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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

五 椀 船・瓦 船

 椀船の発祥

 椀船とは今治市桜井に発祥した漆器行商船のことで、発生期は一、八〇〇年代初期といわれている。地元生産物を帆船で輸送・販売した点で越智郡菊間町の瓦船や温泉郡中島町の割木船などと同類であるが、椀船はその船に宿泊しながら行商を行った点に特徴がある。椀船はあくまで行商が主体で、船稼ぎが主体の買積船のように海運業につながっていかなかった。桜井は天領でもあったので対外交流に関する規制が緩やかで、伝統の航海術や紀州藩との取り引きの便宜を背景に黒江(和歌山県海南市)産の漆器を九州沿岸に行商し、また佐賀県伊万里、唐津の漆器を阪神方面に運ぶという仲介商業を帆船を使って行ったものである。桜井に残っている「春は唐津、秋は漆器」という言葉はこれを物語るものであるが、明治中期からは漆器中心となった。行商人は「椀屋さん」「船行きさん」と呼ばれた。なお、椀船の先駆形態として「けんど船」があった(けんどとは、葛などで編んだ篩の一種で、そら豆などの実と莢を分離するのに用いた)。椀船の栄えた理由の一つに、「行商経費の低廉があげられる。小型の自家用船で船に寝泊りし、しかも自分で作った米麦・味噌・醤油から野菜に至るまで積み込んだ。売子も農閑期の余剰労力を活用したので格安であった。」(宮田文男『椀船の行商』)
 このように椀船は商業活動に重点が置かれており、それが後の海運に及ぼした影響はほとんどない。しかし、椀船の航海とその盛衰は海運史の観点からも、いささかの興味を禁じ得ない。以下では鳥羽欽一郎・田中政治『伊予商人とクレジット』によって椀船の航海例をみてみよう。
 桜井の船頭宇之吉が残した『冬下り和城物語』には次のような航海がみられる。

 椀船の航海

 明治四年一二月一日  船頭宇之吉と水主藤蔵、友吉、幸吉、伊助、惣太郎の六名桜井浜を出帆
       二日  波止浜で西風(逆風)のため六日まで風待ち
    七日  午前四時出帆、マギリながら松山島(不詳)まで行ったが、なお西風が強いため風待ち
      一〇日  沖家室島に渡る
      一二日  一気に伊予灘を突っ切り佐田岬を回って高島沖にきたが、風強く帆を六分目に下げて宇和島に十二時頃走り込む。播磨屋へ船を着けたが、十三日は大風が吹きつのり、全員船内で休養
      一四日  荷おろし
      一五日  商売を始める。宇和島城下町は歳末で大いに賑っているが、一行は奥地へ入って行く。大晦日まで行商
      一月三日  商売再開。伊助・幸吉は岩松へ。友吉は三間へ
      二月四日  出帆、岬回り潮気よく南風を受けて「一気に三十六里走り」とある。夕暮れ雨となり、平郡島付近では大雨となる。近くの八島で停泊
        六日  出帆、しかし西風が出たので沖家室島で仮泊
        七日  朝出帆、北東風に帆を置いて走っていると南風となり、ちょうど夕方六時には来島海峡に帰り、午後十時に桜井河口に入った。
    八日  荷揚げ、九日は浜方に泊り、十日精算する。「伊助は今治に売りに行き、店市へ卸、大々儲け」、そのうえワキサカ伊万里船へ売って「少々儲け」「伊助は大々仕合吉」と結んでいる。宇和島辺りで何か仕入れ、往復商売をしたのであろう。

 いまひとつ『肥後降一条有無日記』の明治五年(一八七二)の航海では、二月二二日桜井を出帆、安居島・上ノ関・田之浦・地ノ島・福浦・呼子口・樺島・天草・八代を経て三月一九日に肥後松橋(宇土市)に入港している。
 しかし、こうした椀船の最盛期は明治二〇年代までで、汽船の発達などによりそれ以降は椀船行商の形態も少しずつ変化していった。明治中期以降の形態は次の三つに分けられる。
 1 従来のまま椀船を倉庫兼宿泊施設として沿岸行商を行うもの。
 2 舟は商品輸送だけに使用し、陸上に拠点を設け、ここを足場として内陸部深く行商を行うもの。この場合の拠点には旅館などが使われ、売子は便船によって指定の場所に集まった。
 3 商品が汽船などによって拠点に直送され、売子も便船で現地へ行くもの。これはもはや椀船ではない。
椀船商の子に生まれ家業を受け継ぎ、後わが国月賦販売業の創始者といわれるようになった田坂善四郎が福岡市に「丸善」の屋号で店開きしたのが明治三七年(一九〇四)であるが、このころが椀船の終焉期と考えられる。

 瓦 船

 瓦船とは菊間瓦を積み出した船の称である。復路には燃料を積み込むことが多かった。帆船時代には五〇石程度の和船が使われたが、のち機帆船にかわる。しかし、後述のように遅くまで帆船が残存した。昭和四〇年ごろからは順次トラック輸送に転換され、今は瓦船の存在はない。
 『菊間町誌』によると、元治元年(一八六四)長州征伐に際し松山藩に徴用された船は五反帆(帆布をタテに五枚縫い合わせたもの。反数で船の大きさがはかられた)以上のもので三〇隻あったというが、これらは菊間で生産した瓦及び燃料の移出入に使われた瓦船と木船であった。当時から瓦船業者を「船持」といい、その組合があったことは、社寺への献灯提灯に船持中とあることによって想像される。
 明治九年の隻数は五石以上三二隻、同一二年同じく五石以上三〇隻であった。
 大正一五年、船持組合は、船舶組合と改め規約を定めたが、その時の組合員数は四二名であった。
 昭和五年、築港工事費を船舶組合が拠出したさい、石炭輸送船一六隻、瓦船四五隻が在籍していた。
 昭和一二年、船舶組合から石炭船が分離した。この時、瓦船の状況は表交3―17のとおりであった。また、この時点で瓦船以外の船舶は石炭輸送船六隻、一般貨物船二九隻、鮮魚運搬一、計二九隻であった。瓦船に関する表交3―17とこれを重ね合わせてみると、瓦船はロットが小さいため近代化船(といっても機帆船だが)による輸送には適合し難かったことがうかがわれる。
 しかし、瓦船の存在が菊間町における海運業発達の一要因となったことは疑いをいれない。

表交3-17 菊間港在籍瓦船

表交3-17 菊間港在籍瓦船