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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 人絹工場の誘致とスフ転換

 人絹黄金時代の到来

 わが国の人絹工業は、大正五年(一九一六)、鈴木商店系列下の東工業(後の帝国人絹)で、木材パルプを原料としてビスコース人絹製造が開始されたのをもって嚆矢とする。しかし、紡績会社が本格的に人造絹糸部門に乗り出してくるのは、市場的条件、技術的条件ともに熟した昭和初期以降である。
 不況下の綿糸市場・綿織物市場の低迷のなかで、人造絹糸は、天然繊維とちかって原料の制約も小さく、化学工業技術の発展によって生産費引き下げが大幅に可能であったから、紡績資本のこの新製品にかける期待はきわめて大きいものがあった。技術的にも、原料代の大部分を占める苛性ソーダ・硫酸などの回収方法が改善され、生産性の向上によってコストが切り下げられる一方、糸質も、艶消糸・マルチ糸・中空レーヨン糸などを開発して良質のものが産出されるようになった。市場面でも、昭和六年の金輸出再禁止による円安で人絹糸の輸出は飛躍的に増加し、内需もようやく不況から脱して回復に向かい、各企業は、競って人絹事業の拡大に奔走するようになった。
 愛媛県における人絹・スフ工業の導入は、この時期の所産であった。昭和八年の日本化学製糸(倉敷絹織)新居浜工場、昭和九年の倉敷絹織新居浜第二工場増設、昭和一一年の倉敷絹織西条工場、昭和一一年の明正レーヨン(冨士紡)壬生川工場、昭和一三年の東洋絹織愛媛工場と、陸続と人絹・スフの工場が建設された。昭和八年(一九三三)の国際連盟脱退以後は、原料の綿花と羊毛の海外からの輸入が削減されることになり、国内自給を高めるためには、人絹とスフヘの依存をいっそう強めていかざるをえなくなったのである。
 昭和一二年に、わが国の人絹糸生産が三億二、五〇〇万ポンドに達し、世界の二八%を占めて世界第一位の座についたのは、経済封鎖を受けた、わが国繊維産業のやむをえざる面をもあらわしている。

 日本化学製糸新居浜工場

 愛媛県と縁が深い倉敷紡績も、多角化の重点として人造絹糸への進出を決め、大正一五年(一九二六)に、系列会社として倉敷絹織株式会社(資本金一、〇〇〇万円、四分の一払込み)を設立した。同社は、フランスのビスコース法の技術を導入して、昭和三年から倉敷工場で日産二トン半(昭和五年から日産八トン半)の規模で人造絹糸の製造を行っていた。
 昭和六年、金輸出再禁止で、人絹糸の市場環境が一転するや、倉敷絹織は設備の大拡張を企図し、昭和七年、対岸の新居浜に土地を求めて、日産一〇トンの新工場の建設に着手した。新居浜が選ばれた理由は、住友化学からの化学薬品の安定供給を期するにあり、住友と結んで資金の導入をはかるために、住友との共同出資による別会社の形を採った。これが、日本化学製糸株式会社である。しかし、この会社は操業開始後まもなく、倉敷絹織に併合されている。

 倉敷絹織西条工場の誘致

 倉敷絹織新居浜工場の難点は、用水難であった。もともと、人絹工業は琵琶湖畔に立地が集中したくらいだから、水の問題は基本的に重要な問題であった。倉敷絹織は、新居浜工場の発足早々、工場の拡張用地を新居浜以外に求めることとし、水の豊富な西条町(現西条市)と折衝を開始した。一方、西条町も、築港の建設計画のために資金を必要としており、近代的産業の誘致にも積極的だったから、大筋において両者の利益は合致した。
 西条町長石田今次は、地元出身の代議士小野寅吉とともに、倉敷絹織工場の西条への誘致に尽力し、倉敷絹織社長大原孫三郎と直接交渉をして話をまとめた。倉敷絹織側としては、西条の水質が極上のものであることが最大の魅力であった。
 工場敷地は、西条港の浚渫の土砂で港の東の海岸部を埋め立てて造成することとし、最終的には一一万七、二八五坪の土地が倉敷絹織に時価で(価格不明)譲渡された。この敷地の埋め立てと周囲の護岸工事は、倉敷絹織が自己負担で施行し、かつ、固定資産税などの減免はなく、「町の賦課は一般の負担と均衡を計り、公正を失うことなきものとする」という一項が加えられていた。
 これに対し、町側の義務は、一、毎秒二〇立方尺の限度内で工業用水の安定供給を確保すること、二、工場までの産業道路を新設すること、三、工場新設に伴う漁業権の補償と、工場排水の海水放出の被害の補償とは町の負担とすることの三点であった。一、及び二は、町の公共投資として妥当のものと考えられるが、三の項目は、環境保全の問題がきびしくなった今日の常識からすれば、企業の責任を地域に転嫁するものとみなされかねない。当時としては、廃水問題はあまり意識されなかったようである。工場敷地造成の資金的負担は西条町にはほとんどなく、この点は、第二次大戦後の工場誘致よりも地域の負担が少ないといえよう。
 西条町議会は、倉敷絹織誘致の条件を満場一致で承認し、昭和八年九月、西条町と倉敷絹織との間で正式の契約書が交換された。
 埋立工事に一両年を要し、倉敷絹織レーヨン工場の操業が開始されたのは、昭和一一年(一九三六)七月二四日であった。翌一二年四月には、西条工場の敷地内に、レーヨン工場と並んでスフ工場が竣工し、操業を開始した。

 人絹からスフヘ

 金輸出再禁止で人絹黄金時代を迎えたのも束の間、各繊維資本の増設ラッシュで過剰生産におちいり、人絹連合は、昭和一〇年九月には四〇%、昭和一二年一二月には五九%という高率の操短を実施せざるをえなくなった。そこで、人絹の遊休設備を利用してスフを製造する研究が各社で盛んになった。
 人絹もスフも、ともに木材パルプのビスコース溶液を原料としているが、スフは人絹に比べて紡糸の工程がはるかに簡単で、人手も少なくてすむため、安価な実用繊維としての利用価値が大きかった。人絹糸とスフの原単位比較は、表工3124のとおりであるが、パルプの歩留りもスフの方がよく、苛性ソーダ・硫酸などの化学薬品の使用量もスフの方が一割かた少なくてすむ。最も大きな差は、工程が簡略化され自動化されるために電力消費量がスフは人絹糸の三分の一から四分の一ですむという点である。
 わが国への原綿の供給制限がきびしくなるにつれて、大衆繊維である木綿の代用品として、スフの国内需要が大きくなっていった。政府は、資源節約の目的から、国策としてスフの使用を強力に指導し、昭和一二年から、毛製品と綿製品にスフを混用することを強制する統制規則を実施に移した。また、綿花の輸入割当・綿糸の生産割当・綿糸の配給統制も同時に実施され、わが国の繊維産業は完全に戦時統制下に置かれることになった。
 このような状況のもとで、技術的に転換が容易な人絹工場がスフヘ転換するのはいうまでもなく、綿紡績の工場もスフ生産へ転換していったのである。

 東洋絹織松前へ誘致

 東洋絹織は、資本金一、〇〇〇万円のうち、東洋レーヨンが六〇%、東洋綿花が四〇%出資して、昭和一一年七月に創立された会社で、当初からスフの製造と紡織とを専業とする会社であった。
 初め工場用地は、滋賀県瀬田町(現大津市)の東洋レーヨンの所有地をあてる予定であったが、廃水問題で地元の水産組合の反対が強く(ここには東洋レーヨンの紡織専門工場が建つことになる)、会社側は大量の水を使用するスフ工場の建設計画を放棄して、よそに土地を求めることになった。その有力候補地の一つが徳島県平嶋村(現那賀川町)の那賀川河口一七万坪であった。
 この時、熱心な誘致運動を展開したのが松前町であった。結局、東洋絹織は一三府県三〇か所の候補地の中から松前町を選んだ。
 松前町長武智雅一は、松前町が半漁半農の一寒村で人口が流出するのを憂い、大工場の誘致を町政の大方針とすることを決めた。これには、愛媛県東部の新居浜・西条の発展が大きな刺激となっている。
 実は、誘致の第一候補は日本レイヨンであった。社長菊池恭三が愛媛県出身者であったので縁故を頼って工場誘致の折衝と運動とを昭和一〇年秋から一年あまりにわたって続けたが、遂に不調に終わった。しかし、その時に用地買収・水利権・漁業権に関して松前町関係者の同意をとりつけていたことが、東洋絹織の誘致をスムーズに進める最大の決め手になった。
 日本レイヨン誘致が不成功となった数日後に(昭和一一年一二月)、東洋絹織の話がもたらされ、即座に武智町長は東洋レーヨン滋賀工場まで出かけて、会社役員と会見した。そして、日本レイヨン誘致のために調査作成した図面・地主の譲渡承諾書・農民の水利権同意書・漁業組合の同意書などを提供して、松前町の積極的姿勢を示した。話は一気呵成に進み、昭和一二年(一九三八)三月には、総面積一二万七、二七〇坪(坪当たり二円六七銭)の用地の譲渡が決定し、六月には、工場建設着工の運びとなった。
 町側の義務は、西条町の場合と同じく、一、毎秒二〇立方尺の限度内で工業用水の安定供給を確保すること(この点は後にもう一〇立方尺の増量の要請がある)、二、道路・港湾の無償使用を認めること、三、工場新設に伴う漁業権の補償と、工場排水の海水放出の被害の補償とは町の負担とすることの三点が含まれていた。
 松前町が西条町よりも会社側に有利な条件を提示したと考えられる点は、「工場歓迎ノ趣旨ニ従ヒ町ハ県費ノ補助ヲ受ケ松前港ヲ改修浚渫シ……永久的設備ヲナシ会社所要ノ部分ハ無料ニテ之ヲ使用又ハ占用セシムルコト」『契約条項』の十一であった。倉敷絹織は西条港の工場敷地の護岸工事を自己負担で行っている。
 ただし、採水の代償として、松前町は、東洋絹織に営業収益付加税を課し、その一部を取水に協力した岡田村(現松前町)に分与している。
 漁業権補償は、西条町と同じく、松前町側の負担であった。埋め立て、港湾改修・工場排水に関連して起きる漁業権の補償問題は、松前町浜漁業組合については、組合長の丹羽寅松町議が工場誘致のために結成された松前町発展更生会の役員であったこともあり、即座に同意が得られた。補償金額についても、町内の有力者の斡旋の末、八、五〇〇円で解決した。工事建設中の土砂の放棄、工場排水の位置変更などでの漁民との間のトラブルも、町の責任で収拾された。
 解決に手間どったのは、共同専用漁業権をもつ郡中町(現伊予市)・北山崎村(現伊予市)などの隣接町村の漁業組合に対する補償交渉で、利害関係が最も大きい地元の浜漁協に対するものよりはるかに多額の一万八、〇〇〇円を補償金として支払うことでようやく妥結した。
 これ以外にも、工業用水に関する岡田村との交渉、巨額の土木費負担(町予算総額四万円に対して土木費五五万円)など、松前町は、東洋絹織誘致に関連してなみなみならぬ労をとっている。
 東洋絹織愛媛工場は、きわめて短時日のうちに竣工し、昭和一三年(一九三八)四月三日にスフの操業を開始した。スフ日産四二・二トン、スフ紡糸機二〇台、精紡機五万〇、四〇〇錘、力織機七四八台がその設備能力である。当初、実験段階において、松山工業試験所にスフ糸の糊付けの依頼があったことを付記しておこう。
 東洋絹織愛媛工場は、国内随一の品質を誇る優良工場であったが、戦時の業界再編成の一環として、昭和一六年七月一日、東洋レーヨンに吸収合併されて今日に至っている。
 昭和一三年一〇月一日現在における愛媛県下の人絹スフ工場は左の四つであった。
  倉敷絹織株式会社新居浜工場    新居浜市  一、四三二(職工数)
  倉敷絹織株式会社西条工場     西条町   一、三一〇
  明正レイヨン株式会社壬生川工場  壬生川町    六九三
  東洋絹織株式会社愛媛工場     松前町   一、五七二

表工3-24 人絹糸・スフ原単位表

表工3-24 人絹糸・スフ原単位表