)六月、工場を松山市湊町六丁目に移し、資本金五〇万円の株式会社井関製作所が設立された。このころになると籾すり機も、大阪の瑞光社が砕米を防ぐために開発したゴムロール式のものが普及してきたから、岩田式では太刀打ちできなくなってきた。新工場で最初に手がけた第一号機は、大阪の吉田商工部製のゴムロール式脱穀機と吉田式エンジンに山本式選別機を組み合わせたものであった。昭和八年三月、井関製作所は吉田商工部と合併して、東洋農機合名会社を設立し、大手町に籾すり機製造工場と鋳造工場とを新設した。
 昭和一一年三月、吉田商工部との資本提携を清算して、再び独立の井関農機株式会社に戻り、これらの工場と製造技術とは井関側が継承するところとなった。当時、全国の三大農機具メーカーは、香川の野田興農・大阪の瑞光社・岡山の佐藤農具の三社で、井関農機はまだ無名であった。その井関の名声を一躍不動のものにしたのは、昭和一三年三月に発売した同社独創のヰセキ式自動送込脱穀機である。
 いうまでもなく、脱穀機は稲または麦の茎から穀粒を分離する機械で、戦時の労働力不足の中で省力化の要請にも応えるものであった。従来の脱穀機の難点は、人手によって稲の穂先から加減をしながら扱口ヘさし入れなければならなかったという点である。人の労力と神経とを使わなくても扱束が具合よく送りこまれるように、束をはさみつける板と送り込みチェーンを組み込んだ自動送込装置が開発された。同業の松山市の関谷農機でも、送り込みチェーンの下に自転車用チェーンを取りつけて、小さな束でも抜けないような工夫をして、いち早く昭和九年に自動脱穀機の発売にふみ切ったが、まだ完全なものではなかった。
 ヰセキ式自動送込脱穀機が完成したのは、昭和一三年(一九三八)一〇月のことで、これが画期的発明とされるのは、四個の押圧板をスプリングを入れた五本の支杆ピンで支えるという柔構造にした点であり、これによって束の大小にかかわらず、またはバラのものであっても、扱室内に抜き取られることが全くなくなった。また、このヰセキ式脱穀機には、井関邦三郎自身の発明になる自動風力調節装置が取り付けられた。

図工3-8 中耕除草機の構造図

図工3-8 中耕除草機の構造図


図工3-9 岩田式籾はぎ機の構造図

図工3-9 岩田式籾はぎ機の構造図


図工3-10 全自動籾すり機(第一号機の略図)

図工3-10 全自動籾すり機(第一号機の略図)


図工3-11 ヰセキ式自動送込脱穀機の構造図

図工3-11 ヰセキ式自動送込脱穀機の構造図