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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 愛媛の峠今と昔

 生活圏の接点―峠―

 峠とは交通の難所の代名詞であり、生活圏の接点でもある。峠を越えると新しい天地が開け、青雲の志を抱き、新生活に夢を託した人々は、草鞋ばきで一歩一歩大地を踏みしめながら登ったことであろう。峠に炭焼きの煙がたなびき、置石のある粗末な茶屋が一軒…。このような時代劇に出て来そうな旧街道の舞台は、今やクルマ社会の到来で、〝人間の歩く道〟を次々と変えて、アスファルトの舗装道路となり、山腹には大きなトンネルを掘り、峠の下を短時間で通過する。まさにクルマ社会となり完全にその役割りは、トンネルにとって変わられた県下の峠は枚挙にいとまがない。このような近代化の波は峠の姿を変えたばかりでなく、この山里から人々をも離れさせていく。
 県下の主要な街道―讃岐・土佐・大洲・宇和島など―の馬車道への改築は、明治中期から末期で、曲がりくねった急斜面の道が大部分であったが、現在の自動車道への改築は、昭和二〇年代後半から同三〇年にかけて行われた。例えば、現在の国道一一号(旧金毘羅街道=讃岐街道)の自動車道への拡幅・舗装は四〇年に完成、国道三三号(土佐街道)は四三年、国道五六号(大洲・宇和島・宿毛街道)は、二七年に一級国道に昇格、四六年に犬寄・鳥坂・法華津トンネルなどを貫通させた。このように改築が遅れたものの、松山を中核として東・中・南予地方を直結させ、さらに中・四国の広域経済圏体制の中で、VルートやWルートの果たす役割は大きい。
 二つの生活圏の接点としての峠は、今や前世紀の遺物と化し、かつ荷駄の鈴音や馬子唄を聞くこともなく、うっそうと天を覆いつくした樹林の下で、この道や峠は、いつまでその命脈を保ち続けることができるのだろうか。

 県下の主な峠

 旧街道は、松山の札の辻を起点として放射状に延び、現在は国道に変わり、地域開発や文化交流の大動脈をなしている。
 〈境目峠〉 川之江市と徳島県池田町の境界をなす峠(標高三八〇m)。藩政時代から伊予と阿波・土佐を結ぶ交通の結節点として、各地の物資の輸送ルートであった。昭和四七年、八五五mの境目トンネルの完成により、従来六㎞の距離が半分となり時間も四分の一に短縮された。現在の国道一九二号には、国鉄・瀬戸内バスが路程を有している。
 〈関ノ峠〉 土居町と新居浜市の境界をなす峠(標高五九m)。現在は国道一一号、古くは太政官道、旧金毘羅・讃岐街道の要所に当たり宿駅として栄えたが、度々の道路のつけかえ工事でかなり位置が変化している。峠のすぐ北側を国鉄予讃線のトンネルが通過し、東方には関川が流れていて今は掘削され峠のイメージはない。
 〈医王峠〉 今治市と東予市の境界をなす峠で、古くは太政官道や松山から今治経由三芳(現東予市)までの今冶街道が通じていた。今は国民休暇村や臨海工業地帯を結ぶ道路が完備され、医王院をふり仰ぐ医王峠を歩く人はなく、高度経済成長期の昭和三五年、開通した東伊予有料道路によりその姿は一変し、昔をしのぶことすら不可能である。
 〈桧皮峠〉 川内町松瀬川にある峠(標高三一三m)。この峠には旧金毘羅街道が通じていた。藩政時代の峠道は、四麓の桧皮の集落から七曲といわれる急坂を登っていた。雑木の生い茂った木々の下に石畳の道が華やかな往時をしのばせる。この峠に旧国道が開設したのは明治三五年(一九〇二)、現在の国道一一号の「河之内隧道」は、桧皮峠を迂回したのでその役目を終えた。さらに峠から土谷への街道は「桜三里」といわれ、桜の名所でもある。
 〈三坂峠〉 松山市と久万町の境界をなす峠(標高七二〇m)、峠のすぐ北側は中央構造線沿いの大断層崖、南側は緩やかな谷底平野である。藩政時代には、松山と高知を結ぶ土佐街道(松山から森松・荏原・久万を経て高知県側の池川までは久万街道ともいう)が通じ、現在は国道三三号が貫通し、中・四国の動脈Vルートの一翼をになっている。馬車道としての開通は明治二〇年(一八八七)、現在の道路の骨格ができ、昭和一一年(一九三六)には省営(国鉄)バスが開通し、同四二年に一次改築が完成した。峠からの松山平野や瀬戸内海の眺望はまさに絶景。旧街道の峠には三軒の茶屋があり、旅人は疲れを癒したことであろう。
 〈犬寄峠〉 伊予市と中山町の境界をなす峠(標高三二九m)、藩政時代、大洲から郡中(現伊予市)に通ずる大洲街道の峠。明治二五年(一八九二)から二七年にかけての改修工事で、車道の通じた堀切りは三〇六mの部分を通り、郡中~佐礼谷(現中山町)~中山間を乗合馬車が走り始めた。のぼりは塩をくだりは材木や炭を運搬した。昭和三七年に現在の国道五六号と改称され、同四四年全長七四九mの犬寄トンネルの開通で峠の景観は一変し、曲がりくねった旧佐礼谷村は、ひっそりと静まりかえり、喧噪な国道沿線とは異なり旧街道の往時の面影を残している。
 〈法華津峠〉 宇和町と吉田町の境界をなす峠(標高四三六m)、四国山脈の西部をなす法華津山脈の鞍部にある。ここは西南日本でも有数の大断層線が東西に走り、すぐ西方は豊後水道に面するリアス式の法華津湾をのぞみ、遠く日振島・九州の島々も遠望でき、その眺望は天下一品である。この峠は最大級の交通の難所であったが、山脈の中腹に長さ一、三二〇mの法華津隧道をはじめ、合計一〇本のトンネル(総延長二、四五三m)が同四五年完成し、峠越えの国道は約半分の五・七㎞、時間は四〇分からわずか一〇分間に短縮された。南予の交通事情は飛躍的に改善され、松山~宇和島間のバス所要時間は、五時間から半分の二時間半に短縮された。
 〈松尾峠〉 宇和島と津島町の境界をなす峠(標高二三二m)、藩政時代に津島郷から城下、宇和島にでる道は二本あったが、この峠を通る道は遍路道である。峠に馬車が通じたのは明治四三年(一九一〇)で、バスが通行したのは大正八年(一九一九)である。中腹の標高一七〇mのところに松尾隧道(長さ四六四m)が掘削されたのは昭和二六年であり、東部の山麓に新しい松尾トンネル(長さ一、七一〇m)が開通したのは同五四年四月である。五六号最後の難関といわれた六〇か所ものカーブを持つ峠越えがなくなり、距離で約ニ㎞、時間にして約一〇分間短縮された。
 道路の拡幅・舗装・トンネル化などにより峠越えはなくなり、峠は見捨てられていく。さらに情報化と交通の直結は地方を一変させつつある。高速自動車道が貫通する近い将来、峠と道路と人間はどうかかわり合っていくのだろうか。

図交3-4 愛媛県の主要な国道と峠

図交3-4 愛媛県の主要な国道と峠