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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 森松線の廃止

 鉄道路線の新設・延長

 明治二一年(一八八八)一〇月、松山~三津間六・八㎞の開業後の成績は、予想以上に好調で気をよくした伊予鉄道は、さらに路線の延長を計画し、同二五年五月に三津~高浜間、二六年五月には松山外側(現市駅)~平井河原までの延長線が開通し、さらに二九年一月には立花~森松間の森松線、三二年一〇月には平井河原~横河原間か開通し、高浜~松山外側~横河原の幹線ルートが完成した。明治三三年に道後鉄道(現市内軌道線)と南予鉄道(現郡中線)の二社を合併・統合した。その結果、松山外側を中心として七六二㎜の軽便路線網が放射状に延び、総延長は四三㎞あまりに拡張された。
 森松線は平井河原線の松山外側よりの立花駅より、石井村(現松山市)上石井を経て、浮穴村(現松山市)森松に至る四・四㎞の土佐街道沿いに鉄道を敷設したものである。明治二六年に出願し、同年一二月に仮免許、二七年七月に本免許が下付された。二八年三月より工事に着手、中間駅石井停車場を建築し、二八年一二月竣工した。総工費は予定より二、〇〇〇円程安く二万六、一八七円余であるが、日清戦争のため工事人夫がなく苦労している様子が記録よりうかがえる。昭和六年一〇月に横河原線などと共に軌間拡築工事を終えている。
 伊予鉄道は鉄道・軌道業のほかに自動車部門にも本格的に進出した。昭和一九年(一九四四)一月、三共自動車を合併し、三共の営業そのままを引き継いで発足したのが自動車輸送の始まりである。県下では唯一の鉄道・自動車両部門を有する一大私鉄として、また電気関係を包含した独占企業として成長していくのである。
 戦後の営業状態は、一般経済界の影響を受けながら独自の原因がこれに絡み、複雑な高低を描きながら推移している。昭和二三年下期の鉄道・軌道業の営業収入は、全体の七三%に当たる七、四〇〇万円(うち鉄道が五四%)・自動車業は一九%の一、九〇〇万円であった。鉄道関係の乗客は、同二二年上期をピークに減少し始め、三三年下期に至り鉄道二八・軌道一六%に対し、自動車は実に五三%に浮上し、やや両者は開いていったが、蒸気機関車から高速のディーゼル機関車に二八~二九年にかけてきりかえた。客車も小型四輪車をボギー車に改造した努力が結実し、二八年上期の鉄道部門は、二三年の倍以上の一億五、八〇〇万円と著しく向上し、その後、大きな増減もなく進行した。一方、自動車部門は順調に伸長し、二六年下期の営業収入は九、〇〇〇万円、翌二七年上期の乗合自動車(定期バス)の収入は、七、四〇〇万円から三一年下期には実に一億六、一〇〇万円まで急増し、バス時代を迎えた。しかし、道路整備や三〇年代後半からの高度経済成長と共に普及した自家用車・貨物自動車などによる驚異的なモータリゼーションの到来により、主要道路の混雑などによるもろもろの問題が生まれてくる。

 森松線の廃止

 旧一級国道である三三号の道路整備は、一一万に次いで進行した。昭和三四年に着手され、同四三年には高知県境付近まで完了したが、急激な自動車化に追いつけず、都市部の渋滞は日常化していった。公共輸送機関として乗合バスは優位に立ち、鉄道は減退の一途をたどる中、国道三三号と平行路線をもち、国鉄バスと競合している森松線の経営も徐々に苦しさを増し、昭和三〇年度の輸送人員は一三一万人、三五年度は一一一万人にも下がり、四〇年度は一一月末の廃止まで六〇万人に減少した。途中、軌間の拡築やディーゼル化などによりサービスの向上に努めたものの営業成績は悪化し、遂に昭和四〇年一一月三〇日、七〇年間の幕を閉じた。当時の宮脇社長の決断の背景には、乗合バスが充実したのにもかかわらず、国道に並行した路線の回復不能が挙げられている。
 路線廃止直後の一二月から松山~森松間のバスは、鉄道の運行回数と同じ一九往復を新設して代替輸送をし、さらに大街道経由を五回増設した。この廃止により国道三三号は拡幅されたものの、この地域の急激な住宅地化を考えた時、都市交通政策上、悔やまれる廃止であった。

図交3-12 松山市街と森松線の路線

図交3-12 松山市街と森松線の路線


表交3-18 終戦直後の森松線発着時刻表

表交3-18 終戦直後の森松線発着時刻表


表交3-19 森松線廃止に伴うバス運行回数の増便

表交3-19 森松線廃止に伴うバス運行回数の増便