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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 日本をとりまく世界環境

 欧米先進諸国と後発国日本の近代化

 明治・大正そして昭和の三時代にわたる愛媛商業史を述べていくに当って、まず最初に明治維新期、日本はどのような状況にあったか世界との関連から眺めてみよう。明治維新となって国際社会に仲間入りをしたわが国政府は、その国力の差に驚かされた。というのもイギリスをはじめヨーロッパ諸国では、既に産業革命を経験し、経済は長足の進歩を遂げていた。一九世紀中ごろ、イギリスは商工業部門において世界経済の中で優位に立ち、「世界の工場」として黄金時代を謳歌していた。一八五一年の第一回万国博覧会の開催はイギリスの国力を、まさに誇示するものであった。アメリカでは工業化が急速なテンポで進められ、また一八四八年のカリフォルニアの金鉱発見は西部への移住を促し、国内市場の拡大をもたらした。西部の開発が進む中、大陸横断鉄道が一八六九年に完成する。これはアメリカ東部沿岸からホーン岬を経由して、太平洋沿岸に到達する困難な海上ルートにとってかおるものであった。これより先、アメリカは安政元年(一八五四)、日米和親条約を結んで太平洋横断定期航路確立の基礎をつくっていた。ここにアメリカは大西洋→インド洋→アジアヘ至るルートと、太平洋横断ルートの連結を実現していく。一九世紀五〇~六〇年代、世界の交通(通信を含む)の発達は経済とともに目を見はるものがあった。一八五一年、ドーヴァーとカレー間に海底電線が開通し、一八六六年に大西洋横断海底電線が完成している。一八六〇年代は世界的規模での電線敷設を見た時代であった。一八七〇年には世界中が電線で張りめぐらされ、翌年にはダービー競争の結果がロンドンからインドのカルカッタまで、わずか五分で伝えられる状況になっていた。海上では定期航路の確立、船舶の大型化・スピード化が実現され、一八六九年にはスエズ運河が開通し、航路の短縮・運賃の低下をもたらした。交通の発達は世界を一体化するものであった。商業、コミュニケーションの急速な発達、自由貿易思想の普及は、当時の人々の目には世界が同一言語を話すひとつの国家へと向かっているかのように映っていた。
 コミュニケーションの発達、自由貿易思想の昻揚の中で商品・資本・労働の国際移動が進み、世界商業は、一九世紀中ごろ以降、拡大の一途をたどっていた。このような目まぐるしい世界の動きの中で、開国をした日本はその彼我の差に驚いた。ここにわが国政府の経済近代化政策、つまりキャッチソグ・アップ過程(西欧へ追いつき、追いこせ)が始まるのである。西欧の近代技術の導入、外国人技師の招聘や近代教育制度の確立がそれである。しかし、これらに劣らず重要なものは、国内における封建時代からの商業蔑視観を改めることであった。