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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

三 四国初の開港場から本四橋起点都市へ(今治市)

 飯忠七の事績

 瀬戸内海のほぼ中央に位置し来島海峡に面するという好条件に恵まれた今治港は、古くから海上交通の要衝として栄えてきた。藤堂高虎が堀に海水を引き込む海城として今治城を築造、寛永一二年(一六三五)伊勢の国から移封されて入府し九松平定房は城下に近い蔵敷に船頭町を置いたという。
 まことに今治は、もともと海に向かって開かれたコンパクトな街である。しかし近代今治港を語るとき、明治初年の飯忠七の苦闘史を忘れてはなるまい。さきに押切船の運航者として紹介した飯忠太郎(晩年忠七と改名)は、蒸気船時代の到来を確信し、汽船を入港させて町の繁栄を図ろうと寄港誘致の運動を始めた。当時今治の町民には、蒸気船の寄港など白日の夢と考えられていたが、『今治市誌』(昭和四九年)によると「彼は毎日のように海岸にたたずみ、汽船が今治沖を通過するとみると、伝馬船を漕ぎ出して昼は旗を、夜は提燈を振って狂気のごとく停船を求め寄港を依頼した。ある時は汽船々主を尋ね、今治寄港による地域産業の開発を懇願し、その有利を説いたが、皆、収支の償わぬのを恐れ、忠太郎の願いはいれられなかった。彼はついに意を決し、自ら伝馬船をこぎ出し、冒険にも航行中の汽船の直針路に突入し、伝馬船がこっぱみじんに砕けるか、蒸気船がとまるかの捨身の戦法にでた。口さがない人々は、この姿を見て〝忠太郎は気が狂った″と噂し合ったという。」
 だが、彼の熱意は徐々に功を奏し、汽船の寄港が増え、飯は回送問屋をひき受けた。当時の今治港は港口が浅かったので、船はかなり沖合にしか停泊できず、その間をはしけでつないだ。飯は夜間航行の安全を確保するため糸山に灯台を建設するよう政府にしばしば請願した。実現したのは明治二〇年代になってからであった(二五年大下島灯台、三五年来島中磯灯台とコノセ灯台)。彼はまた、中国地方との交通にも着眼し、三〇年には自ら福盛丸を新造して今治・宇品線に就航させた。これで今治は阪神・九州・中国・四国航路の海の十字路に立つことになったのである。なお、飯忠七の功績を顕彰する碑が明治四三年(一九一〇)吹揚公園入口に建立されたが、昭和二八年(一九五三)今治港務所前に移設された。

 遅れた築港工事

 汽船は寄港するようにはなったが、受け皿の港のほうはなかなかであった。明治二〇年代から今治港の改良構想がぼつぼつ出てくるがいずれも具体化せず、明治三七・八年戦争後地場産業の伊予ネルの生産が激増し海上貨物も増えたが、多くの貨物は港外ではしけによって積みおろしせねばならない状態であった。明治四一年、今治商工会は築港期成同盟会を発足させた。
 大正九年ようやく工事計画と費用負担(町が県の補助を得て施工)について関係者の合意が得られ、同年五月に起工式を挙行した(この年は今治市制施行の年でもあった)。この計画では費用の大半が防波堤(四五〇m)建設にあてられることになっていた。しかしながら、その後大正一〇年五月今治港が第二種重要港湾に指定され、さらに一一年二月、四国唯一の開港場に指定されたことなどにより、港湾修築は国の直轄事業として行うことになり、同一二年内務省神戸土木出張所が着工した。町施工のものに続く第二期工事と位置づけられているもので、総工費三一〇万円、突堤の一〇〇m延長、桟橋の二基増設、内水面の浚渫などにより、三、〇〇〇トン型二隻の停泊を可能にするものであった。この工事は昭和九年三月完成、盛大な祭典が行われた。
 ここで今治港の開港指定の経緯について簡単にふれておこう。今治・日吉両町村(現今治市)は大正六年ごろ、工業生産額二、〇〇〇万円余り、県内第一の工業都市で、なかんずく綿織物業は四国随一で、「四国の大阪」をもって自他共に許す状態にあった。すでに明治三〇年代から(特に日露戦争後)中国・朝鮮・シベリアなどへの輸出が始まり、大正初年からは東南アジア方面にも販路が拡大、今治港からの輸出金額は大正三年約三四万円、同四年約九六万円、五年約二二四万円と激増し、第一次世界大戦の好況もあってなお大幅に増加する勢いにあった。そこで町当局は大正六年一〇月特別輸出港の指定を郡県を経て大蔵大臣勝田主計(愛媛県出身)に請願した。これは実現しなかったが、同八年三月今治開港に関する経費が貴族院委員会で可決され、前述のとおり同一一年二月一〇日四国で初めての開港場(外国貿易船が出入りできる港)の指定を受けたのである。盛大な祝典が挙行され、開港指定を祝う歌もつくられた。

 主要航路の状況

 築港工事が緒についた大正一〇年ごろの今治港汽船発着状況は左のとおりであった。
 大阪商船会社航路
    大阪・四国線(最終港に宿毛)    毎日一回上り午後一時下り午前四時
    大阪・細島線            毎日一回上り午前一一時下り午前一〇時
    大阪・門司線            隔日一回(上り午前一〇時・下り午後四時)
 尼ヶ崎汽船部航路(代理店瀬戸内商船)
    大阪・九州線(最終港に大川)    隔日一回上り(午前一〇時・下り午後一〇時)
    大阪・若松線            三日月一回(上り午前一〇時下り午後二時)
    尾道・今治線            毎日一回(尾道行午前一一時・今治着午前一〇時)
 住友別子鉱業所航路
    尾道・新居浜線
   (尾道・今治・新居浜他に寄港地五)  毎日二回往復(尾道行午前八時、午後二時半、今治着午前一〇時、午後四時)
 瀬戸内商船会社航路
    尾道・多度津航路
   (尾道・今治・多度津寄港地多し)   毎日一往復(尾道行午後一時、多度津行午前一一時)
    宇品・今治線(中間寄港地一六)   毎日一往復(宇品行午後一時・今治着正午)
    今治・尾道線(中間寄港地九)    毎日一往復(尾道行午前六時・今治着午後六時)
 木村汽船部航路
    今治・宇品線(中間寄港地一二)   毎日一往復(宇品行午前六時・今治着午後八時)
また昭和に入って、一五年当時の汽船発着状況は次のとおりであった(戦争の影響で一部休航路線も出ていた)。
 伊予商運扱(大阪商船ほか)
    大阪・四国線、大阪・若松線(大正一四年門司線が若松まで延長)、大阪・今治線(急行便)、大阪・別府
    線(前述のとおり大正一三年今治寄港開始)、天津航路(大連・今治・横浜)
 瀬戸内商船扱
    今治・尾道線(三隻)、今治・呉・広島線、今治・竹原・宮浦線
 和田扱(木村汽船部ほか)
    今治・尾道線(三隻)、今治・因島線、今治・伯方線
 吉忠扱(住友汽船部ほか)
    今治・新居浜線、今治・尾道線、今治・呉線、今治・広島線、今治・大連線、今治・宇品線
なお、今治港は越智郡島しょ部からのいわゆる渡海船の来航が多かったことはいうまでもない。明治三五・三六年ごろまでは小型和船、その後五〇~六〇石積に大型化、同四二年ごろから発動機船を使用するものが現れ、大正時代を経て、昭和二年今治発動機船航運業組合が組織された(現在は今治小型機帆船協同組合になっている)。

 戦後の今治港

 昭和二〇年四月~八月の三回の空襲で今治市街は壊滅的な打撃を被ったが、港湾施設にはさしたる被害もなく、復興の途についた。主な経過は次のとおり。
     昭和二三年 七月  港則法による特定港湾に指定
     昭和二六年 一月  港則法による重要港湾に指定
     昭和二七年一一月  今治市管理港湾となる
     昭和三〇年一二月  植物検疫法による指定港湾となる
     昭和三七年 四月  波止浜港を今治港域に編入
     昭和五四年 二月  港則法による港湾区域追加指定(今治新港)
 昭和三〇年(一九五五)代に入って貨物、旅客共に著しく増加し、三九年には取扱貨物量一五四万トン、旅客数一、八九三万人と戦前最高をしのぐ実績を記録するに至った。その後四〇年ごろからカーフェリー時代となり、対中国航路、離島連絡航路のほとんどがカーフェリー化し、近年では一般貨物はむしろ停滞気味、自動車航送貨物のみが着実に増加するという傾向にある。昭和四〇年代後半に入ると阪神行き大型フェリー航路も開設され、四国有数のフェリー基地となっている。水中翼船・高速艇の出入りも頻繁になった。
 この間、三〇年代後半より港湾改修計画策定に着手、四五年蒼社川尻の蔵敷地区に貨物専用の新港湾建設を開始、昭和五四年ようやく完成をみた。新港は水深九m、一万トン級船舶が着岸できる岸壁を一バース、水深七・五m、七、五〇〇トン級岸壁を三バース備えている。
 ところで、これまで港湾からのみ今治市をみてきたが、本四連絡橋、今尾ルートが完成すると同市はその四国側玄関口となる。もちろん橋が架かっても港は不可欠なわけで、港は同市の生命の泉である。そこで、古くからの交通拠点都市今治の長期展望に立った発展を期して、同市は昭和五四年三月「流通拠点都市整備基本計画」を策定した。この計画の柱は三つあり、①貨物駅ターミナル計画、②内陸流通ターミナル計画、③臨海ターミナル計画がそれである。貨物駅ターミナルとの関連では市内国鉄線の高架化(連続立体交差化)が、また内陸流通ターミナルとの関連では国道一九六号バイパスの建設が盛り込まれていた。臨海ターミナルは前述の新港であるが、今治市はさらに織田ケ浜の埋め立てによる新新港の建設計画を実行に移そうとしている。本四連絡橋起点都市として、海港今治は海陸総合交通機能の充実に向かっている。