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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

七 松山空港発展史

 愛媛飛行場

 第二次大戦前、伊予郡松前町徳丸の重信町河川敷(通称横土手)、に愛媛飛行場という小さな民間の飛行場があった。幅六〇m、長さ一㎞。河原を地ならししただけの簡単なものだったが、航空局の認可を得た正式なものとしては県下第一号で、大正一四年一月にオープンした。同時に愛媛飛行練習所も開設された。所長兼教官が曽根定丸三等飛行機操縦士。単葉機一機(後に二機)で、主にビラまきなど商業飛行中心に活動していたが、飛行機が事故で使えなくなり、一年五か月で閉鎖された。この間教えた練習生は一人だけで、松山市の藤田武明だった(高市盛周『愛媛の明治・大正史』)。
 ところで、戦前における県下の民間飛行場は、陸上よりも水上機を用いた海岸の飛行場が盛んだった。ここで、戦前のわが国航空の事情について述べねばならない。戦前わが国の民間航空草創期は大正末年であった。わが国で最初の定期航空輸送を実現したのは、大正一一年(一九二二)に運航を開始した井上長一らの日本航空輸送研究所であったが、ほどなく朝日新聞社系の東西定期航空会と川西機械系の日本航空株式会社(現在の日本航空株式会社とは無関係)がこれに加わり、鼎立するこれら三社の活動によってわが国航空輸送史の序章が彩られたのである(昭和三年政府は国策会社日本航空輸送株式会社を設立、前記三社をこれに統合しようとしたが三社の足並みが揃わず、同一四年特殊法人大日本航空株式会社の設立によって最後までがんばっていた日本航輸送研究所も解散に追い込まれた)。

 梅津寺飛行場

 この三社のうち、西日本に縁が深かったのが日本航空輸送研究所(堺市大浜)だった。主宰者の井上長一は、海軍に働きかけて援助の内約をとりつけ、水上機による瀬戸内海運航を企図した。そして堺市の海浜に基地を設け、海軍から中古水上機の払い下げと現役操縦者の割愛を受けて、まず大正一一年一一月堺~徳島間週一往復と、堺~高松間週三往復の定期運航(主として貸物)を開始した。次いで同一二年末から非公式郵便輸送を、昭和三年からは本格的旅客輸送を始めるのであるが、この間路線の延長に努力し、高松線を大正一三年に今治へ、一四年に松山へ、一五年に大分へ、昭和二年には別府まで延ばした。この間、同研究所の事業はほとんど井上の独力によって経営された(それだけに井上は、他二社が無条件ないし原則的に同意したにもかかわらず、政府の統合政策を強く拒否し最後まで独自の運航を続けたのである)。
 こうして県内にも今治と松山に水上飛行場ができたわけで、旅客扱いが始まった昭和四年(一九二九)における松山の発着場は、当初温泉郡三津浜町広町(現松山市)の海岸だったが、同年八月から梅津寺の伊予鉄道埋め立て地北隅に事務所・格納庫が完成、移転した。梅津寺の飛行場は、当時松山周辺で唯一の民間飛行場として親しまれた(今治の基地については旅客扱いがなかったせいもあってか不詳)。
 昭和九年当時の広告には大阪、高松、松山間を往復一便(昭和一〇年に別府まで延長された)、松山~大阪間の運賃が一八円であること、貨物輸送、郵便物の取扱いが行われていることがわかる。
 使用機は当初三人乗りないし六人乗りであったが、昭和一一年には一九人乗りのサザンプトン艇「きりん」号が就航し、エアガールの空中サービスが話題になったと伝えられている(近年話題になっているコミューター航空を思わせるものがある)。
 なお、戦後の昭和三四年(一九五九)一〇月、日東航空株式会社が新居浜市黒島と大阪堺を結ぶ航空路を開き、水陸両用アッター機(定員一一名)を一週三便就航させた。のちグラマンマラード機にかわり、黒島~大阪空港間毎日二便制となったが、四〇年九月末をもって休止され現在に至っている。

 松山空港

 松山空港は県都松山市の中心部から西へ六㎞の臨海部に位置し、昭和四七年からジェット機の就航している空港である。
 松山空港の歴史は昭和一六年(一九四一)にさかのぼり、旧海軍の飛行場として建設されたのに始まる。その後終戦を経て、連合軍の管理するところとなったが、昭和二七年七月接収解除を機に大蔵省より所管換えを受け、昭和三二年度より諸施設の整備が行われ、昭和三五年一〇月一〇日F級第二種空港として使用を開始した。この間、昭和三一年三月から極東航空株式会社による松山~大阪線が初めての民間航空路線として開設された。
 その後、わが国の所得水準の向上などに伴い航空輸送が増大し、大型化・高速化の要請が高まり、昭和四〇年滑走路を二、〇〇〇mに延長する計画に着手し、四二年を初年度とする第一次空港整備五か年計画に基づき建設が進められ、四五年には海側へ延長三五〇m、四六年には陸側へ延長四五〇mを完成し、四七年四月、四国で最初のC級第二種空港として使用を開始した。同時にB―七三七型ジェット機が就航し、当時中四国では唯一のジェット化空港となった(なお、この間、昭和四一年一一月全日空YS―11型機の松山沖墜落事故が発生し、多くの犠牲者を出したことによって空港整備の緊要性が改めて認識された)。
 しかしながら、近年航空輸送需要は著しい伸びを示し、なお飛躍的な増大が見込まれているので、これに対応するため航空機の大型化を図るべく第四次空港整備五か年計画において滑走路を二、五〇〇mに延長することが決定され、昭和五八年には基本整備計画が決定された。工事は昭和六六年度完成が見込まれている。

表交3-23 松山空港の沿革1

表交3-23 松山空港の沿革1


表交3-23 松山空港の沿革2

表交3-23 松山空港の沿革2


表交3-24 松山空港における運行状況

表交3-24 松山空港における運行状況


表交3-25 松山空港整備事業の内訳

表交3-25 松山空港整備事業の内訳


図交3-13 松山空港利用概要

図交3-13 松山空港利用概要