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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 資材不足の中の復興

 戦時中の企業整備で、昭和一六年(一九四一)には一万を超えていた愛媛県の工場数は昭和二〇年(一九四五)には八九九に減じ、工業労働者数は、同様に五万八、二六二人から二万三、九四三人へ大幅に減っている。戦争の影響は民生産業ほど大きく、太平洋戦争中に、食品工場数は二、三〇九から一八三へ、繊維工場数は二、九一二から一一五へ、木材工場数は一、一四七から一八三へ、窯業の工場数は四七五から五六にまで整理されてしまった(『資料編社会経済上』工業、愛媛県製造業の発達一括表)。
 松山市と今治市は市の中心部が戦災にあい、多くの工場を焼失した。

 鉄不足

 戦時中から引き続いて、最も不足したものは鉄材であった。戦災地の復興に欠かせない釘、日常生活の鍋釜、この基本的な鉄が決定的に不足していた。いうまでもなく、鉄は、工場の機械の製造にも米の増産のための農機具の製造にも欠かせないものであった。
 終戦後まもなく、住友と密接な関係にある大阪製釘の誘致に成功し、新居郡神拝村(現西条市)にバラックの工場が完成して、九月一五日から月産八〇〇樽の操業にはいったというのは、愛媛県にとって大きな朗報であった。ただ、ここでも原料がなく、住友機械の電気炉を利用して焼跡の鉄屑の線材化を工夫するというありさまであった。当時の新聞が報ずるところによれば、「釘の需要はかなり夥しいものがあるので国・県ともこれが配給統制は 愛媛県は物資更生協会をつくって、金属修理所を松山市内に四か所開設して多量の鍋釜を修理して繁忙をきわめたという。昭和二〇年一一月三日の新聞には、「焼夷弾一本御持参の方には加工料一〇円にてフライパン十能を御渡し致します」という広告が載った。

 軍需工場の民需転換

 資材・資金・電力・労働力など、あらゆる面に隘路があって、軍需工場の民需転換は遅々として進まず、愛媛県にあった軍需工場三六工場のうち、すみやかに民需転換をうち出した工場は一〇にすぎなかった。当初、占領軍によって工業施設の賠償指定、民間工業生産の制限などきわめてきびしい政策が採られたため、これらの民需転換には占領軍の許可を必要とした。その一〇工場は左のとおり。
 松山興業所・井関農機・井関農機第二工場・倉敷工業・岡田製作所・川之江造機・日光機械製作・原産業・八幡浜機械工作所・津吉鉄工所。
 松山興業所は、さきの焼夷弾とフライパン交換の広告を出した会社である。

 電力不足

 生活物資の不足とインフレのため、戦時中からの資材の手持ちを食いつぶしてしまい、昭和二一年秋には、日本経済は危機的状況を迎えた。そこで、経済の根幹をなす基礎資材の供給を確保するために石炭・鉄鋼の生産に資材とエネルギーと労働力とを集中的に投入する画期的な「傾斜生産方式」が、昭和二一年一二月、政府の方針として決定された。輸入重油の全量と石炭の大量とが鉄鋼業に注入され、鉄鋼・セメント・食糧が重点的に炭鉱へ割り当てられた。
 復興の緒につかんとする愛媛県下の産業にとって最大の隘路となったものは電力不足であった。そして電力不足の重要な原因に石炭不足があった。当時四国には、面河第一・第三・仁淀川などの日本発送電系、湯山第二などの四国配電系、住友共電系の合計二二万キロワットの水力発電能力があったが、渇水・山林の濫伐による貯水量の激減、戦時中の酷使による発電機器の損傷など種々の悪条件が重なって、昭和二二年一一月には五万キロワットの供給と最低最悪の事態に陥いった。火力発電も、日発・四配・住友あわせて一三万キロワットの能力のうち、設備の老朽化と炭質の低下により連続運転可能能力は三・五キロワットに低下していた。しかも、石炭が入荷しないために、とぎれとぎれに一万キロワット前後を発電するという状況であった。
 一般家庭に対しては、夜間の電力制限を行う一方、工業用の電力についても、昭和二二年の九月には深夜停電(約三割の制電)、一〇月には非常制限(約五割の制電)を実施した。このため昭和二二年一〇月中の愛媛県下の工業生産の減少率は、肥料三〇%、紡織四〇~五〇%、スフ人絹三五%、製紙五〇~六〇%、窯業三〇%、木造船五〇%、木工七〇%に及んだ。中小工業の中には電力の計画欠配と石炭不足とによって経営危機に陥るものが少なくなかった。雇われている労働者の方も深刻で、同年一一月に新居浜で開かれた労働総同盟の県大会では、電力危機突破対策が重要議題となり、総同盟松山支部長の渡辺鬼久助は「電熱器使用や盗電で食われた電力を工場に回せばまだまだわれわれは働ける」と訴えている。

 労働力不足とスト多発

 愛媛県の工業にとっての、いまひとつの問題は、過渡的なものではあったが、人手不足であった。戦時中の労働力不足をカバーしてきた軍需工場の勤労学徒や女子挺身隊は終戦とともに総引き揚げをし、徴用されていた中国人・朝鮮人労働者も大量に本国へ帰国した。
 住友化学新居浜製造所・軽金属製造所では、学徒・女子挺身隊・内地徴用工を終戦の翌日に帰郷させ、オランダ人の俘虜・朝鮮人徴用工も、それぞれ本国へ送還した。軽金属製造所では、さらに退職者を募って三分の一の九六七人に減らしたが、新居浜製造所は肥料生産再開時の人員を確保するために、三、九〇六人をそのまま残した。しかし、この人員は戦後の生活難で目減りをしてしまい、住友化学は大量の素人工を補充募集せざるをえなくなった。同じころ、昭和二一年(一九四六)二月二〇日現在の県の調査では、戦災者・海外引揚者・生活困窮者などの総数は県下で七万六、〇〇〇人(うち男三万五、〇〇〇人、女四万一、〇〇〇人)であったから、潜在的には労働力は不足ではなく、むしろ過剰だったのだが、工場で働く意欲と条件とを欠いてしまっていたのである。『愛媛新聞』(昭和二〇年一二月六日号)は、「就職は食の失業」という見出しで「住友各工場では工員を募集しているが、就職者は殆ど無い。何故かといえば就職すれば食えなくなる。月収六十円や七十円では生計が樹つ筈もない」という記事を載せている(当時ヤミ米一升三〇円であった)。賃金が統制されてしまっているから実質賃金は極度に低下し、住友化学では、残業者に蒸甘藷や米飯を供したり、規格外肥料やサッカリンなどの現物を配給したりして従業員の引き止めをはかった。
 当時の新聞広告を見ると、住友化学は、五〇〇人の大量を、倉敷絹織西条工場は、男三〇〇人、女四〇〇人の大量を急募しており、人手不足の実情をうかがうに足りる。
 東洋レーヨン愛媛工場は、すでに述べたように品質日本一のスフ工場であったが、ここでも、学徒や女子挺身隊の一斉引き揚げで従業員が二、四〇〇人から一、八〇〇人に減り、労働力不足が悩みであった。特に女子熟練工が不足し、能率が低下したため四万錘の精紡機、八、〇〇〇台の織機の約半分しか稼動できない状況であった。当時の農村景気の中では、農家の子女は給料の安い「人絹会社」にはふり向きもしなかった。この工場では、従業員のための消費組合制度に力を入れ、生鮮食料品などの生活必需品を市価よりもずっと安価に配給して従業員の引き止めをはかった。
 昭和二三年(一九四八)三月になっても、松山職安の求人倍率は二・三倍であった。阪神・北九州からの求人申し込みも三、〇〇〇人にのぼったが食糧事情で応募者がない状態であった。
 生存線ぎりぎりの飢餓賃金の改善要求と労働組合活動とをめぐって、愛媛県下の工場では労働争議が多発した。工業に関するものだけを拾っても、三三日に及ぶ別子の大争議(化学肥料の生産に与えた影響大)をはじめとして、倉紡今治・酒六・全農八幡浜・大王製紙・伊予製紙・東芝今治・日新化学などで、昭和二一年から二三年にかけて争議が起こった。その多くは、スト・怠業・工場閉鎖などを含む激しい争議であった。
 資材不足・資金不足・電力不足・労働力不足という四重の困難な条件の中で、愛媛県の工業は、県民生活の再建に必要な生産財と消費財とを産出していかなければならないという、課題を背負わされていたのである。