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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 戦争の被害と残存工業施設

 綿紡績設備の縮小

 昭和二〇年(一九四五)八月一五日、日本は無条件降伏をし、連合国の占領下におかれた。労働力・施設・物資のすべてを戦争に投入し、民間産業を縮小し、工場施設の多くを焼き払われたうえでの敗戦であった。
 戦前の日本の基幹産業であった繊維工業も、紡機をスクラップにして供出したり、軍需工場へ転換したりすることを強制された。綿紡績についていえば、戦時中に企業統合された十大紡の昭和一六年の設備能力は一、二〇〇万錘だったが、そのうち戦災による喪失が八三万錘(六・九%)、スクラップ化されたものが七七五万錘(六四・六%)に達した。通産省通商繊維局の推計によれば、終戦直後の綿紡設備の全国総計は二〇〇万錘であり、戦前のピークをなす昭和一二年水準の一五%、昭和一六年水準の一七%にまで低下した。
 この点、愛媛県下の綿紡績工場は、昭和一三年、戦前最後の新設となった倉敷紡績北条工場をはじめ新鋭設備が多く、供出を免れたから、全国に比べれば残存率は高かった。終戦時の愛媛県綿紡績工場の設備能力は(表工4-1)のとおりであって、戦前(昭和一二年)水準の五五・八%が保持されており、全国の約三倍の残存率であった。戦前の四社八工場のうち、戦災によって全焼したものが一工場、紡機をスクラップ化して供出し軍需工場などに転換したものが三工場で、四社四工場計一九万六、〇〇〇錘が残された。戦災にあったのは倉敷工業今治工場で、今治兵器製作所となった織布部門とともに昭和二〇年八月に全焼した。東洋紡績今治第一工場は今治航空工場となったが、昭和二〇年の空襲では工場の一部を焼失したにとどまった。東洋紡績川之石工場は昭和二〇年産業設備営団へ売却され、昭和二〇年七月二四日の空襲で工場の一部を焼失した。冨士紡績三島工場は陸軍暁(船舶)部隊の基地となった。

 スフ・人絹糸設備の残存

 すでに述べたように、人絹糸もスフも木材パルプを原料としているが、スフの方が工程が簡単で人手もかからず生産費も安く上がったので、戦時中の繊維生産はその大部分がスフであった。愛媛県では昭和九年から一三年にかけて、倉敷絹織の新居浜工場と西条工場・明生レイヨン壬生川工場・東洋絹織愛媛工場の四工場が人絹工場として新設されたが、戦時中にスフヘ転換している。終戦時に残った県内のスフ生産設備は次の三工場である(企業整備で工場の名称に変更がある)。
 東洋レーヨン愛媛工場 登録トン数日産 *二七㌧  稼動能力日産 二七㌧
 倉敷絹織西条工場      ″    三一㌧     ″   一九㌧
 冨土紡績壬生川工場     ″    二一㌧     ″   一三㌧
 愛媛県計          ″    七九㌧     ″   五九㌧
   *東洋レーヨン社史では二五・七㌧となっている。この数字は、愛媛県商工課調べ。
 愛媛県のスフ生産設備は全国の残存設備能力の約二五%に当たり、府県別生産能力において全国最大であった。また、稼動能力においても全国の三六%を占め、全国最大であった。東洋レーヨン愛媛工場は、スフの製造技術に優れ、戦時中は軍需スフとしての品質日本一の折紙をつけられたほどであった。工場単位でも、愛媛県の同工場が稼動能力全国第一位であった。このように、終戦時に愛媛県は合繊王国になるべき地歩を有していたのである。
 人絹糸生産については、倉敷絹織西条工場(スフ兼営)が県下唯一の工場であった。同工場の登録トン数は日産一二㌧、稼動能力八㌧であった。これは、全国比登録トン数で五%、稼動能力で一九%を占める。

 綿織布工場の転廃と被災

 愛媛県の織布工場は中小零細経営が多く、戦前は綿布工場一二○、タオル工場八三の二〇三工場を数えた。ところが、戦時中の企業整備で転廃業を強制されたもの一三四、戦災を蒙ったもの二一に達し、終戦時に残りえた工場は四分の一以下の四八工場にすぎない。
 なかでも、タオル工場は今治市に集中していたから空襲の被害が甚大で、戦災を受けた工場数一四、織機台数五四八に達した。今治市のタオル業では昭和一八年末以降、業者を三つの工業施設組合に統合する一方、五三工場、織機一、三五五台を供出し、従業者の多くを軍需工場に供出した結果、戦災前にタオル織機の数は、二三工場八二三台と約三分の一に減ってしまっていた。だから今治市タオル工場の空襲罹災率は、工場数の五八%、織機台数の五九%という高率に達する。終戦時には、工場数九、織機二七五台が残存したにすぎず、戦前に比べれば、工場数で一一%、織機台数で一二%という壊滅的状態であった(表工4-2)。
 愛媛県全体の綿織機の残存状況を県商工課の調査でみると、綿織機の対戦前残存率は、専業工場で四一・七%、紡績兼営工場で五五・六%、タオル工場で一六・一%となっており、タオル業界が蒙った打撃が最大であったことを物語っている(表工4-3)。紡績兼営の織布工場は県下に二つの工場があった。倉敷紡績北条工場は、織機二、○一七台を設置していたが、うち五一六台を供出し、終戦時には一、五〇一台であった。東洋紡績川之石工場は保有六八四台の全機を供出して、産業設備営団へ移管された。

 住友化学の生産麻痺

 昭和二〇年(一九四五)七月二四日、住友化学新居浜製造所・軽金属製造所は爆撃を受けた。新居浜製造所では、アルミ原料の氷晶石工場の半ばが破壊され、死傷者八人を出した。軽金属製造所では、第三製錬工場が爆撃にあい、重軽傷者二八人を出した。しかし、新居浜製造所でも一部の機器を疎開し、軽金属製造所でも機器類はすでに朝鮮住友金属へ撤去した後であった。
 昭和二〇年夏には、住友化学では、アルミナ・硫安・炭安などの製造は全面的にストップし、辛うじて稼動を続けたのは、アンモニア・硫酸・硝酸の工場のみで、それらはすべて本土決戦のための火薬の製造にふり向けられた。タール系化学製品も、コークス炉の老朽と石炭払底からほとんど製造できない状況であった。稼動を続けた工場でも、人命の損傷を最小限にするために空襲警報のたびに運転休止・工場外避難をくりかえし、生産がストップすることがしばしばであった。アンモニアエ場だけが、配管の各所からガスもれがするという危険をおかして、荒廃の中で最後まで運転されたが、遂に昭和二〇年八月一七日に休止し、これで住友化学新居浜製造所の全工場の機能が停止した。

表工4-1 終戦時の愛媛県綿紡績工場生産設備

表工4-1 終戦時の愛媛県綿紡績工場生産設備


表工4-2 今治タオルの戦災・残置工場及び織機台数

表工4-2 今治タオルの戦災・残置工場及び織機台数


表工4-3 終戦時の愛媛県綿織機台数

表工4-3 終戦時の愛媛県綿織機台数