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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 宇和島自動車

 創業―大正から昭和へ

 大正七年(一九一八)一一月、宇和島在住の香川角次が中心となって資本金二万円の宇和島自動車を創立、すでに路線の免許を得ていた宇和島~畑地(現津島町)間、一七㎞の運行を開始したのは翌年の二月一五日である。当時、愛媛県下には伊予自動車(八幡浜・大正五年・バス四台)・愛媛自動車(松山・大正七年・同六台)・宇和自動車(野村・大正七年・同四台)があり、宇和島自動車は四番目のバス会社としてビュイックの中古車二台で営業を開始した。全国初の免許が大正元年であり、本県のバス事業の創業は、全国でも相当早期に計画・実行されたことがわかる。当時の車はほとんどアメリカ製で、今日の乗用車であり座席を改造して客席を二列とし、三人宛の六人乗りの幌型でステップのついた車であった。馬車に比べ高運賃のため、利用できた者はごく一部の有産階級の人であった。大正九年五月には宇和島~卯之町線を、同年一二月には、宇和島市内循環線の運行を開始、大正一二年からは長距離線として、宇和島~松山間の運行に着手したが、利用も少なく競争相手の出現などで数年のうちに営業不振に陥った。
 昭和三年(一九二八)一〇月、宇和島在住の実業家、堀部彦次郎の発起により第二宇和島自動車を設立、翌年一月宇和島自動車の事業を吸収合併した。彼は当時、幾多の内・外航路を有し地方海運界の雄として、その全盛を誇っていた宇和島運輸が陸上部門にも進出するため、その子会社として設立したものである。その後は順調に成長し同一二年一月、本格的な市内バスの運行を開始、女性車掌もこの時に採用した。同年六月、第二宇和島自動車の名称を再び宇和島自動車と改称し、長山芳介が社長に就任した。バス事業の拡大に伴い同社はやがて三共自動車と競争することになる。
 昭和一〇年には国家の統制方針に従い県下のバス営業は、東・中・南予の各地区ごとに会社の合併統合が進められた。また各社の路線について調整譲渡などがなされたため三共自動車は、大洲以南の営業権(乗用車事業も含む)― 一六線・三一九㎞の路線権―を宇和島自動車に譲渡した。同一八年四月、軍部の統制方針による合併統合で、八幡浜市営バス・予洲自動車(大洲)と三瓶自動車(八幡浜~三瓶~卯之町線)のバス・ハイヤー・トラックの全事業を、さらに同年七月には、四国自動車(宇和島~大宿(広見町))のバス事業を買収した結果、宇和島自動車は八幡浜以西を除く南予一円のバス・ハイヤー事業を完全に掌握するに至った。

 戦後―再建と躍進

 昭和二○年(一九四五)七月一二日、宇和島空襲により本社全焼に加えて車両にも大打撃を受けた宇和島自動車は、燃料・資材不足などから路線の復旧ができず、終戦時の二〇年における運行系統数三六のうち運行されたのは一〇系統のみで、路線免許キロ数もわずか四二一㎞であった。敗戦の混乱もやや落ち着きかけた二二年には休止路線も復旧し、三〇年代にかけて順調に路線拡大がはかられたが、その内容は従来の主要都市結合の長距離路線ではなく、道路整備に伴う比較的近距離の山間部や海岸線の路線の新設が主で、かつて陸の孤島といわれ、長い間、渡海船に依存していた三浦・由良・船越半島などが含まれていて、採算のとれるものではなかった。一方、従来からの幹線路線の宿毛~松山線に急行や快速などを運行させ、乗客のニーズに合った高速化に力を入れ始めたのもこの時期である。
 地域における独占的バス事業者としての同社の地位を根底から揺るがす二つの事件がおきた。一つは昭和二五年二月の土佐電鉄バスの宇和島乗り入れ(翌年一一月却下)であり、いまひとつは地元盛運汽船の陸上バス部門進出である。まず同二七年一一月、石応・小浜線、三〇年三月には宿毛線を申請し、双方とも免許が下りたのである。盛運汽船のバス事業への進出は道路整備に伴うバス路線の拡大に対し、乗客を奪われるのをおそれた同社がやや強引に開業許可にこぎつけたのである。当然のことながら両社間の乗客争奪戦が行われ、競争はしばらく続き混乱したものの、三四年一月、宇和島自動車へ盛運汽船のバス事業を譲渡する正式調印で紛争は解決した。
 路線免許キロ数をみると、復興期の二〇年代と近距離新線拡張の三〇年代は急増したが、四〇年代は停滞、五五年以降は減少している。運行系統数は、ほぼ一貫して増加しているが、免許キロが四〇年代でピークに達し、それ以降停滞しているのと好対照である。これは宇和島自動車が住民のバスに対するニーズの変化・多様化に対し、敏感に対応した結果とみてよい。

 路線の拡大

 南予のバス路線網の発達過程をみると、大正八年(一九一九)は草創期であり、県下で最初に免許を得た伊予自動車の八幡浜~大洲~郡中(現伊予市)間のほかに、宇和自動車の卯之町(現宇和町)~野村間、宇和島自動車の宇和島~岩松(現津島町)間のみであり、南予地域の中心都市を結合するネットワークの骨格がようやく完成した時期である(なお、この時期にすでに城辺を中心に近隣町村に不定期バスが運行されていた)。ところがわずか五年後の同一三年になると、バス路線は南予一帯に拡大し、短期間のうちに著しい発達をみている。
 この時期の一つの特徴はバス会社単独運行路線はごくわずかで、他との競合路線が極めて多いことである。したがって大正末期はバス会社が乱立し、数多くの競合路線が存在した時代といえよう。それ以後、昭和二〇年(一九四五)の終戦までの期間は、城辺町や津島町さらに山間部や臨海地域の小集落を結合する路線の新設が多くなされ、南予地域でバスや鉄道の公共輸送機関で結ばれないのは明浜町だけとなった。下って終戦後のバス路線は、幹線バス路線から枝分かれ線として山間・海岸部の津々浦々まで拡張していった時代である。戦後のもう一つの特徴は、昭和四〇年以降の輸送人員の減少に伴い数多くの廃止路線がみられたことで、宇和島自動車では山間部・過疎地域の不採算路線二五・六㎞が廃止された。

 現況―営業係数の悪化

 最近の輸送実績をみると、走行㎞七九七万㎞―乗合五三九万㎞・全体の約六八%、貸切二五三万㎞・三二%、輸送人員一、〇五八万人、乗合一、〇〇五万人・全体の九五%、貸切五三万人・同五%、さらに営業係数は乗合一〇六、貸切一〇〇とかなり安定している。営業系統数二〇〇、乗合免許キ口数は八八七㎞で南予一円をほぼ網羅している。
 輸送人員は昭和四〇年度までは順調に増加したものの、それ以後、短い停滞期間をおいて急減し、雪崩的減少に歯止めがかからぬまま現在に至っており、走行キロも道路整備に伴う路線拡大や、ダイヤの改訂などで増加した五五年度の九六三万㎞をピークとして、五九年度には五三九万㎞と激減している。これはまさにモータリゼーションの影響と過疎化に伴う路線の廃止によるものである。営業成績を示す営業係数では五〇年度以降一〇〇を上まわり、五九年度は最悪の一〇六となり赤字が累積されている。一方、貸切部門は、四八年秋のオイルショックによる不況の影響を受けたものの走行キロは乗合部門と反比例し、五〇~五五年度の五年間に倍増し、現在も伸び続けており、輸送人員は停滞気味ながら順調に伸長している。営業収入も安定成長を続け、営業係数もわずかながら一〇〇を下まわっており、まずまずといえよう(図交2―21)。
 宇和島自動車のドル箱路線といわれる幹線路線は、宇和島市を中核とした南部の宿毛線と北部の松山線である。宿毛線は大正九年(一九二〇)には城辺まで開通し、鉄道のない南郡地域唯一の陸上公共輸送機関として早くから急行バスが走り、地域住民にとって重要な交通手段としての機能を果たした。特に昭和三五年度からは輸送人員も非常に多く、長距離バス路線としては運行回数も抜群に多いが、他の乗合路線と同様、四五年度の九〇万人をピークに減少し、五九年度は五九万人と実に六五%にまで減少した。一方、大正末期から路線営業が行われた松山線についてみると、四〇年代の前半までは運行回数・輸送人員とも宿毛線と比較にならない状態で少なかったが、後半から爆発的に増加し、五〇年度には旅客数八二万人、運行回数二〇往復まで増加した。現在はピーク時に比べ五二%に減退したものの、国鉄に比べて料金が割安で、定時運行ができ根強い人気を得ている。乗客のサービスの観点からこれら幹線バス路線には車掌が乗車しているのも、ワンマン化の昨今、貴重な存在である。
 いずれのバス事業にも共通する問題として昭和四〇年代以降、輸送人員が減少し、経営悪化をきたした最大の原因は、マイカー・ミニバイクなどのモータリゼーションで、今後とも、道路の整備が進むにつれて、それが一層進展すると考えられるので、バス離れの雪崩現象の歯止めを模索し、具体化しなければならない。さらに宇和島自動車のように過疎地の不採算路線をより多く有する企業としては、バス以外に公共輸送手段をもたない住民にとって、路線の廃止は生活と直結する極めて深刻な問題であること、バス路線と産業・文化の振興、生活環境の保全との関係などについても十分な配慮がなされなければならない。

図交2-22 一般乗合・貸切旅客自動車の輸送実績の推移

図交2-22 一般乗合・貸切旅客自動車の輸送実績の推移


表交2-20 主要路線の輸送実績の推移

表交2-20 主要路線の輸送実績の推移


図交2-23 乗合・貸切別営業収入及び営業係数の推移

図交2-23 乗合・貸切別営業収入及び営業係数の推移