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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 瀬戸内海大橋

 瀬戸内海大橋の概要

 瀬戸内海大橋(本州四国連絡橋今治~尾道ルート)は、四国と本州を結ぶ連絡橋三ルートの一つを構成するものである。尾道市で一般国道二号バイパスから分岐し、広島県側の向島・因島・生口島を経て愛媛県側の大三島・伯方島・大島の島々を結び、今治市で一般国道一九六号バイパスに連絡する道路で、ルートの総延長は約六〇・一㎞(陸上部約五〇・八㎞、海峡部約九・三㎞)である。このルートは、他のニルートに比べて、本四連絡本来の意義に加えてルート関連離島の振興・開発に大きな効果が期待される点に、その特徴がある。また、他のニルートと違ってこのルートは鉄道施設を持たない道路単独橋であり、それだけ事業費額も小さくなっている(表交3―13)参照。
 今尾ルートは表交3―14に示すとおり、一〇の橋からなっており、うち大三島橋と因島大橋はそれぞれ昭和五四年五月、五八年一二月に完成、すでに使用されている。残された橋の中では来島海峡をまたぐ三橋と広島県側と愛媛県側を結ぶ多々羅橋がとりわけ大規模で、特に前者は難工事が予想されるため、財政的な制約なども加わってルートとしての完成は現在のところ未定である(二一世紀にずれ込むというのが大方の予測である)。

 今日までの経緯

 本四架橋は、海上交通に依存する現在の本四間の交通体系を画期的に改善する一方、全国的な幹線交通網の一環を形成し、国土の均衡ある発展と国民経済の発達に資するものであり、経済的に低位にある四国地域の発展を促進すると共に、地域住民の生活圏の拡大と生活の利便性の向上などに大きく寄与するものと期待されている。
 本州と四国の間の架橋構想は、明治二二年(一八八九)、香川県議大久保諶之丞が「塩飽諸島ヲ橋台トシテ架橋連絡セシメバ、常二風波ノ憂ナク、南行北向、東奔西走、瞬時ヲ費サズ、ソレ国利民福コレヨリ大ナルハナシ。」と提唱したのが最初である。以後、大正・昭和にかけて、いくつかの構想が唱えられたが、表交3―15に見られるとおり、具体化の方向への動きが強まったのは昭和三〇年代からであり、計画段階まで高められたのは昭和四五年の本州四国連絡橋公団の発足時である。
 大変だったのはルートの絞り込みであった。昭和三〇年に発生した宇高連絡船「紫雲丸」の沈没事故を契機として、国鉄が本四淡路線の調査に着手したのに始まり、同三四年には建設省が五つのルートの調査を開始、一方国鉄でも三六年に本四備讃線三ルートの調査を開始したが、三七年には建設省・国鉄が日本土木学会に技術調査を共同委託し、表交3―15に見られるとおり四二年に同学会は五ルートとも建設可能とする旨の報告書を提出した。四三年には建設・運輸両省から各ルートの工費・工期について発表され、事実上①神戸~鳴門ルート、②児島~坂出ルート(瀬戸大橋)、③今治~尾道ルート(瀬戸内海大橋)の三ルートに絞られ、四四年には新全国総合開発計画で三ルートが正式に決定された。この間、本州側も巻き込んでの徳島・香川・愛媛三県(及び高知県)のルート競争が繰り広げられ、また三ルート決定後も着工順位をめぐって陳情合戦がみられ、結局三ルート同時着工(四八年一一月)という政治的決定がなされた。ところが着工予定日の五日前の四八年一一月二〇日、オイルショックに伴う総需要抑制策の一環として着工延期が政府によって決定された。本四連絡橋建設事業は一頓挫を来した。
 昭和五〇年に至って、当面の架橋方針として一ルート(児島~坂出)三橋(大鳴門橋・大三島橋・因島大橋)の着工が認められ、今尾ルートでは同年一二月に大三島橋、五二年一月に因島大橋が着工された。その後、同五四年一月伯方・大島大橋の事業化が認められて、一ルート三橋の枠は一ルート四橋に拡大された。伯方・大島大橋は昭和五六年三月に着工されて、順調に工事が進んでいる。伯方・大島大橋の完成は昭和六二年度に予定されているが、これが完成すると越智諸島の中核三島が連結され、上浦・大三島・伯方・宮窪・吉海の五町約三万一、〇〇〇人の人口を持つ地域(北条市とほぼ同じ)が一体化する。「夢の架け橋」の完成はまだ遠いが、このルートの特徴の地域開発効果は一橋毎に大きくなっている。

表交3-13 本州四国連絡橋の計画

表交3-13 本州四国連絡橋の計画


表交3-14 瀬戸内海大橋の主要橋梁建設計画

表交3-14 瀬戸内海大橋の主要橋梁建設計画


表交3-15 瀬戸内海大橋建設の歩み

表交3-15 瀬戸内海大橋建設の歩み