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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

四 住友財閥解体から商号復活まで

 住友本社解散

 財閥解体は、日本の軍事復活を封じるアメリカの占領政策の重要な柱であった。四大財閥(三井・三菱・住友・安田)の一角をなす住友財閥は、占領軍の意向にしたがって自主的に解散の準備を進めていった。昭和二〇年(一九四五)一二月には、家長住友吉左衛門が住友本社代表の地位を退き、昭和二一年一月二一日には、総理事古田俊之助など六名の理事が辞任した(残務処理のため常務理事田中良雄のみ留任)。
 昭和二一年九月、住友本社は持株会社としての指定(第一次)を受け、その所有する一切の証券と傘下諸事業会社に対する一切の所有・管理・利権とを持株会社整理委員会に移管し、同委員会の措置にゆだねることになった。昭和二二年三月には住友吉左衛門と住友分家三名が財閥家族として指名され、その所有する有価証券のうち持株会社整理委員会が必要と認めるものを同委員会が譲り受けて、後日、従業員に時価で売却するなどの方法で処分した。住友家族四名が所有していた有価証券は、住友吉左衛門の二億六、五三五万円など合計三億一、四九六万円にのぼり、持株の集中(持株率一〇%以上の株式所有)という点では、住友家は三井家・岩崎家(三菱)を上回っていた。
 住友本社の直営事業は本社から切り離され、鉱山部門は昭和二二年八月井華鉱業へ譲渡、林業部門は分割されて昭和二三年二月四国林業など六社が設立された。このようにして、住友本社は、昭和二三年二月二八日をもって解散した。

 住友系列企業の解体

 住友財閥傘下の事業会社のうち、持株会社に指定(第三次)されたものは、井華鉱業・扶桑金属工業・日本電気・日新化学工業・住友電気工業の五社であり、これらは規模が大きかったために過度経済力集中排除法の指定企業となった。しかし、実際に分割を命ぜられたのは井華鉱業だけであった。
 これよりさき、財閥復活防止策の一環として財閥商号・商標の使用が禁止されたため、住友系各企業は社名の変更を行った。昭和二〇年一一月には、住友通信工業が日本電気に、住友金属工業が扶桑金属工業に改称した。新居浜関係では、昭和二〇年一二月に住友機械工業が四国機械工業、昭和二一年一月には住友鉱業が井華鉱業、二月には住友化学工業が日新化学工業と改称した。井華鉱業は明治以来の住友の機関紙「井華」に由来しており、泉家の家紋の井桁にちなんだ名称である。日新化学は「大学」の「日に新たなり」を典拠として名づけられた。
 日新化学工業は、持株会社に指定されて後、その所有する住友多木化学工業・神東塗料・日本カーバード工業など系列会社の株三、一四七万円(所有総額の五六・八%)を持株会社整理委員会へ移譲し、系列会社との間の資本関係を失った。また、系列会社との間の役員の兼任も禁止されたので人的関係も薄れてしまった。
 井華鉱業は、佐々連鉱業・惣開造船など五社の株式の五〇%以上を所有し、五社以外にも一二社の株式の一〇%以上を保有していたが、これら系列会社の株三、三四五万円(所有総額の七七・七%)を持株会社整理委員会に譲渡した。さらに井華鉱業は、九つの金属鉱山をもち、銅精製能力が全国シェアの二割近くを占め、その上、一三の炭鉱を有していたので、過度経済力集中排除法の適用を受けて、金属部門と石炭部門とを分割することになった。昭和二五年(一九五〇)三月一日、当時花形の石炭部門が井華鉱業株式会社(資本金二億九、〇〇〇万円)となり、金属部門と佐々連鉱業株式会社とが合併して別子鉱業株式会社(資本金三億一、〇〇〇万円)となり、建設部門が別子建設株式会社(資本金五〇〇万円)として、また、調度事務所が別子百貨店(資本金六〇〇万円)として設立された。旧井華鉱業は、住友財閥連系企業の中でただ一社、分割指令を受け、結局、四つの新会社に分割されたことになる。

 日新化学硫安生産の再開

 食糧不足の解消のためには肥料の供給が不可欠であったから、戦後の工業復興において肥料の生産再開は最大の重点であった。終戦時、わが国の硫安工場は爆撃などにより壊滅状態にあり、加えて、原料と資材の不足で生産の再開はきわめて困難であった。
 住友化学工業(のちに日新化学工業)は、戦後わが国で肥料生産にこぎつけた最初の工場であるという栄誉をになっている。新居浜製造所は、昭和二〇年九月下旬にはコークス炉・合成塔の補修を終え、手もちの硫酸で一〇月から月産二、〇〇〇㌧程度の硫安の製造を始めた。新居浜製造所の硫安設備は戦災を免れ、全国の工場の中でも設備の復旧が最も早かったので、昭和二一年一〇月には月産一万㌧を記録した。これは、年産一二万㌧の生産ペースに当たり、戦前の新居浜製造所の硫安生産のピークが昭和一六年の一四万㌧だったのだから、早ばやと戦前水準に復帰したことになる。当時の原料不足・資材不足の中で、硫安の生産復興がいち早く達成されえたのには、全国民を挙げての肥料生産への期待が集まっていたからだというべきであろう。当時の硫安の出荷はカマス詰めで、この力マスの不足もひとつの隘路であった。筆者も、昭和三〇年ごろに新居浜製造所で硫安のカマス詰めの現場を見たことがあるが、縄で梱包する作業はひとつひとつ手作業で、鎌を腰にたばさんだ汗だくの労働者(臨時工・雇員)の手つきの鮮やかさと素早さとが目に浮かんでくるようだ。
 昭和二一年の年末から、政府は、鉄鋼や石炭とならんで肥料に対してもこれを優先する傾斜生産方式をとり、農林中央金庫、ひき続いて復興金融公庫から設備資金と運転資金の融資がかなり潤沢になされた。日新化学が受けた融資額は、昭和二三年末までに一億八、〇〇〇万円にのぼった。
 日新化学の戦後の硫安生産量は表工4-7のとおりであるが、昭和二三年には年産一二万六、〇〇〇㌧を達成し、新居浜製造所は生産量全国一位の座を占めた。この年、二位は宇部興産宇部の一一万五、〇〇〇㌧、三位は東洋高圧大牟田の九万七、〇〇〇㌧などとなっており、新居浜は全国硫安生産量の一三・八%を生産した。翌昭和二四年には、新居浜の生産量は戦前のピークを越えて一四万九、〇〇〇㌧に達し、昭和二七年には、二三万六、〇〇〇㌧と戦前に比べて生産能力がほぼ倍増した。
 日新化学は、過燐酸石灰の生産復興にもつとめたが、硫酸の不足が深刻であり、これを重点的に硫安の生産へ回したので、新居浜製造所での戦前水準の回復は大幅に遅れ、昭和二七年にはまだ旧に復していない。

 菊本工場のアルミ生産再開

 硫安とは異なり、アルミニウムは戦略物資であり、アルミニウム製造工場は賠償施設として撤去されることになっていた。だが、極東情勢の変化に伴い、昭和二三年三月、ストライク報告が発表されて、アメリカの対日賠償方針が大幅に緩和され、日本軽金属協会の要望どおり民需用最低量として年産アルミニウム二万五、〇〇〇㌧、アルミナ五万五、〇〇〇㌧の設備が認められた。これを日新化学・日本軽金属・昭和電工の三社にふり分け、日新化学は、アルミナ二万四、六〇〇㌧、アルミニウム一万二、〇〇〇㌧の設備復旧について占領軍の許可を得た。原料のボーキサイトの輸入も認められ、菊本工場では昭和二三年の夏からアルミニウムの生産にはいった。
 アルミニウムは基礎物資として価格の安定をはかるために国庫から価格差補給金が支出されていたが、昭和二四年四月、ドッジラインの設定とともに打ち切られてしまった。追い打ちをかけるように昭和二四年一○月からは、アルミニウムの価格統制が廃止され、不況による売れ行き不振でアルミ業界は苦況に陥った。
 日新化学は、戦時中住友共同電力の電力設備を日本発送電へ強制出資させられて、自家発電設備をもたなかったから、設備を有する日本軽金属に比べて生産コストが昭和二四年時点で二万四、〇〇〇円も高く、大幅な赤字であった。財閥解体の一環として、日新化学の化学部門とアルミ部門の分離が計画されていたけれども、このような状態ではアルミニウム製錬部門だけ独立して経営を維持することは到底無理であった。というわけでアルミ部門は、住友共同電力の発電設備の返還があれば、新会社として日新化学から分離するが、それまでは日新化学の一事業部門として経営されることになった。
 日新化学菊本製造所は、このピンチを乗り切るため、技術面の改良と人員の削減によってコストの引き下げをはかった。アルミナの製造について、従来のバイヤー法に代わる全く新しい連続製造法を考案した。それは、ボーキサイトの焙焼工程と粉砕工程の両者を省き、原料のまま苛性ソーダで溶解してアルミナを連続抽出するという画期的な方法で、コストダウンに大きく貢献した。また、昭和二五年には、菊本製造所で希望退職を募り、一、〇二六人の従業員のうち一六〇人を減じた。このようにして菊本製造所のアルミニウムの製造コストはトン当たり一六万円から一挙に一三万円へ引き下げられた。さらに、朝鮮戦争によってアルミニウムの需給が逼迫し、販売価格もトン一二万円から一八万五、〇〇〇円に上昇し、菊本製造所の収支は黒字に転じ、累積損を一掃するまでになった。

 菊本製造所 塩化ビニール樹脂に着手

 日新化学は、戦時中から合成ゴムの研究を手がけており、その技術と装置とを利用して、戦後すぐに新居浜で塩化ビニール樹脂の事業化にとりくんだ。
 このころの塩化ビニール樹脂は、カーバイドと塩素とを原料としていたが、カーバイドも塩素も、日新化学の製造品目であった。カーバイドは、入手の容易な国産の石灰石から製造することができ、塩素も苛性ソーダの副産物として過剰気味だったので、これらの活用策として政府も合成樹脂の生産を奨励した。研究と改良を重ねて、菊本製造所で昭和二五年から日産一〇〇キログラムの実験プラントを開始、その結果がきわめて良好だった(国産品中最優秀品と電気通信研究所の折紙つき)ので、菊本製造所で企業化を企てた。新居浜製造所の食塩電解設備を移設改良して、昭和二六年の夏までに苛性ソーダ月産一六○㌧の設備と塩化ビニール樹脂月産二五㌧の設備とを完成した。これは、アルミナ製造用の苛性ソーダの自給を可能にし、菊本製造所のアルミニウム生産の採算を大きく改善する一因にもなった。
 しかし、菊本製造所の塩化ビニール樹脂そのものは、昭和二六年ごろから、アメリカから新製法がもたらされてこれと競合することになってしまった。アメリカとの合弁で開始された三菱モンサント・日本ゼオンの二社の新製品は品質が優れている上に製造コストが安く、菊本製造所などの旧製品は苦況に立たされることになったのである。

 住友商号復活

 対日講和条約の発効とともに、昭和二七年(一九五二)五月、財閥商号・商標使用禁止等の政令が廃止され、旧財閥の商号が復活することになった。この年の五月には四国機械工業が住友機械工業に、六月には別子鉱業が住友金属鉱山に、八月には日新化学工業が住友化学工業に改称され、新居浜における住友三社の名前が揃った。時を同じくして、住友銀行・住友信託銀行・住友海上火災保険・住友生命などの金融機関の商号も復活し、金融系列としての住友グループが名実ともに形成されていった。新居浜の住友三社は、住友直系一一社の社長会として戦後発足した「白水会」には当初からの重要メンバーとして参加している。

 住友機械の経営危機

 朝鮮戦争後の不況が愛媛県下の製紙・タオルなどに深刻な打撃を与えたことはすでに述べたとおりであるが、新居浜でも住友機械工業が経営不振に陥った。
 住友機械は、当時、総合機械メーカーというよりは鉱山機械・サイクロ減速機・クレーンなど特定の産業機械を得意とする専門色の強いメーカーであり、製作技術の面でも販売市場の面でも偏りがみられた。加えて、戦時中に兵器生産のための特殊大型鋳物工場・特殊金物工場を設備したものが、戦後需要の変化によって遊休化し、過剰人員をかかえたままであった。朝鮮戦争の「動乱ブーム」が去った昭和二八年以降、住友機械の業績は急速に悪化した。同社の欠損は、昭和二九年三月期に一億三、八〇〇万円、同九月期に一億三、一〇〇万円、そして昭和三〇年三月期には何と五億六、七〇〇万円にのぼった。これに対処するため、住友機械では八五〇人の人員削減を行う再建案を提示したが、労働組合の抵抗によって四八六人の希望退職を募るにとどまった。
 「白水会」はこの事態を重視し、住友銀行・住友信託銀行・住友化学工業・住友金属工業の四社社長から成る住友機械再建小委員会を組織し、この小委員会がよりドラスチックな再建策を練り上げた。それによれば、住友機械の鮫島社長ほか、これまでの取締役会を総入れ替えして、住友銀行・住友信託銀行・住友金属鉱山・住友化学・住友商事などから重役陣が送り込まれ、住友銀行と住友信託銀行の両行は、金利負担分を含めて多額の融資を同社に対して行った。そして、住友系列各企業は、住友機械の株式を大量に取得して積極的応援の姿勢を示すとともに、営業面でも住友機械への発注を優先した。さらに六二〇人の人員を削減して、合わせて一、〇〇〇人を上回る人員整理を断行して、住友機械を危機から救ったのである。
 住友機械の経営危機は、戦後の住友資本系列の結集力を示すものとして世間の耳目を集めた。

表工4-7 住友化学新居浜製造所の硫安生産量の推移

表工4-7 住友化学新居浜製造所の硫安生産量の推移


表工4-8 住友化学アルミニウム地金生産量の推移

表工4-8 住友化学アルミニウム地金生産量の推移