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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

五 重化学工業化―機械・金属

 住友機械工業の再建

 住友機械工業は、昭和三〇年の経営危機を住友系資本から成る再建小委員会のテコ入れによって脱出した後、再建の道を歩んだ。同社の売上高は、昭和三〇年三月期(半期)の一一億五、○○○万円を底に、昭和三七年三月斯(半期)には九五億一、〇〇〇万円に達した。だが、昭和三八年の不況で売上高は下降し、昭和三九年九月期(半期)に九六億二、〇〇〇万円となり、やっと昭和三七年二月期の水準に回復した。
 住友機械工業は、クレーンの製作を得意としていたが、それを除けば、鉱山・鉄鋼向けの機械設備が中心で、製品に偏りが見られ、景気変動の波を大きくかぶりやすかった。その弱点をカバーするために、同社は多角化によって製造品目の種類を増やし、産業機械の総合メーカーへ脱皮しようとした。ただ、同社の既設設備との関係から、鉱山機械・クレーン・コンベヤーローダーなどの一般産業機械は新居浜製造所で担当し、新しく多角化した品目の多くは、新設の大府製造所(昭和四二年名古屋製造所と改称)で担当することになった。だから新居浜製造所だけをとってみれば、それほど製品が多様化したわけではない。
 戦後の技術導入の第一号ともいうべきサイクロ減速機(昭和二七年西ドイツ、サイクロ・ゲトリーベバウ・アーゲー社より導入)は、大府製造所の精機事業部で、建設機械は大府製造所の建機事業部で、バイエル無段変速機は、四日市の冨田機器製作所(系列工場)で、ポンプ類は西宮市の日本水力工業(系列工場)で製作した。新居浜事業所には、鋳鍛事業部を設けて、製鋼用ロール・鋳造鍛造部品などの技術開発に力を注いだ。
 昭和三〇年代の住友機械工業の外国からの技術導入は一五件に及び、建設機械では、昭和三六年にイタリアのピレリー・ソシェタ・テル・アツィオーニ社からタイヤ成型機、昭和三八年にアメリカのリンクベルト・スピーダー社からパワーショベル、同年西ドイツのラインシュタール・ハノーマグ・アーゲー社からブルドーザー、昭和四三年にアメリカのイートン・イェール・アンド・タウン社からゴムタイヤ式トラクターショベルなどを次々と導入している。新居浜事業所の鋳鍛事業部関係では、昭和三一年にカナダのカナディアン・ニッケル・プロダクツ社からマグネシウム含有鋳鉄、昭和三六年に西ドイツのフリード・クルップ・インドストリーバウ社からLD転炉・混鉄炉・平炉・電気炉、同年スイスのブラウン・ボベリー社から電気炉の技術を導入して、品質の向上と工程の合理化をはかった。
 昭和四〇年三月末の新居浜事業所の機械装置の明細は表工4-16のとおりで、新居浜製造所が住友機械工業の主力工場であることに変わりはない。
 昭和四〇年三月期(半期)の機種別生産実績は表工4-17のとおりで、一般機械が八割近くを占めている。その他、機械の中に建設機械が含まれるが、この時期には、まだほとんどウエイトを占めていない。比重が最も大きい運搬機械は、各種クレーン・コンベヤー・ローダーなどであり、次いで大きい金属加工機械は、圧延機・メッキ設備・各種プレスなどである。量産機器には、サイクロ減速機・バイエル無段変速機・ポンプなどが含まれ、同社の生産実績の二割強にまで成長してきている。このように、斜陽の鉱山機械部門を抱え、建設機械では後発メーカーであり、高度成長の昭和三〇年代を経過した時点でも、住友機械工業は総合機械メーカーとして、それほど強力な企業には成長していなかった。
 むしろ住友系資本集団としては、重工業部門の弱体が意識されていて、昭和三九~四一年の不況期にそれを強化するチャンスが訪れたといっていい。建設機械部門の強化としては、昭和三九年一一月末、日本特殊鋼の倒産に際して、その子会社日特金属工業に対する持株を譲り受け、役員を派遣してこれを系列下に組み入れた。日特金属工業はブルドーザーを生産しており、同社の系列化は住友機械のブルドーザー進出への布石となった。昭和四〇年八月には、赤字転落した繊維機械メーカー、日本スピンドル製造を完全に系列化に収め、住友機械出身役員を社長に据えるとともに不況打開策として、住友機械のロータリークレーンの下請生産を始めた。また、住友機械工業は、この時期にプラスチック成型機・水処理装置の外国技術の導入をもはかって、需要増加が見込まれる製造品目へ、さらに展開をはかった。
 この時期の住友機械工業の最大の動きは、住友系企業集団の総力を挙げての浦賀重工業再建に対する支援であった。昭和四〇年五月、川崎重工業が保有する浦賀重工業株式を住友機械が肩代わりし、役員を派遣して、住友系企業集団に欠ける造船部門への進出を果たすことになった。昭和四四年六月には、当時、蛙が蛇を呑み込むと噂されたのだが、住友機械工業が浦賀重工業を吸収合併し、住友重機械工業株式会社と名称を改めた。

 新居浜地区の鉄工業

 新居浜地区に中小鉄工業が集積したのは、機械の製作・加工が住友各社の下請企業として発達してきたからである。
 * 東予地区の鉄工業に関しては、新産業都市計画に関連して、昭和三九年三月、愛媛県の手で実態調査報告書(調査時点昭和三七年一〇月一日~昭和三八年九月三〇日)が公刊されている。中小企業の実態については捕捉するのが難しく、この調査は悉皆調査という点でも一層貴重なものだと考えられる。鉄工業というのは範囲がはっきりしないが、大部分を機械製造業と金属製品製造業とで構成すると考えてさしつかえない。
 昭和三八年時点で、新居浜地区には中小鉄工業は八四社あり、そのうち住友との下請関係にある工場は六五社に及び、独立企業は一九社にすぎない。新居浜地区中小鉄工業の親企業向け年間出荷額は二二億九、一五〇万円に達している。この時は、不況期で親企業からの受注が大幅に減った年であり、昭和三六年の親企業向け売り上げ二九億七、二八三万円と比較すれば、二三%もダウンしている。つまりこの調査は、住友への依存度が比較的低下した時期の数字を示しているということである。住友機械工業の下請の多くは賃加工だから、材料費・営業費を含めた通常の出荷額ベースに換算すれば、親企業向け出荷額のスケールは著しく大きいものとなる。これらの事情のもとでなお、新居浜市の中小鉄工業の総出荷額三四億〇、一一三万円に占める親企業向け出荷額の比率は六七・四%を占め、住友への依存度がきわめて高いことを示している。
 新居浜地区の下請企業は、①住友機械下請、②住友化学下請、③再下請、④その他下請の四つに分類することができる。

 新居浜鉄工業協同組合

 住友機械工業の下請企業は、クレーン・コンベヤーとその部品製作及び一般機械部品加工を行う企業群で、新居浜鉄工業協同組合(昭和二四年八月設立)を結成して、共同受注や切断機などの共同施設を運営していた。住友機械工業との協力関係は、戦時中に鉄工業協同組合(昭和一三年五月設立)が編成されたのに発していて、長い歴史を有している。住友機械工業と下請企業との関係は密接で、専属下請の形のものが多かった。
 新居浜鉄工協同組合には、正会員三六社が加盟し、新居浜市内二八社のほか、西条市三社、丹原町五社にまたがっていた。比較的大手の尾部機械設備・高橋鉄工所・新居浜鉄工所などは、住友化学の下請をも兼ねていた。精密機械部品の寺町鉄工所(丹原町)も正会員であった。住友機械工業の合理化に合わせて、下請企業も最新鋭の設備投資を行ったが(一工場で数千万円を投じたところもある)、不況に際して、住友機械の受注が減り、単価は据え置かれたままなので、採算の悪化と資金繰りとに苦しむことになった。しかし、加工精度の高い機械や特殊加工の機械を備えた企業は、不況期でもある程度の受注量を確保することができたから、中堅企業と零細企業との間の格差が歴然となった。この不況を契機に、住友機械工業の下請企業に対する専属的支配関係は大きく動揺することになった。比較的大手の企業は、住友全面依存からの脱却をめざす動きを示し、小松製作所や新三菱重工業などからも受注を開始したのである。

 日新機工協同組合

 住友化学の下請企業は、化学プラントの機械設備の下請をする企業群で、関連して製缶の仕事も多い。住友化学の設備投資に従って発注がなされるので、不況期に住友化学が設備投資を抑えれば、受注量は極端に減ることがおこりうる。比較的大手の下請企業が新居浜鉄工業協同組合の組合員を兼ねたのは、受注変動の危険を分散するためであった。
 住友化学の下請企業は日新機工協同組合(昭和二五年三月設立)を結成し、共同受注、共同倉庫の運営に当たった。組合員は二四社で、すべて新居浜市内の企業で構成された。三好鉄工所も日新機工協同組合に属し、当時は個人経営で住友化学の機械据え付けを担当していた。一方、住友化学は、昭和三七年七月に、業者に広く公平に競争の機会を与えるという名目で日本プラント工業株式会社を設立した。そして、これまで本社が直接行っていた下請企業への見積もり・発注・検査をこの中間会社に代行させた。
 この調査当時、住友化学は一一八億三、〇〇〇万円の設備投資計画を有し、そのうち約一〇%が地元の下請企業へ発注されるものとみられていた。その中では、既に述べた日本ラクタムの工場新設が三一億五、〇〇〇万円と最大であり、大江製造所のポリプロピレン増設二〇億円、菊本製造所の塩化ビニール増設一二億五、〇〇〇万円などが含まれていた。しかし、これらの新増設計画が一段落すれば、新居浜地区での設備計画はなく、日新機工協同組合の組合員は将来の受注に関して不安を抱いていた。
 住友化学の下請の不定期的性格から、住友化学の下請企業に対する専属的締め付けは住友機械工業ほどきつくなかった。日新機工協同組合企業は、水島や大阪の大企業からも一部発注を受けたが、再下請の形になるなど取引条件が悪くなるという難点があった。下請企業の場合、独自の製品を開発する意欲も経験も乏しいのが一般的通弊であるが、中堅企業の中には、尾部機械設備の特殊クレーン・高橋鉄工所のサッシュ・萩尾鉄工所のプロパン容器のように自社製品の開発が軌道に乗ったところもあった。

 新居浜工業協同組合

 昭和三六年六月、住友の再下請工場が集まって、新居浜工業協同組合を結成した。新居浜鉄工業協同組合・日新鉄工協同組合のいずれにもはいれないような零細企業が、共同受注による経営体質の強化を目的に組織されたが、組合の力が弱く、結成当初四五社を数えたのが二年ほどの間に三二社へ減少してしまった。昭和三八年一〇月現在の名簿によれば、仕上(機械加工)一四社、鉄工(製缶)八社、鋳鍛六社、電機四社から構成されている。この中には一次下請九社が含まれていて、新居浜熟練工業所など三社は新居浜鉄工または日新鉄工の組合員を兼ねていた。新居浜工業協同組合の理事長に一次下請の新居浜熟練工業所社長が就いたのは、一次下請とのパイプを大きくするためだと考えられるが、それにもかかわらず不況による受注減は、再下請工場に対して特にきびしかった。
 ここでも、新規受注開拓を住友以外に求める努力が傾けられたが、独自の技術をもつに至らない零細企業では、その努力もはかばかしく実を結ばなかった。

 井関農機の自動耕耘機

 高度成長期にあって、愛媛県の機械工業の製品中、最もめざましい伸びを示したものは、動力耕耘機だった。昭和三六年の好況期には、出荷額が二八億五、九五〇万円に達し、前年比一・八倍という激しい増加であった。愛媛県の農機具生産の裾野は広く、松山市の井関農機・関谷農機・四国製作所・大西町の安野農機・西条市の近藤農機などの主要工場のほか、部品工場・下請工場も含めれば、このころの農機具関係工場は一〇〇工場を超え、従業者数は約三、〇〇〇人といわれた。昭和三六年の愛媛県農機具出荷額合計は、五七億七、三〇〇万円に達した。
 わが国に動力耕耘機が導入されたのは戦後のことで、昭和二二年に久保田鉄工が製造販売を開始したのが最初である。しかし、動力耕耘機の全国生産高は、昭和二八年になっても生産一万七、〇〇〇台程度で微々たるものであった。耕耘機の普及が本格化するのは、昭和三一年以降の高度成長期で、その増加ぶりはすさまじいものであった。全国生産高は、昭和三〇年三万七、〇〇〇台、昭和三三年一二万五、〇〇〇台、昭和三六年三二万二、〇〇〇台と倍増に次ぐ倍増のペースだった。だが、昭和三七年に四〇万九、〇〇〇台に達した後は、不況で急降下し昭和三九年には三一万二、〇〇〇台に落ちこんでしまった。
 井関農機は、もみすり機・自動脱穀機では業界随一という定評を得るに至っていたが、耕耘機の将来性を見越して、昭和二六年九月、耕耘機の設計にとりかかり、翌年九月には試作機が国営検査に合格した。さらに、性能・耐久力のテストと改良を重ねて、昭和二八年九月、ヰセキ式自動耕耘機KAー1型を松山工場で当初年産二、〇〇〇台を目標に生産を開始した。昭和二八年一一月、東京都足立区にある敷地一万三、〇〇〇坪の日立精機の工場を買収し、ここを動力耕耘機の専門工場に改造して量産にはいった。
 ヰセキ式耕耘機は性能の優秀さを誇り(昭和二九年通産大臣賞受賞)、使い勝手のよさで多くの農民の支持を得た。全国各地に五〇〇店にのぼる特約店を組織し、下売店五〇〇店を加えた約一、〇〇〇店のネットワークを通じて拡販を強化し、また、同社農協部を窓口として全購連の強大な組織を利用するチャンネル販売の方法も採られた。
 とりわけ昭和三五年は飛躍の年で、耕耘機の生産額は前年の一万五、〇〇〇台から六万台へと一躍四倍化した。同社の耕耘機販売実績は、昭和三六年一〇月からの一年間で八万五、五二三台、金額にして一〇七億九、八六〇万円に達し、井関の農機具生産の約七割を占める大黒柱に成長した。昭和三七年の工場別生産では松山工場(耕耘機・もみすり機・草刈機)四四・五%、東京工場(耕耘機)四二・八%、熊本工場(脱穀機・スレッシャー)一一・一%、仙台工場(脱穀機)一・六%という構成であった。昭和三七年五月には、松山に耕耘機組立専門の新工場が竣工したが、皮肉にも耕耘機の生産はこの時期がピークで、昭和三九年の不況期には販売台数六万台、売り上げ六九億八、一六〇万円と大きく落ちこんでいる。同社の純利益も昭和三六年度下半期の五四億円から、昭和三九年度上半期の七、〇〇〇万円へ急降下している。井関農機は国内農家を顧客とするために、作柄の良否、景気の動向などによって製品の売れ行きに大きな波があり、何度も経営不振に見舞われた。
 とはいうものの、この急成長に合わせて、井関農機は資金調達のためにメインバンクの日本勧業銀行とのパイプを太くする一方(昭和三七年、日本勧業銀行取締役坂本元雄が井関農機副社長に就任)、資本金を昭和三一年の五、〇〇〇万円から昭和三三年の倍額増資で一億円へ、昭和三四年には二回の倍額増資で五億円に増やし、株式を公開して東京・大阪両証券市場に上場を果たした。その後も毎年のように大幅増資を繰り返して、昭和三七年には資本金三〇億円の全国的規模の大企業に成長した。この間に、社長井関邦三郎は、昭和三三年、日本農業機械工業会会長、昭和三四年、農業機械海外技術振興協会会長、昭和三五年、日本中小企業団体連盟理事に相次いで就任し、全国にその名を知られるとともに、愛媛県工業クラブ会長、松山商工会議所会頭などを歴任して、井関農機は名実ともに愛媛県を代表する企業となった。

 井関農機の下請の実態

 井関農機の急激な拡張を支えるために、当然のことながら、下請企業の編成がなされなければならなかった。同社は、全国販売網の拡充には資金を投じて力を入れてきたが、生産面では下請企業の遅れと弱体とが目につくようになっていた。井関農機の下請企業は、生産設備の強化と親企業との連関について多くの課題を抱えていた。
 ようやく、昭和三五年一月八日に関係企業一一社が集まって、発展期の井関農機に協力するという趣旨のもとに松山機械工業協同組合が設立された。そのメンバー構成は、表工4-19に示す。これ以外に組合に属さない小企業二五社(再下請にあらず)が井関農機の下請の仕事を行った。また、井関農機が出資し、社長令息が経営する子会社の邦栄工業も包括的下請を担当した。小企業の中には、旋盤一、二台の設備で電話帳にも記載されていない町工場までが動員されていた。松山刑務所の受刑者工場に発注されたこともあった。
 松山機械工業協同組合の組合員で、包括的下請(完成品下請)を行っていたのは四国製作所のみで、他の一〇社は有機的下請であった。四国製作所・邦栄工業の包括的下請は、もみすり機の一貫製作で、必要部品のいくつかは本社の工務課を経て下請企業から流された。有機的下請に出されるものの多くは精度の低いもので、小もの鋳物・部品加工・部品熔接・単部品などであった。精密加工を要するギヤやギヤボックスは、本社で製造された。
 このころ、井関農機の部品下請での最大の隘路は、下請企業からの納入遅延であった。すでに自動車産業などでは部品の在庫管理が時間単位・分単位でコンピューター・コントロールされていたのに比べれば、雲泥の差といわなければならなかった。井関農機本社では工程管理上、四日分の部品在庫を目標にしていたのに、昭和四〇年五・六月分平均では発注量に対して二一・九七%の遅延率を示した。下請企業の中で遅延率の大きいところは、W社七二・二八%、X社四三・七五%、I社四七・一六%、C社四四・〇七%、Y社三一・二五%、Z社二五・七一%で、I社・C社以外は松山機械工業協同組合に属していない弱小企業であり、I社・C社も組合の中では小規模であった。本社工務課では下請企業の部品納入指示表を作り、遅延防止月間を設けて部品納入の円滑化をはかったが、なかなかうまくいかなかった。
 基本的原因は、下請企業の設備能力の不足と、低賃金による労働力不足という生産体制の脆弱さにあった。協同組合員の優良企業山本製作所は、納入遅延とは無縁であったばかりか、井関農機の発注量に対する余力を広島県の東洋工業からの受注に回しており、少なくともこの水準に達していなければ、全国レベルの下請企業とはいえないであろう。
 加えて、いまひとつの問題点は下請企業の経営管理能力の不足であった。受注競争から下請企業が能力以上の過大な受注をしてしまうこと、生産計画など経営の計数的把握が欠けていたことに原因があった。下請企業の実態としては、生産工程以外に人をおく余裕のないところが多く、企業によっては検査部門をもたなかったから、親企業はたえず抜取検査をしなければならなかった。完成品を納入する四国製作所には二名の出向社員が検査のために常駐し、ほかの下請企業にも検査員が本社から派遣された。
 技術面の改良のために、井関農機では、下請工場労務者の本社研修養成を実施し、技術指導員一名を常時巡回させた。この後、井関農機は下請企業の強化を重点目標とし、松山機械工業協同組合を通じて、労働力の確保・設備の交換・工程の系列化・共同事業・金融などの諸課題の解決を図っていくことになるが、昭和四〇年前後の実態は、まだこのようなものであった。

 住友化学のアルミニウム設備増設

 わが国のアルミニウム需要は、建築・自動車・電機など各分野の基礎資材として高度成長の時期を通じて急上昇を続けた。アルミニウム製錬三社(日本軽金属・昭和電工・住友化学)はフル操業しても需要に追いつかず、設備の増設に走った。
 住友化学菊本製造所でも、電解炉を次々と増設して昭和三二年には年産能力一万九、〇〇〇㌧へ拡充し、昭和三五年には年産三万一、〇〇〇㌧ヘ増強した。しかし、菊本製造所の敷地内での増設は限度に達したので、住友化学としては他の土地へ展開することによってなお、アルミニウム製錬設備の増強をはかった。昭和三四年八月、住友金属工業が名古屋のアルミニウム圧延部門を住友軽金属工業として分離するに際して、その隣接地に住友化学のアルミニウム製錬工場を新しく建設した。ここで生産されたアルミニウムは熔融状態のまま住友軽金属へ供給され、アルミ圧延の省力化を高める設計になっていた。昭和三九年の第三斯工事完成によって名古屋製造所の生産能力は四万六、五〇〇㌧となり、菊本製造所のそれを大きく上回った。
 菊本製造所のアルミナ設備は、アメリカのハーベイ・マシン社との長期大量輸出契約もあって早くから大規模化し、名古屋製造所での製錬に要するアルミナもここから供給した。菊本製造所のアルミナ製造能力は、昭和三一年の日産一二○㌧から昭和四〇年の五八〇㌧ヘと約五倍になった。菊本製造所は、住友化学全体のアルミナ供給基地の性格をもち、なおかつ供給余力を保った。
 愛媛県は、この後の住友化学のアルミナ戦略と深いかかわりをもち、それに巻き込まれてしまうことになるので、時期としてはややはみ出すが、簡単に後史を付記しておきたい。
 アルミニウムの需要増加は、昭和四〇年代にはいってもさらに増幅されて、国内供給が大幅に不足する状態が続いた。住友化学は、新居浜市西端の磯浦地区の埋立地一八万平方㍍に、年産能力七万六、〇〇〇㌧という大型のアルミニウム製錬工場を建設し、昭和四四年一一月に完成した。住友化学は、さらに富山県に生産能力一八万㌧という巨大なアルミニウム製錬工場を建設し、昭和四八年一〇月に完成したが、まさにその時に第一次石油ショックが襲った。
 住友化学のアルミニウム拡大策はこれにとどまらず、東予新産業都市建設計画に参加して、昭和四五年二月壬生川町(現東予市)の県営工業団地七四万平方㍍を取得し、ここに世界最高の技術を結集して年産三〇万㌧という途方もなく巨大なアルミニウム製錬工場を建設する計画であった。この工場は、住友化学の全額出資による別会社、住友東予アルミニウム製錬株式会社に属した。だが、建設工事の途中で石油ショックに遭遇し、建設工事は再三中断された。ようやく昭和五〇年三月に計画の六分の一に相当する五万㌧の設備が完成したが、操業開始の時には、そのまた十分の一しか稼動できないという悲惨な状況であった。

表工4-16 住友機械工業の事業所別機械装置

表工4-16 住友機械工業の事業所別機械装置


表工4-17 住友機械工業機種別生産実績第59期(昭和39.10~40,3)

表工4-17 住友機械工業機種別生産実績第59期(昭和39.10~40,3)


表工4-18 東予地区中小鉄工業の住友各社(親企業)別出荷額(昭和37.10~38.9)

表工4-18 東予地区中小鉄工業の住友各社(親企業)別出荷額(昭和37.10~38.9)


図工4-8 愛媛県機械器具主要品目別の出荷額推移

図工4-8 愛媛県機械器具主要品目別の出荷額推移


表工4-19 松山機械工業協同組合企業一覧

表工4-19 松山機械工業協同組合企業一覧


表工4-20 住友化学菊本製造所 アルミナ・アルミニウム生産量

表工4-20 住友化学菊本製造所 アルミナ・アルミニウム生産量