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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

三 地場産業の胎動

 井関農機の復興

 食糧増産に必要な農機具の生産は、最も急を要するものであった。
 井関農機は終戦直後の九月には愛媛県知事から緊急復興指令を受け、民需転換工場として最初にスタートした。井関の工場は戦災で全焼し、廃墟の中からの再出発であった。
 井関邦三郎は、労働力を確保するために、湊町工場の跡地に工員用木造住宅二八棟(五〇戸分)の建築に真っ先にとりかかった。さらに、八代町工場周辺の宅地焼跡を購入して敷地を約六、〇〇〇坪に拡げ、戦災を受けなかった小栗町の共同鉄工所(社長山本秋太郎)工場の買収に成功した。このあたりに井関邦三郎の目先の明るさと行動の俊敏さとがあらわれている。
 また、戦時中工場の一部を井関航空兵器製作所として軍の仕事をしていたととも幸運をもたらした。終戦直後に第一一空廠八幡浜支廠からターレット旋盤・垂直ミール盤などの貴重な工作機械十数台を払い下げてもらう便宜を得たからである。それを工場へ運びこむためのトラックも、戦時中ガソリン不足で動けない陸軍の軍用トラックに農機具用木炭ガス発生装置をつけたお返しに頂戴したものであった。また、呉の第一一空廠本部からも、各種バイト・チップ・ブロックゲージ・特殊工具などの工具類の払い下げを受ける許可を得、発動機船を一隻チャーターして、これらを木箱に四、五〇箱、工場に持ち帰った。
 井関農機でも、再開直後はくわや鎌や鍋やフライパン等を作った。焼夷弾の破片でフライパンを作ったが、焼け出されて家庭用金物に不自由する時代だったので飛ぶように売れた。井関農機の戦後最初の製作品がアメリカ進駐軍用のストーブであったのも、当時の状況を物語っている。
 井関農機は、日本勧業銀行から一〇〇万円、四国銀行から五〇万円という破格の多額の融資を引き出すことに成功し、地元の門屋組の協力を得て、昭和二一年一一月までに大手町の鋳造工場、八代町の本工場二棟、鉄工場三棟を再建し、いちはやく復興のベースに乗った。設計図を焼失してしまったので、農家から買い戻した機械をスケッチして図面を復元するなど、生産の開始までの苦労は並たいていではなかった。このようにして、昭和二一年六月には戦後第一号のヰセキ式自動送込脱穀機を、同年一一月には戦後第一号の全自動もみすり機を世に送り出した。
 食糧難の時勢にあって、政府は農機具の生産に力を入れ、軍需工場の農機具工場への転換を奨励した。転換工場の中には、航空機や大砲など精密な金属加工技術と巨大な設備をもつものも含まれていたが、政府のねらいは、これらの工場がかかえている手持ち資材を活用して特に不足しているくわ・鎌・脱穀機・精米機などの農機具の供給を増やすことにあった。農家のふところがあたたかく、農機具はヤミ価格で飛ぶように売れたから、全国では四千数百の農機具メーカーがひしめきあい、脱穀機だけでも四五〇工場が乱立した。しかし、その多くは、農機具生産の技術的ノウハウがなかったことと、機械材料に関する経験に乏しかったことなどのために、使用に耐えない粗悪品を生産することになった。例えば、生木の板に軟鋼のこぎ歯を打ちこんだ脱穀機は、板が乾いて歯が抜けてしまったり、歯がすぐちびてしまったりした。もみすり機や精米機なども、材料が粗悪であったり不適当であったりしたから、すぐに使いものにならなくなった。
 このような戦後の粗悪品時代にあって、戦前からの技術につちかわれた井関農機の良心的製品はひときわ光って多大の信用をもたらした。資金難・資材難を乗り切って同社が世に問うたヰセキ式自動送込脱穀機とヰセキ式全自動もみすり機とは、業界に衝撃を与え、ぐんぐん売れ行きを伸ばした。脱穀機は昭和二一年に九六八台、昭和二二年に一、六一二台、昭和二七年に八、六四四台へ、金額にして昭和二一年の五二四万円から昭和二七年の二億三、四七四万円へと伸びた。もみすり機は昭和二二年に一、四九二台、昭和二四年に七、九〇七台、昭和二七年に九、二〇九台と上昇し、金額にして昭和二二年の二、二六三万円から昭和二七年の四億〇、二八二万円へと伸びた。

 関印刷所の決断

 昭和二〇年(一九四五)七月二六日の松山空襲で、関印刷所の萱町工場は全焼した。同社は、戦時中も愛媛県印刷組合のリーダーとして(組合理事長関定)、逓信局などの官公庁の印刷や軍関係の印刷に協力すべき立場にあったので、主力の印刷機械を疎開することもできず、稼動中の機械のことごとくを焼失する結果となった。
 この廃墟から再出発するに当たって、関印刷所は重大な岐路に立たされた。機器と資材の欠乏のもとで、印刷業を継続すべきか、それとも、新しい事業に転換すべきかという選択である。海軍から復員してきたばかりの長男関宏成は、この際印刷業から地域開発事業などに転換してはとも考えていた。しかしながら、創業者の真意を推し量るとともに、戦前から関印刷に力を尽してきた従兄・尾首実平の意見も容れて、印刷業を継続する決断がなされた。
 極端な資材不足の中では、工場の建物ひとつ建てるのも大変であった。梅津寺海岸にあった飛行機の格納庫を払い下げてもらい、その中古木材を萱町の焼け跡に運んで、工場仮屋の建築にとりかかった。ところが、建材不足とお粗末な工事のために、棟上げをしたその夜のうちに暴風にあってあえなく倒壊してしまった。しかし、これにくじけず、木材を工面し、金物を調達して、予定より半年遅れの昭和二一年七月、一四四坪の工場がやっとの思いで出来上がった。釘のかわりに舟釘を使い、硝子のかわりに布切れで風雨をしのぎ、今度は倒れないために天井も柱も低くするという苦心の仮屋であった。
 昭和二一年七月、新工場で印刷を開始した。手裁包丁・定木・裁台などは内子町の河内印刷所などから譲り受け、字母や活字は広島や大阪の同業者に頼みこんで頒けてもらったものであった。始動させるためのスイッチが手にはいらず、井関農機から借り受けて電気を通じたというエピソードが残されている。
 戦時中の企業再編成で従業員の大部分は転職してしまい、営業再開時には従業員の数は三〇人に減ってしまっていた。関印刷所では、戦争中召集・徴用を受けた約二五人の従業員の留守宅に欠かさず給料を届けたという。関印刷の再開を伝え聞いた以前の従業員があちこちから舞い戻ってきたのは、このような配慮があったからであろう。昭和二三年ごろには、従業員は六〇人に達した。
 戦時中の犠牲的協力と実績が認められて、郵政局・電気通信局の印刷物の多くは関印刷所に発注があった。県庁や選管の印刷物の注文も多く、言論の時代の戦後を迎えて関印刷所の業績は順調に推移した。平版印刷は、大正の創業以来、岡部仁左衛門の花かつをの袋を上得意としたが、戦後それが復活し、岡部・城戸・明関の花鰹袋の印刷の注文に追われた。
 昭和二四年四月、洋紙部門と印刷部門とを統合して、株式会社関印刷所(昭和二七年関洋紙店印刷所に改称)に改組し、関宏成が代表取締役に就任し、関定は取締役会長となった。この年、全判オフセット機による印刷を早くも再開し、活字鋳造機を据え付けている。

 仙貨紙ブーム

 戦前の愛媛県の製紙業は手漉または機械抄の和紙に限られており、需要の多い洋紙の生産は、県外の巨大企業なかんずく王子製紙の独占するところであった。最盛時の王子は、その資産の六割までを樺太・満州・朝鮮などの外地の山林・工場として保有し、全国洋紙生産の実に八五%を王子一社で占めた。戦前はわが国の製紙用パルプの約四割を樺太で生産したといわれ、これら外地資産のすべてを失ったことは大打撃であった。残る内地工場も、戦災にあったり設備が老朽化したりして、洋紙の生産能力は戦前の二割以下に落ちこんでしまった。その上、政府の「傾斜生産方式」によって、資材・石炭・電力などが炭鉱や鉄鋼業に重点的に回されてしまったから、洋紙の生産復興は進まず、印刷用紙の不足は深刻であった。
 愛媛の製紙業(機械漉和紙)も、きびしい戦時統制によって県下二九工場が大王製紙(三島)・大西製紙(三島)・丸井製紙(川之江)・伊予製紙(西条)・東洋製紙(松山)の数社に統合整理されてしまい、かなりの工場が廃棄・転用を余儀なくされた。製紙労働者の数も、召集や徴用によって大きく減少したが、愛媛県の製紙施設の戦災による被害が皆無であったのは、何といっても強みであった。
 印刷用紙の絶対量が極端に不足して、紙と名がつけばどんなものでも羽根が生えて売れる時代であった。「仙貨景気」がまき起こったのはそのような背景の中でだった。戦後一躍その名を有名にした「仙貨紙」は、戦前の同名のこうぞ和紙とは似ても似つかぬ故紙をすき返した粗末な片面紙であったが、統制のワク外であったため、印刷用紙の代替品として引っ張りダコで、高いセリ値で引きとられていった。原料の故紙を煮釜で煮いてこれまでの丸網抄紙機で手間をかけずに抄くという粗製品でよかったのだから、廃工場の復活や新規参入で、宇摩の製紙業は異常なまでの活況を呈した。
 昭和二三年(一九四八)の初めまで、機械漉和紙の工場数は全国的には半減したのにひきかえ、愛媛県では逆に倍増する勢いであった。昭和二四年には、愛媛県の機械漉和紙の工場数・抄紙機数ともに戦前比二・二倍に達して、大変なブームであった(表工4-4)。今や、宇摩の「仙貨紙」は全国の三〇%を占め、全国一であった。
 回収した原料の故紙の中に悪質なブローカーが目方を増やすために古鉄を混入するほどに故紙の値段がつり上がった。製紙労働者も払底し、彼等の賃金は、住友関係の労働者の賃金を一割五分ほど上回っていたといわれる。
 当時、大西製紙社長が広大な敷地に建てた豪邸は、「今様あかがね御殿」または「インディアン紙御殿」と呼ばれ、当時のお金で工事費一、〇〇〇万円(『愛媛新聞』昭和二三年五月一六日号)とも噂されて、「仙貨景気」のすさまじさを物語っていた。
 昭和二四年の愛媛県の機械漉和紙生産量の品目別内訳をみると(表工4-5)、そのころの生産の主力は「仙貨紙」と「ちり紙」で、この両者で全体の八割を占めていたことが分かる。しかし、「仙貨紙」は、昭和二七年ごろまでが盛期で、その後、洋紙の復活とともに衰退し、家庭用薄葉紙と雑種紙の生産へと移行する。

 大王製紙の台頭

 大王製紙は、井川伊勢吉が創業した四国紙業を母体にして、戦時企業整備によって四国の製紙工場一四が統合されて、昭和一八年(一九四三)五月に同名の会社(資本金二一七万五、〇〇〇円)として設立されたものである。
 戦時中の企業合同とはいえ、大王製紙の経営的特色は、寄り合い世帯ではなく、買収に基づく企業合併であり、社長たる井川伊勢吉のもとに経営の実権が集中できたという点にあった。企業整備にいたる前年、すでに伊勢吉は、四国紙業(西条)・丸菱製紙(西条)・予州製紙(川之江)・丸栄製紙(三島)の四工場をいっしょにして、伊予合同製紙所の代表者として企業運営の衝にあった。さらに一両年のうちに、高松製紙(高松)・中山製紙(西条)・三和製紙(三島)・丸日製紙(高松)・栗林製紙(高松)・寿製紙(高松)・合同製紙(寒川)・宮﨑製紙(寒川)・今治製紙(今治)・徳平製紙(高知)の一〇工場をいずれも買収(一部現物出資)によって手中に収めている。これらの中で優秀な機械であった四国紙業の抄紙機と高松製紙の抄紙設備とを三島へ移築し、旧三島工場のボロ機械を廃棄するなどの果断の措置に出ることができたのも、経営主体が一本化されていたからこそであった。
 終戦時の大王製紙は、機械設備をスクラップしたり、朝鮮へ移出したりし、また、原料と労働力の不足のために、一四あった工場のうち、稼動しているものは、三島工場の五〇インチ丸網抄紙機(三号機)一台だけ(ほかに上分工場の一台が休止中)という状態であった。
 ところが、終戦後二、三か月で、三島工場には抄紙機三台がライン・アップし、上分工場の一台と合わせて四台の抄紙機による生産体制が整ってしまったのである。それは、終戦の年、軍用として江田島へ移送し据え付けが未了だった三島工場の抄紙機(二号機)をとり戻し、戦争中に三島へ移設作業中だった西条工場の主力機(一号機)の据え付けをこの時に完成させることができたからである。翌昭和二一年には小型抄紙機(四号機)を増設して、五台の抄紙機で「仙貨紙」を日産一〇㌧程度生産した。
 前に述べたとおり、「仙貨紙」の市価はどんどん上がって、飛ぶように売れたから、大王製祗でももうかってしようがない程の状態であった。ただ、大王製紙が大西製紙と違ったのは、インディアン紙御殿を建てる代わりに、その利益を四国最初の洋紙工場建設の資金として注ぎ込んだという点である。
 井川伊勢吉は、仙貨紙ブームのまっただ中にあって数年先を読んでおり、彼自身の言葉によれば、「紙幅十尺(三㍍)以上で、一分間の抄紙速度が千尺(三百㍍)近く出る抄紙機が、王子製紙には二〇台余もあるというが、この様な抄紙機でどんどん洋紙が生産される様になった時には、和紙工場としては世帯の大きくなっておる大王製紙は、その企業を縮小して旧来のチリ紙、京花紙を抄く工場に戻るより外ない」(『社内報「たいおう」』)という危機感があった。
 昭和二二年一一月二六日、四国最初の洋紙工場は、六五インチ長網抄紙機の据え付けを完了して竣工式を挙行した。日産四~六㌧という、今日から見ればきわめて貧弱な機械であったが、開設にこぎつけるまでに一年有余を費やしており、洋紙進出への決断は昭和二一年の春にされている。当時の物資不足の中で、機械じたいも、戦災にあって焼け残った長網抄紙機の本体を大阪で買いつけたものだった。ワイヤーパートやプレスパートの部品は大阪で作らせ、鉄工工事は森実鉄工所が、上屋は井原建設が、基礎工事は坂本組がそれぞれ当たった。地元には長網機を手がけた鉄工所が一社もなく、また、テーブルロールをとりかえるための真鍮・砲金の入手に困り、基礎に使うセメントの確保にも難渋した。抄紙機のドライヤーが足りず、新品は手に入らない時期だったから、サイズ違いのヤンキードライヤーの中古を買ってとり付けたりした。並行して、ザラ紙の原料のグランドパルプを作るグラインダーを静岡の山本鉄工所に発注し、ボイラーは宇和島の敷島紡績のランカシャーボイラー二基を譲り受けて、洋紙工場の陣容が整った。
 ところが、この長網抄紙機(五号機)は、最初から調子が悪く、竣工式の試運転でも、来賓多数が凝視する中で紙切れを続発し、運転責任者が「停電です」と機転を利かして機械を止めて、その場をとりつくろう仕末であった。当初、日量四㌧ほどの新聞用ザラ紙を抄いたが、機械は遂に不調のままで、大量の損紙を生じ、大王製紙の経営を苦況に追いやることになった。操業半年あまりでとうとう大修繕をせざるをえなくなり、復興金融公庫から八〇〇万円の融資を得て、大阪の旭鉄工所に依頼して何とか運転できるように改造した。
 これによって生産がいちおう軌道に乗り出したのが昭和二四年になってからで、もはや仙貨紙ブームは去り、ドッジ恐慌と重なって製紙業は大不況に直面し、宇摩地方でも倒産企業が出る事態になっていた。同社も、機械の建設と改造のために多額の借金をかかえこみ、手形の支払いもとどこおり、一時は賃金の遅配・欠配をするというところまで落ちこんでしまった。この時点では、大王の洋紙工場新設の企ては裏目に出てしまったといわざるをえなかった。

 大王製紙三島の一貫工場化

 昭和二四年(一九四九)の暮れに、朝日・毎日・読売の三大新聞か競って夕刊を発刊することになり、新聞用紙の需要が急増して、事業環境は好転した。ところが、大王の長網抄紙機は六〇㍉と幅が狭く地方紙向けのB巻C巻用で、大新聞社の七四インチのA巻は抄くことができず、指をくわえて見まもるよりしかたがなかった。井川伊勢吉は、金繰りがどん底だったのにもめげず、A巻の新聞用紙に進出する以外に活路はないと決断し、昭和二五年二月には、早速、静岡県の井出鉄工所に七八インチの長網ティッシュマシン(六号機)を発注し、その年の一〇月に完成した。六号機は、月産三二〇~三三〇㌧の抄紙能力があり、これ一台でこれまでの一号機から五号機までの五台分に匹敵するものであった。
 同時に、原料を確保するために、同社は、高知県・日本興業銀行・伊豫銀行に働きかけて、高知のサルファイト・パルプエ場をすべて借金で手に入れた。昭和二五年という年は、宇摩地方の製紙業にとって画期をなす銅山川の揚水・隧道工事が出来上がって通水が開始された年でもあった(銅山川ダムは昭和二八年に完成)。
 さらに、昭和二六年には、朝鮮戦争のブームに乗じて、大王製紙は、二台目の長網ティッシュマシン(七号機)と八八インチ長網ヤンキー抄紙機(八号機)とを矢継ぎ早に増設している。
 結果からいえば、これらは早とちりですぐに使えなくなってしまうのであるが、この向こうみずの積極果敢の経営姿勢が今日の大王製紙を築いてきたということができる。というのは、このころから新聞社には高速輪転機が導入され、高速に耐える丈夫でインキ乗りのいい中質紙が要求されるようになり、チリ紙を抄くティッシュマシンでは用をなさなくなったからである。ティッシュマシンが抄くザラ紙では、これから本格的に需要が高まってくる新聞用紙には到底向かないことがはっきりした。しかし、この時も、伊勢吉の対応は敏捷で、昭和二七年から二八年にかけて、朝鮮戦争後の不況で紙の売れ行きが悪くなる時期であったのにもかかわらず、七号機のフォドリニア抄紙機への改造を手始めに、六号機・五号機の改造をやり遂げてしまうのである。この間、資金繰りは極端に苦しく、上分工場を処分したり、朝日新聞社から三、〇〇〇万円の融資を受けたり、主力銀行の伊豫銀行にも無理な融資を頼みこんだりして悪戦苦闘のすえ調達した。
 この時期の設備投資として最も重要なものは、三島工場のクラフト・パルプ設備の新設である。昭和二八年一○月に着工し、翌年の夏に完成した。二〇立方㍍の木釜二基とスメルターボイラーとを主体とするこの設備には一億円の巨額を要したが、同社の西条工場を西日本パルプに買却した六、〇〇〇万円をもとにし、伊豫銀行の融資を仰いで建設された。井川伊勢吉は、すでに昭和二四年に、国内でまだ手がけられていないクラフト・パルプの優秀性に着目し、樺太工業系の経験者(後の大王製紙常務取締役長沢漸を含む)を引き抜いて調査立案したことがあったが、興銀の反対にあって実現しなかったいきさつがあり、念願のクラフト・パルプエ場であった。
 昭和二九年、パルプから製紙に至る一貫設備は、三島工場に集中され、大王製紙株式会社の骨格は、この時に出来上がったといっていい。

 新興製紙の簇生と丸井製紙の倒産

 戦後の仙貨景気の中で、宇摩地方の製紙企業の有為転変は激しい。
 大正八年(一九一九)に創業され、戦前の県下製紙界のナンバー・ワン企業であった株式会社丸井工場は、戦時中の企業整備で井川製紙所などと合併して丸井製紙株式会社となったが、戦後は分裂して、昔日の力を失ってしまった。昭和二一年には、丸井製紙第二工場(金生)が丸住製紙株式会社として分離し、昭和二二年一月には、もと井川製紙所の丸井製紙第四工場(川之江)が井川一次郎工場として分かれた。昭和二二年一〇月には、丸井製紙の元工場長三木軍次が独立して、三木製紙(のちに三木特種製紙)を起こしている。
 宇摩地区の製紙企業で仙貨紙ブームの時期に創業され、今日の隆盛を招くことができた企業は少なくない。三木特種製紙も最も成功した企業の一つであるが、昭和二二年一〇月、時を同じうして森実製紙(川之江)が発足し、その専務取締役高原勇太郎が国光製紙を起こし、ずっと後に一族でユニ・チャームを創業することになる。
 現在活躍中の機械抄製紙企業のうち、この時期に創業されたものには、丸三製紙(昭和二一年二月)、大西登製紙(昭和二一年八月~昭和五六年倒産)、長優製紙(昭和二二年七月)、オリエンタル製紙(昭和二二年八月)、服部製紙(昭和二二年一一月)、泉製紙(昭和二三年三月)などがある。
 丸井製紙は、朝鮮戦争後の不況で経営不振におちいり、昭和二八年一一月、工場閉鎖に立ち至った。最後に、二五〇人を超える従業員に対する賃金や退職金の支払いにもこと欠き、在庫の製品・原料を処分してこれに当てるありさまで、再起不能となり、伝統を誇った名門企業も倒産に追い込まれた。
 他方、丸井製紙から分かれた丸住製紙は、昭和二六年には三和パルプ金生工場を買収して丸住製紙第二工場とし、さらに第一工場に七四インチ長網抄紙機を新設して新聞用紙の生産に乗り出すまでに成長した。昭和二九年四月、この丸住製紙株式会社(社長星川今太郎)が、かつてはいっしょだった丸井製紙の倒産工場を買収して丸住製紙川之江工場とした。
 紙不況は容赦なく吹き荒れ、昭和二九年には、大王製紙でさえ資金繰りに行き詰まって、主力の伊豫銀行から全役員の辞任を迫られるという危機的状況におちいった。この年の六月、かつて仙貨紙景気でわが世の春を謳歌した大西製紙が不渡手形を出し、工場が閉鎖されるという衝撃的事態を生じた。結局、大西製紙は、債権者の山陽パルプの手に落ちて、その子会社となり、四国製紙三島工場として経営されることになった。

 タオルの復興

 愛媛県下のタオル製造業は、南予の酒六日土工場(織機一一三台)が戦災にあわず無傷で残ったが、今治のタオル工場は戦災でその九割近くを失い、終戦当時生き残った工場は九工場(織機二七五台)にすぎなかった。
 戦時中に、今治地区のタオル業界は三つの工業施設組合に統合されており、このうち、藤高豊作(織機九六台)、宮崎研一(五一台)の大手二社で結成された第一工業施設組合は戦災で全滅した。第二工業施設組合は被災工場五、残存工場六、第三工業施設組合は被災工場七、残存工場三という惨状であった。市内の工場はほとんどが焼失し、乃万村(現今治市)の木原タオル・楠橋タオル・波止浜の今井タオルなど郊外の工場が残った。
 しかし、タオルは、国内用として生活必需品であり、その上、輸出産業としても重視されることになり、その復興が急がれた。当時のわが国は戦争による農地の荒廃で食糧不足が甚だしく、緊急に食糧を輸入するよりほかなかった。ここで占領軍と日本政府が採った政策は、食糧の輸入代金としての外貨を獲得するために繊維工業を輸出産業として奨励することであった。このころアメリカが大量の余剰綿花をかかえていたことも幸いして、見返り輸出を条件に原料が割り当てられたのである。
 タオル用原糸は、日本繊維協会より日本タオル製造統制組合を通じて各産地の工業施設組合に割り当てられ、製品のタオルは、各府県の配給統制組合を通して一般消費者に配給されるという統制下におかれていた。輸入原料は貿易庁の管轄下にあり、それを使用した見返り輸出のタオルは、占領軍の指示に基づいて神戸輸出協会を経て輸出された。
 今治地区のタオルの復興については三か年計画が立てられ、第一年度に戦災工場の復元を優先し、第二年度以降に転廃工場を復元させるという内容のものであった。また、関連施設の今治染工株式会社・今治糸染晒工業施設組合の工場を焼失したので、後晒タオルの加工施設としてこれらの復興を急ぐことになった。けれども、資材・資金などの不足で復興の進捗は思うに任せなかった。業者、関係者の努力で被戦災工場・転廃工場の復元が完成したのは昭和二四年(一九四九)三月末のことである。

 ジャカード織機の普及と輸出ブーム

 今治タオルの復興に関して注目すべき点は、織機の復元に際してジャカード機の新設に意を用いた点である。今治地方には、戦前から一部に紋タオル用ジャカード機が使用されており、そこで培われた経験がジャカード織機の重視という方向を明確に打ち出させることになった。戦後の物不足で何でも売れる時期に高級技術をはっきりと志向したことは大局的視野に優れていたというべく、これによって今治のタオルは日本一の産地となることができたのである。なぜなら、タオルの先進地大阪と三重では織機の改善が遅々として進まず、戦後完全に愛媛に追い抜かれてしまったからである。昭和二四年度には、愛媛県のタオルは全国輸出タオルの約八〇%、高級紋織タオルの実に九五%を生産するまでになっていた。
 今治のジャカード機は、口数が戦前の、二〇〇口・四〇〇ロという小口のものから、戦後はすべて六〇〇口・九〇〇口という口のものへ移行し、楠橋紋織工場には一、三〇〇ロのバンサンジー式織機が出現した。また、タオル製織自動化のための杼換装置も早くから普及し、昭和二四年(一九四九)一〇月には、今治地方の二三工場に二八二台の杼換装置が設置され、うち一一〇台は四挺式の杼換装置であった(表工4-6)。
 タオル製品のジャカードによる高級化の一つの隘路は、撚糸・紋紙などの関連部門にあったが、今治の業者は、昭和二四年に今治タオル輸出協同組合を結成し、撚糸・紋紙の共同作業場を開設して対応のす早さを見せた。
 復興当初のきびしい原糸割当制のもとで、原糸の入手が困難な中で操業を維持していくには、輸出ものの生産が大きな役割を果たした。輸出比率が高かった昭和二二年には、今治のタオル生産(金額ベース)の四七・八%が輸出され、昭和二四年にはその七一・三%が輸出された。昭和二五年春には、高級ジャカードタオルの輸出がさらに伸び、朝鮮戦争による特需ブームに乗って、今治のタオル業界にガチャ万景気が到来した。今治のジャカード製品の優秀性はポンド切り下げの影響もほとんど蒙らなかったという。

 調整組合による生産制限

 昭和二五年(一九五〇)一〇月、折から特需景気のさ中にあって、織機の設備制限が統制からはずさ、タオルの生産能力は急増する。この時期、全国の綿紡績設備は、昭和二四年の三七〇万錘から昭和二五年の四三〇万錘、昭和二七年の七五〇万錘へと急テンポで増加し、綿糸生産量も、昭和二四年の三億五、〇〇〇ポンドから昭和二七年の七億五、〇〇〇ポンドヘ倍増した。これによって最大の隘路だった原糸の供給不足が解消されることになり、タオル設備の増設と新規参入が殺倒した。今治地区のタオル工場数は、昭和二四年四月の四六工場から昭和二七年八月の一一三工場へ、同じく織機台数は、一、二六三台から三、八一八台へと三倍に膨張している。
 朝鮮戦争の終結とともに、わが国は深刻な不況に陥り、タオル工業の設備過剰が未曽有のスケールで表面化した。ガチャ万は今やガチャ厘になり、コラ千はコラ損となった。
 昭和二七年八月、苦況にあえぐ繊維工業などの中小企業を救済するために、中小企業安定法が公布された。なかでも、タオル製造業は緊急の措置を最も必要とする業種であり、とり急いで同法に基づく調整組合が結成される運びとなった。大阪・中四国・中部・九州の四地区にそれぞれ地区別の調整組合が結成されたが、宮崎研一理事長を擁する中四国タオル調整組合は、トップを切って八月一五日に創立総会を開いている。これら産地別調整組合の結成を受けて、同年一二月に全国組織としての日本タオル調整組合連合会が発足した。
 日本タオル調連は、発足早々「総合調整計画」(昭和二七年一二月一一日認可)を、通産局と各府県の協力のもとに実施に移した。それは、織機の三割を封印し、原糸割り当てによる生産制限を行い、新規増設を全面禁止するという内容のものであった。しかし、中小企業安定法では、適用が調整組合員に限られた上に、組合への加入・脱退が自由だったので、アウトサイダーの競争によってその効果がほとんど無力化されてしまった。アウトサイダーの新規参入と無計画なフル操業とによってタオルの市価が暴落したのである。昭和二八年秋には、全国随一のタオル問屋天野吉株式会社が倒産し、産地今治が蒙った被害は一億円(丸三タオル四、六〇〇万円・楠橋タオル三、○○○万円など)にのぼるといわれた。
 中小企業安定法第二九条にはアウトサイダーに対する調整命令の規定があり、タオル業界からの要請は、この条項の発動による過当競争の排除であった。しかし、戦後の通産行政の流れとして、強制カルテルに対する消極的空気が強く、惨憺たる業況をよそに二九条の発動に至るまでに一年半の紆余曲折を要している。タオル製造業はアウトサイダー規制の最初のモデルケースとして採り上げられたが、中小企業安定審議会を経て、設備のみについて新規参入の規制が認められた(生産制限は認められず)のは、実に昭和二九年六月二五日のことであった。けれども、アウトサイダーに対する設備制限命令だけでは到底タオル業界を不況から脱け出させることができず、結局は生産制限命令の発動がなされざるをえなかった。これが認められたのは、中小企業庁によるタオル製造業の実態調査の結果を待って、さらに一年有余を経た昭和三〇年一〇月の中小企業安定審議会においてであった。この発動も、タオルが最初のケースであり、業界関係者の熱意によってもたらされたものであった。
 中小企業安定法実施の際の機動性の欠如については当初から多くの批判がなされてきたが、長い目で今治のタオル製造業の発展をかえりみれば、これによって織機の登録制が継続的に実施され、業界の安定に大きく寄与してきたのであるから、この時期に中小企業安定法のアウトサイダー調整命令が発動された意義はきわめて大きいといわなければならない。

表工4-4 愛媛県機械漉和紙設備の推移

表工4-4 愛媛県機械漉和紙設備の推移


表工4-5 愛媛県機械漉和紙の品目別生産量

表工4-5 愛媛県機械漉和紙の品目別生産量


表工4-6 今治タオル・ジャカード機設備復元状況

表工4-6 今治タオル・ジャカード機設備復元状況