データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

三 伊 予 鉄 道①

 日本最初の軽便鉄道の誕生

 愛媛県内の鉄道事業は、明治二〇年(一八八七)に松山在住の地主であり実業家でもあった小林信近ほか二名により、資本金四万円で設立した伊予鉄道によって、翌年の二一年一〇月二八日に松山(のち外側・現松山市)と三津間四マイル一八チェーン(六・八km)が開通したことに始まる。軌間二フィート六インチ(七六二㎜)の超狭軌であり、日本最初の軽便鉄道として誕生したものである。松山は県下の中心都市であり、古く松平氏一五万石の城下町として繁栄してきたが、この鉄道はその松山が市制をしく前年に開通し、同二五年五月には三津より高浜まで延長した。当時は「陸蒸気」と呼ばれ、のちに漱石の著名な小説に登場してからは「坊っちゃん列車」の愛称で親しまれた。開業当時、民営鉄道としては阪堺鉄道(大阪~堺間、現南海電鉄)があったにすぎず、日本で二番目の鉄道として、鉄道時代の先駆者的役割を演じた。伊予鉄道に続いて両毛・水戸鉄道(のち両社は日本鉄道に買収)、山陽・大阪・讃岐・甲武鉄道や筑豊鉱山鉄道など全国に民営鉄道が乱立したのである(第一次私設鉄道ブーム)。
 伊予鉄道の開通には、発起者小林信近の大変な苦労がある。彼は官有林の払い下げを受けた桧材を松山より大阪に運搬するのに、松山~三津間の一里半(約六Km)の輸送費の方が、三津~大阪間の約一〇〇里(約四〇〇㎞)の船賃より高く、彼の鉄道への関心はこの矛盾の解決に根ざしているといわれる。その後、明治一七年ごろ内務省をへてフランス人、ドコーヴィーユの考案した農場用簡易軌道のことを知り、これを改良し恒久的な公共鉄道として松山に導入することを決め、同一九年一月、彼らは松山鉄道の名称で、松山~三津間の軽便鉄道(彼らはドイツ語の直訳で〝小鉄道〟といっていた)を出願したが、鉄道局は田舎町の小規模鉄道は無理だとし、それを却下した。しかし彼は屈せずその趣旨を説明し続け、当時の鉄道局長官井上勝を説得し、同年一二月に鉄道建設の命令書が下付されたが、当時は統一的な法令がなく、個々の命令書で処理していた。まずドイツ・ミュンヘンのクラウス社製の機関車二両を購入したが、当時、米一升が四銭五厘で、実に九、七〇〇円と巨額であった。同時に客車は六両で一二人から一六人乗りで小さいものだから夏目漱石は、〝マッチ箱のような〟と形容したのもうなずける。機関車はB型で自重八・五トン、全長五、八四〇㎜というミニサイズであり、ここに日本最初の軽便鉄道の歴史が始まるのである。
 馬車に比べ、松山~三津間を二八分で走る陸蒸気は大変な人気で、旅客運賃は上等一二銭、中等七銭、下等で三銭五厘、子供は一銭八厘である(表交2―4)。別に一銭追加すれば座布団を貸してくれた。開業当日の乗客は約二、〇〇〇人と混雑をきたし、一時間半ごとに一日一〇往復も運転した。もの珍しさと便利さから営業成績は好調で、旅客収入も当初の予想より五割以上の増収で、半期収入七、〇〇〇円、その経費は半分くらいであるから、第一期から七朱五厘の配当ができ、同社ではさらに路線の延長を計画した。まず高浜への延長については、これによって三津浜の繁栄が失われると恐れた三津浜住民め猛烈な反対運動がおこった。しかし明治二五年(一八九二)五月、三津~高浜間三・四㎞が開通、次いで同二六年五月には松山~平井河原までの延長線がそれぞれ開通し、さらに二九年一月に立花~森松間四・四㎞の森松線、三二年一〇月には平井河原~横河原間が開通し、松山~横河原間一三・ニ㎞が全通し、幹線である高浜線を軸に、松山平野に放射状に拡張した路線のもと営業を開始した。

 三私鉄の併合

 伊予鉄道の予想以上の好調な業績は、鉄道敷設の意欲を高揚させた。既に開業している伊予鉄道をはじめ、これに刺激されて開業した道後・南予鉄道三社が鼎立し、七六二㎜軌間の路線網が松山城を中心とした松山市とその周辺近郊に放射状に発達した。

  伊予鉄道の三津浜~松山間の三津浜線は明治二一年(一八八八)開通、日本で最初の軽便鉄道で長い間七六二㎜の狭軌であった。現在は高浜・郡中・横河原線も電化しており、森松線は昭和四〇年一一月末で廃止された。右側の地図が発行された明治三八年の末ごろは、一番町~松山間は走っていなかった。明治二八年に一番町~道後~古町に通ずる道後鉄道が開業し、三三年に合併されたが、ほとんどそのまま使用されていることがわかる。道後から古町、道後から斜めに一番町に至る電車路線は大正末から昭和初期に廃止され、その後、現在の東署前の六角堂から一番町、松山気象台脇の旧線路跡は道路になっている。その後の軌道は大きく変遷し、城北線は道後公園前で西に曲がり、南町を通って上一万から練兵場(現在、日赤・愛媛大学・東中学校・東雲小学校など文京地区)の南を走るコースに付け替えられた。城南線は上一万から直角に南へ曲がり、御宝町(現在の勝山町)から直角に西へ向かい、一番町(現在の大街道)を通り県庁・市役所前より堀端沿いに走っている。国鉄松山駅の開業は、県庁所在地では最も遅く、昭和二年四月であり、当初は古町から城北線が連絡していたが、後に西堀端から連絡し、現在の環状線となった。第二次大戦後、師範学校(現在の札の辻のやや東部)西側を走る路線は廃止され、南堀端から市駅前に至る新線が敷設された。

 道後鉄道は、松山市街とその東部に連なる日本最古の道後温泉を結ぶ鉄道で、村瀬正敬を中心とした道後有志によって明治二五年(一八九二)資本金三万八、〇〇〇円で創立した会社で、同二七年免許が下付された鉄道である。路線は伊予鉄道古町駅より城北を通り道後まで、もう一本は中心街の一番町(現大街道)より道後に至る二本である(図交2―7)。二線とも翌年の二八年八月開業し、合わせても四・九㎞という短線である。漱石が明治二八年(一八九五)松山中学の英語教師として在住した時、〝坊っちゃん″が利用したのはこの鉄道であったと思われ、入浴客を目的としたため、営業成績はよかった。
 一方、南予鉄道は宮内治三郎を中心とした郡中(現伊予市)方面の有志により、明治二七年一月、資本金九万五、〇〇〇円で郡中町(現伊予市)に創立し、同二七年に免許、同二九年七月松山・藤原(伊予鉄道外側駅と川を隔てて隣接した)~郡中間が開通した。この鉄道は南予鉄道の名が示すように、さらに同三〇年三月には、路線を延長して郡中より中山・内子・大洲を経由して八幡浜に至る(図交2―11)仮免許を取得したが、資金調達ができず、同三三年五月免許期限がきれ、実現することなく幻の夢と終わっている。
 狭い松山平野に三社もの鉄道会社が営業することは、経営的にも利用者側からみても不便であり、当然ながら合併の機運がおこり、明治三三年(一九〇〇)、伊予鉄道重役の井上要を介し、道後・南予鉄道の実権者、古畑寅造を動かし伊予鉄道が二社を吸収合併して、古畑が社長に就任した。一番町~道後~古町間(旧道後鉄道)の軌間を三フィート六インチ(一、〇六七㎜)に改良し、県下で初の電車が走ったのは同四四年(一九一一)八月だが高浜線が現在のように改軌し、ボギー車が走れるように電化したのは昭和六年(一九三一)五月である。その結果、松山市を中心とする鉄道は統一され、線路は高浜・横河原・森松・郡中の郊外線と道後の市内線の五方向に発展し、総延長四三㎞余りになったのである。
 伊予鉄道の高浜までの延長に伴い、明治三九年九月盛大な高浜開港式を行い、高浜・宇品間は大阪商船により、山陽鉄道及び官線主要地との連帯運輸を全国にさきがけて開始した。これは三津浜港は河口で大型船の接岸が困難となったためだが、三津浜住民の感情を害する結果となり、清家久米一郎を中心とする三津浜町の有志が伊予鉄道に対抗・征服しようと私鉄三社合併から一一年目に松山電気軌道を創設し、三津浜港から松山市の中心部を直結する電気鉄道を建設して、衰勢を挽回しようとした。高浜対三津、伊予鉄道対松山電気軌道の争いは、当時対立する改進党と政友会の二大政党の争いの一環であり、松山の政財界を真っ二つに割る争いが続くのである。
 松山電気軌道は明治三九年(一九〇六)九月、内務省から三津浜~一番町~道後間の特許を得、明治四〇年三月、資本金三一万円で創設し、動力は石手川上流に水力発電所を建設して電気の供給を行い、同四五年三月、松山では初めての軌間四フィート八インチ(一、四三五㎜)の広軌で開業した。そもそもこの鉄道の発企は一つに伊予鉄道に反対・抵抗するものであり三津~古町間は両社平行して走り、松山市街では外堀に沿って城南地域を走り、一番町より斜めに六角堂へ出て道後に達するルートで、途中、伊予鉄道と二か所で立体交差した。この松電の道後乗り入れに対し伊予鉄道も対抗し、道後~古町、道後~一番町間を一、〇六七㎜に改軌の上、同年八月八日に電化して運行すると、松電も同年九月一日に電車を走らせ、乗客を奪い合う激烈な競争が展開された。両社の競争は激しさを増し、鉄道・電気供給事業(伊予鉄道は大正六年六月、伊予水力電気を合併して、資本金二〇〇万円の伊予鉄道電気となる)にわたって〝乱戦″を一〇年間にわたり続行した。松電がやや優位に立ったものの、資金調達に失敗し、遂に大正一〇年(一九二一)四月、伊予鉄道電気に吸収合併され、終止符が打たれた。その後、伊予鉄道電気が松山地区の鉄道を独占し、現在に至っている(図交2―9)。

 近代化―改軌と電気鉄道網

 伊予鉄道の設立その後も競争会社の出現と合併を繰り返し、大正一〇年(一九二一)四月、松山電気軌道を合併し、伊予鉄道電気は路線の統廃合と近代化を積極的に推進した。旧松山電気軌道線のうち、一番町~道後間は合併後休止、江ノロ(松山市三津)~一番町間は、一、〇六七㎜の軌間に改軌され、大正一五年には一番町~道後間の路線が大きく変更された。旧道後鉄道や旧松山電気軌道の線路の一部は現在も道路として残されているものもある。翌昭和二年(一九二七)四月、県庁所在地としては全国で最も遅く国鉄讃予線がようやく松山に達し、市街地の西はずれの田圃の中に松山駅を開設したのに伴い、旧道後鉄道の木屋町~道後間を城山よりの練兵場南に全面移設、国鉄松山駅~古町間の新設と旧松山電気軌道の江ノロ~萱町間の廃止を実施した。また国鉄の開通により、三津~松山間は三本の路線となるため旧松山電気軌道を廃止し、高浜線の一、〇六七㎜への改軌と電化を推進することになる。従来のように単なる延長ではなく、高速電車線として、昭和六年五月、大型のボギー車が初めて走るのである。また同年七月には複線化したが、他の横河原・森松線は昭和六年、郡中線は同一二年に改軌工事を行ったが電化はせず、経費節減で従来のものを改善して使用した。このようにして日本における軌間七六二㎜の軽便鉄道として発足した伊予鉄道電気は、全線一、〇六七㎜に改軌され近代化されたのである。
 一方、昭和一七年(一九四二)に第二次大戦下の配電統制令で、新設された四国電配(現四国電力)に電力部門を分割し、運輸部門は元の社名の伊予鉄道に戻り(図交2―9)、資本金四〇〇万円、従業員四八五人を引き継ぎ、再発足した。さらに同一九年、三共自動車を合併してバス部門に進出、合併・統合して松山市を核に中心地域を中心として一大企業に成長し、現在資本金一三七億円、従業員一、五〇〇余人の伊予鉄グループの総帥として君臨している。

 松山平野の高速電車網

 伊予鉄道では郊外線の郡中・横河原・森松の三線が非電化のまま残存し戦後に及んだが、昭和二五年(一九五〇)五月には郡中線が電化され、高速電車〝ボギー車″が走り乗客に親しまれた。これは石炭不足解消策の一環としての電化であり、以後安価な輸入原油の供給で、同二八年には残りの二線にはディーゼル機関車を導入し、翌二九年には思い出の多い黒煙たなびく蒸気機関車を全廃した。昭和四〇年代からのモータリゼーションの進行により、郊外線の営業係数は悪化し、遂に国道三三号と平行して運行した立花~森松間の森松線は、同四〇年一一月末で開業七〇余年の歴史を閉じた。横河原線はスピードアップで自動車に対抗するため同四二年一〇月電化し、高速電車化した。
 現在の伊予鉄道には郊外線として、高浜線(九・四㎞)、郡中線(一一・三㎞)、横河原線(一三・二㎞)と路面電車の市内線四系統(城南線~市駅前、国鉄前、本町線、環状線=計九・七㎞)があり、松山市と周辺地域を結ぶ重要な役割を果たし、地域住民の生活と直結した事実上唯一の公共交通機関として、松山平野や周辺山間部の中心産物である米麦や木炭・木材などの輸送も行っていたが現在は人のみの輸送である。森松線の廃止で象徴されるごとく、四〇年代からの急速なモータリゼーションの進展には歯止めがかからず、道路の拡幅や改良整備によって輸送人員の減少傾向が著しく、大きな節目にさしかかっている。
 昭和三〇年度の年間輸送人員約三二〇万人が同四〇年度には、約四〇〇万人へと上昇したがそれ以降は減少傾向を示し、五九年度は二七三万人とピーク時の六八%にしか達せず、三〇年間で最低位まで低落した。特に市内(軌道)線の減少が著しく、ピーク時の四〇年度は一、八七四万人であったが五九年度は、九三三万人と実に半分に減少したのをはじめ、郊外線の幹線である高浜線も減少している。横河原線は四〇年度より逆に上昇に転じ、五五年の六五八万人をピークに増加率七七%と異例なカーブを示したのは、沿線沿いの住宅開発や四二年の電化によるスピードアップなど好条件が重なった結果と思われる。
 これら急激な輸送人員の減少は、マイカーの普及やドーナツ化・スプロール化に伴う都心人口の減少と共にミニバイクの普及も見のがせない。営業成績を表す指標として営業係数(一〇〇円の収入を得るためにどれだけの費用がかかったか)がある。路線別では高浜線と横河原線が好対照を示し、後者は輸送人員と同様に悪化している。全体をまとめてみると郊外線(鉄道業)の係数は、昭和三〇年度一一八・六%から同五五年度一〇〇%、五九年度一〇五・八%と変化し、市内線(軌道業)はそれぞれ一三五・〇%、九九・三%、五九年度は一〇〇・四%とやや赤字傾向だが、輸送人員からみるほどに経営は深刻ではない。

表交2-4 旅客賃金表(創業当時)

表交2-4 旅客賃金表(創業当時)


表交2-5 地方鉄道線路表

表交2-5 地方鉄道線路表


表交2-6 軌道線路表

表交2-6 軌道線路表


図交2-7 松山市とその周辺の鉄道網の変遷(明治末期より大正期)

図交2-7 松山市とその周辺の鉄道網の変遷(明治末期より大正期)


図交2-7 松山市とその周辺の鉄道網の変遷2(昭和期)

図交2-7 松山市とその周辺の鉄道網の変遷2(昭和期)


表交2-7 道後・南予鉄道合併時の車両数(明治36年5月1日)

表交2-7 道後・南予鉄道合併時の車両数(明治36年5月1日)


図交2-8 松山市を中心とした交通網

図交2-8 松山市を中心とした交通網


図交2-9 伊予鉄道の歩み ー鉄道・電気関係のみー

図交2-9 伊予鉄道の歩み ー鉄道・電気関係のみー